11『放課後ティータイム』

 夢を見ている。

 すぐに夢だって判ったのは、アイツの羽織っているフーデットレインコートがグレーだったから。アイツが持っていたのはブラックで、グレーを持っているのは私の方。

 つまり、私は夢の中──無意識の世界で、アイツに自分のコートを着せてるワケだ。まあ、私なら一番上のスナップボタンは留めて着こなすとして。


 流石に──こじらせ過ぎでしょうに。


 そこは以前私の住んでいた団地内にある公園で、バスケットコートはなかったけどゴールならあった。

 夢の中、私はベンチに座って爪先で地面にのの字を描いている。

 スニーカーのカラーリングが目にうるさい。ファッションセンスも背格好も小学生だったあの頃に戻っている。

 アイツが膝を曲げた。膝から体幹へ、体幹から肘へ、肘から手首へ。一切の滞りなく流れてゆく全身の力が見て取れた。

 ジャンプシュート。

 あ──って思わず声が漏れた。ボールが指を離れた瞬間、どこに落ちるかわかったから。

 中学からバスケ部に入って、一年でレギュラーになって、去年の全国大会で優勝して。中学生でも全国に出たら、アイツより綺麗なフォームの選手はゴロゴロいたけど──。

 こうして眺めているだけで、こんなにもドキドキするシュートを打つのは、今でもアイツだけ。

 何か──乙女回路がフルスロットルしてる。

 あまりにも理想的な放物線ループ。ネットが乾いた音を立てて──。

 いつの間にか、私はゴールの前にいた。仮にここがコートだとしたらスリーポイントラインがあるだろう場所に突っ立って、自分の指先を見ていた。着ている服がさっきと違う。ロールアップしたスポーツショーツに、眩しいくらいオールホワイトなスニーカー。ちょっと──こなれた感じになっている。

「すっげぇ、五連続かよ」

 やっぱ才能あるぜお前──と言うアイツに、先生の教え方がイイんじゃないと微笑んで、地面に落ちていたボールを拾う。表面の微かなひび割れがすっと手に馴染む。パスをして場所を代わった。パーカーのマフポケットに両手を突っ込んで、邪魔にならないだろう位置からアイツの背中に尋ねる。

「何でスリーにこだわるの?」

「二点より三点取れた方がカッコイイだろ?」

「──それって目立ちたいってこと?」

 やや間があった。アイツがボールをゆったりと突く音だけが聞こえる。経験者となった今なら、それがどういう時間なのかわかる。手首の返しから指先の掛かり具合に至るまで。シュートのイメージを積み重ねているんだ。

「ああ、お前の言う通りかもな」

 アイツは、ゴールを見据えたままそう言った。微かに苦笑いの混じった声だったけど、それが余計に何かを押し殺そうとしているようで。夢の中の私は、止めておけばいいのに言葉を続ける。頑なにこっちを見てくれないアイツの態度が、ちょっとだけ気に障ったのかもしれない。

「何で、バスケ辞めちゃったの?」

 ジャンプシュート。

 それは、僅かに歪んだ軌道ながらも何とかリングを通過した。

 アイツはどこか気怠さを感じさせる足取りで、地面に落ちたボールに近付いて、

「お前はどうなんだよ」

 手に取ったそれをこっちへパスする。

 途端、時間の流れが緩やかになった。飛んでくるボールの縫い目がはっきりと見えるくらいに。

 私は、両手でそれをキャッチして──。


 雨の中にいた。

 背格好は今の自分に戻っていて、アイツが愛用していたブラックのレインコートを肩に掛けていた。フィッシャーマンズコートからひらめいたというラバーコーティングされたアウターコート。私からアイツへ、冗談っぽく色違いで同じの買ってよってせがんだもの。そして、アイツが置き土産として私に残していったもの。

