09『When It Falls』

 冷たくて、固い。目を開けた。躰の芯まで冷え切って、あちこちが痛むけど。

 何とか──生きてる。あの気味の悪い、十字架の形をした発疹も見当たらない。

 立ち上がり、スマホを拾った。ホーム画面を見て、ぞっとする。あれから二時間以上も経ってる。それに、もうすぐ二桁に届く着信履歴。寒さにかじかむ手で、かけ直す。二コールで出てくれた。

「ささめちゃん?」

 まこの声は、どこか緊張しているみたいだった。

「ささめちゃんは大丈夫なの?」


 ──ささめちゃん


「ココちゃんが、たった今見つかって」

 そこで、言葉が切れた。息を呑んだのは、まこか私か。

「つくしちゃんは、一緒にいるの?」


 欠片の期待も、こもっていない声だった。


 言葉が、出てこなかった。まこは、ノーと判断したんだろう。現状を説明して──くれているってことは、わかる。ただ、頭が情報を処理しきれない。処理することを拒んでいる。あのね、ささめちゃん。落ち着いて聞いて。ココちゃんとつくしちゃんが。家族の皆で。警察にも連絡して。

 私は──通話を切った。無駄だって思ったからだ。

             ※

 診療所のベッドの上で、手に持つ紅茶をただ眺めている。

 いつも通りのことがしたくてね──と不意に鏡花さんが口を開いた。

「躰を温めるならもっと他にないかって考えたのだけれど、とにかく落ち着きたかったから」

 だから、いつもの紅茶に──。

 水筒から注がれたばかりのそれを、口にする。美味しい。そう、言いたかったけれど。一切の前向きな気持ちを言葉にすることさえ憚られるような空気に、私はうんと頷くしかない。

 窓の外は、まだ雪が降っている。

 私が倒れていたのは、あのトンネルからそう離れていない山道だった。目が覚めて、最初に見えたのは涙ぐんでいる晶の顔だった。どうやら私の散歩コースを憶えてくれていたらしい。

 晶は今、隣のベッドに腰かけて紅茶を啜っている。コップを持つ両手が真っ赤になっていて──とても弱って見えた。私を背中に担いで診療所まで送ってから、その足でつくしちゃんも捜そうとして、まこ姉さんに止められたらしい。

 エンボスを見る。

 あんなに──強い幻覚に襲われたのは久しぶりだった。それが強ければ強いほど、ボスも深刻なダメージを負っているということ。テレパシーを何度か試してはいるけれど、やっぱりノイズしか拾えなかった。

「ごめんなさい」

 私が、先に助かってしまった。この状況を招いたのは、私なのに。私が、これまで積み重ねてきた行いのせいなのに。

 晶が、こっちを見た。哀しそうに眉根を寄せて、口をきつく結んでいた。熱いだろう紅茶を一気に飲んで、すっくと立ち上がった。

「やっぱ、捜しに行くわ」

 出て行こうとする晶の前に、鏡花さんが立った。

「何だよ」

 鏡花さんは、横目で一度私を見てから短く息を吐いた。それから、晶に視線を戻す。

「どうしてまこが貴女を止めたのかわかってる?」

「そんなの。私は、まだ全然──」

「躰のことだけじゃない。こうは考えないの? もし、貴女まで戻って来なかったらって」

 いなくなってしまったらって──。

 鏡花さんが、そっと晶の手をとった。

 鏡花さんの声色はいつも通りだ。いつも通り、とても冷静だ。だけど、その手だけは、幽かに震えているように見えた。

「貴女も、ココも。頑張ったわよ。だから、お願い。まこの気持ちも察してあげて」

 こんなにも──感情を表に出している鏡花さんを見るのはいつぶりだろう。

 晶は、何も言わない。いや、言えないのか。

 

 荒っぽく引き戸が開いた。

 雪に濡れたグレーのレインコート──肩で大きく息をするささめ姉さんがいた。

 つかつかと足早に近寄ってくる。唐突過ぎて、いまひとつ反応できないでいる鏡花さんと晶を押しのけると、いきなり私の胸倉を掴んだ。

「何か──憶えてないの?」

 目が、据わっている。それでいて、底なしに哀しい。

 赤い苔に飲み込まれ、かつての仲間だった狸と一戦を交え、幻覚に意識を失って──下唇をきつく噛んだ。何一つ、本当のことなんて打ち明けられない。そう、打ち明けてはいけない。

「憶えて──いないの」

 こんなにも、心を哀しみでいっぱいにしているに。

「ごめんなさい」

 私は、嘘を吐くことしかできないんだ。

 頬に衝撃。ややあって、ビンタされたんだとわかった。


「無事に帰ってくるって言ったじゃない!」


 ──え?

 ささめ姉さんは驚いたような顔で、私を叩いた自分の手を見て──。

 後ろに倒れた。晶が、レインコートのフードを引っ張りながら、足を払ったのだ。そのまま、ささめ姉さんの上に馬乗りになる。

 どうしたの──とささめ姉さんが言った。声に自嘲気味の笑いが混じっている。

「もしアンタが私で、ココがつくしだったら──私、絶対殴ってる」

 晶の顔は見えない。でも、どんな顔かはわかる。

 駄目。今の晶を、挑発してはいけない。そんな形で自分を罰