 もう、目深に被ったフードを打つ雨音しか聞こえない。

 雨の向こうには何も見えない。それほどの豪雨なのか、そもそも向こうには何もないのか。

 手の中には、使い込まれたあのボールがある。でも、ボールだけ。パスしてくれたアイツはいない。

 ねえ、もうつくしと三人で暮らそうなんてバカなこと言わない。

 一緒にいたい、どこでもいいから連れてってなんて本気で頼まない。

「つくしさ、死んじゃったんだよ。もう三人じゃいられないんだよ」

 だから、せめて。せめてさ。

「慰めに来てよ」

              ※

 頬の内側にじわりと唾液が滲んで、目が覚めた。

 レモン──とつい呟いてしまう。

 革張りのソファに寝そべったまま、顔を横に向けると鏡花がいた。向かいのソファに腰掛けた鏡花はこっちをチラ見したあと、すぐ手元の文庫本に視線を戻した。

 セミロングの黒髪、リムレスタイプの眼鏡、腹筋に力入れてますみたいなわざとらしさを微塵も感じさせない、自然に伸びた背筋せすじ

 ただ本を読む姿が、これだけサマになる女子中学生もそうはいまい。

 ローテーブルには、とっくに冷めていてもおかしくないはずのレモンティーがある。けど、薄ら湯気が出ているから、私がそろそろ起きると踏んで淹れ直してくれたのだろう。

 カップの置かれたコースターは、輪切りのレモンを模している。この部屋でこれなんだから、きっと司書の自宅はカーテンがレモンイエローで、クッションもレモンの形で、レモンの匂いがするアロマとかが焚かれてるに違いない。想像しただけで、何か涎出てきそう。

「司書室は仮眠室じゃないのよ。せめて保健室を使ったら?」

「あそこだって仮眠室ではないでしょ」

 我ながらガキっぽい揚げ足取りに、鏡花が睨みを利かせてくる。ごめんって言って、冗談っぽく笑って見せようとしたけど。うん、自分でもわかってる。

 ──どうにもぎこちない。

「本当に大丈夫なの?」

「疲れが溜まってるだけ。体調は悪くないわよ」

 ここに来たのはこの娘に話があったから。


 今日、大野木家に帰るって伝えに来たのだ。


泉子もとこの家に転がり込んで、もうすぐ一週間が経とうとしている。いくら親友とその両親が大丈夫だと言ってくれたからって、流石に限度があるだろう。

 で、帰るって伝えたとき、鏡花は特に何も言わなかった。

 私が、みんなどうしてる──って、すごいバカみたいな質問をしたら、それこそすごいバカを見るような目つきで、見て確かめるのが一番だと思うわよ──って言われた。どこまでもごもっともだった。

 つまり、目的は当に果たしている。果たしてはいるんだけど──このまま家へ帰るのは何だか早過ぎる気がして。去年の冬に帰宅部デビューしたばかりの私は、部活動に励む以外の放課後の過ごし方にまだ慣れていない。

 結局、そのまま司書室ここに居ついてしまい、レモンティーの匂いとレモンピールがたっぷり入った司書の手作りクッキーの甘酸っぱさ、あと鏡花が規則的にページをめくる音とソファの心地よさなんかにリラックスしていたら、つい居眠ってしまって、今に至る。

 鏡花は、変わらず読書に集中している。

 ──勘違いされやすいだろうなぁ。

 無表情だけど無愛想じゃない。どんなときも冷静だけど冷淡じゃない。

 今年演劇部の部長になる泉子は言った。

 ──少し誤解を招くような響きになるかもしれないけれど、他人ひとに言うことを聞かせることにすごく長けている娘だと思うわ。

 バスケ部で後輩だったハナは言った。

 ──ボールを持っていないときの動きが素人とは思えないんです。パスだって味方がきちんとマークを振り切れるように出している。とにかくボールを持っている相手に、コート全体の動きに合わせるのが上手なんです。

 まさに文武両道。学校において学年も性別も問わず、一目置かれる存在。教師の間でさえ、まあ大野木家の四女に任せておけば大抵のことはどうにかなるだろうみたいな空気が漂っている節がある。

 でも、ココは。


 ──義姉妹の中で誰が一番可愛いかって訊かれたら、私は迷わず鏡花さんって言うよ。


 その"可愛い"には、あのしか知らない鏡花もたくさん含まれているんだろうけど。私の知ってる範囲で、なんだ可愛いとこあるじゃんって思うところもあるにはある。

 たとえば、義父のこと──玲市れいいちのことが好きなところとか。

 玲市はライターの仕事をしている。売れっ子かどうかは知らないけど、妖怪や伝説に関する記事を主に執筆しているらしい。鏡花も元からそういう趣味があったみたいで、先月もその手の講演会を二人で聴きに出かけていた。そのときの鏡花の格好──気合の入れようを見れば、まあ意識してんだろうなぁとは思う。

 ただ、それが家族として笑って応援していいレベルなのか、一線を越えかねないレベルなのかは、判断に困る。

 けど、晶がそのことでちょっとばかし鏡花をからかったとき、あのココが露骨に不機嫌そうな顔を見せたので、結構ギリギリのラインなんじゃないのかとは思う。

 ココは誰かを好きって気持ちとか、身体の特徴とか、そういう思春期の女子によくありがちな悩みをバカにする態度に対して容赦がない。

 ──年上に望みのない恋ねぇ。

 口にしたレモンティーから、苦味しか感じないのは。

 きっと、思い当たる節があり過ぎるせい。

 壁に掛かった時計を見た。司書はカウンターに出ていてしばらく戻らないと鏡花は言っていた。訊くなら──今のうちか。


「ねぇ、幽霊っていると思う?」


 鏡花が、こっちに目線を寄越した。ちょっとびっくりする。読書中に声をかけたときは、大抵ページを見たまま返事をするから。

「──信じたくはないわね。もし、いるのなら一度くらいは顔を見せてほしいものだわ」

 その頭に、思い浮かんでいるのは誰なのか。

 ああ、そうか。

 ごめん──と、すぐに謝る。

 鏡花は、この娘と同じ家で育ったココもだけど、両親を火事で亡くしているんだった。

 実の親がいないという点じゃ、私だって同じ。けど、私の場合、物心ついたときすでに父親はいなくて。父親の人となりは、偶にアルコールの入った母さんのグチから小出しに聞く程度だったし、母さんの方はある日突然姿を消して、そして二度と帰って来なかった。

 私の母さん──久喜くきみぞれ

 自分のファッションセンスを私に押しつけて──事実それは今の私から見ても良いセンスだったんだけど──私の選ぶ服も靴もバッグもアクセも、みんなダサいと一蹴して。ことファッションに関してだけは、最後まで一度も褒め言葉らしい褒め言葉をくれなかったけど。

 普段、目の前にいる娘の私がホントに見えてんのかよって不安になるくらい、とろんとした目が。

 あの瞬間──私が試着室から出て来るあの瞬間だけは。

 すごく真剣な目をしていて。

 娘としてっていうか、一人の人間として見られてるなって実感があって。


 子ども心に──すごく嬉しかったことを憶えている。


 私の方は行方こそわからないけど、でもどこかで母さんなりに誰かにチョー面倒かけながら、毎日お世話してもらってるんだろうなぁって思う。そういう尽くしてくれる相手を捕まえるの天才的に上手だったから。

 一方、鏡花とココの方は、ある意味じゃ行方が知れていて。そして、二度と会うことはできない。実の親がいない者同士と言っても、この差はデカい。

 鏡花は、何も言わない。何を考えているのか、わからない。

「私──」

 そろそろ帰るわと話を切り上げようとしたところで、

「ココにもそんなふうだったわね」

 口調が──鋭い。棘っていうより剃刀。ちくりっていうよりさくり。

「自分が悪いかどうかはともかく、相手の意見に耳を貸さないで、ごめんの一言ですぐに問題を打ち切ろうとする」

 鏡花が何のことを言ってるのかは、すぐにわかった。

 そう、ココにはもう謝っている。あの日衝動的にぶってしまったことを、色んな意味で傷付けたことを。学校にいるとき声をかけて、ちょっと時間をもらって、人気ひとけのない階段の踊り場で。

 というか──。

「聞いてたの?」

 時間と場所を指定したこっちからしたら盗み聞きでしょ。

 そう思ったから、一応威圧的に言ってみたけど、そりゃあもう全く効いていない。

 この娘は黒猫だ。大体優雅で、時にふてぶてしい。

「ココはね、時間がかかるの。思いを言葉にすることに。あの娘は誰かの言葉で他人ひとが変わることを、変えてしまうことを知っているから、人一倍時間がかかるの」

 ココと話してるときだけじゃない。ココの話をしているときも、鏡花の声はひたすらに優しい。

 確かに──私はココに謝るだけ謝って、さっさとその場を離れた。言いたいことだけ言って、自分の心にだけ痛み止めを塗って。万が一、ココの返事に傷付いたらヤだからと、自分可愛さに逃げ出したのだ。

 鏡花が、ローテーブルにそっと文庫本を置いた。

「認めると、ココのことを贔屓ひいきしている。義姉妹の誰より肩入れしているわ。でも、それでも──お願い。ココにもきちんと話す機会をあげて」

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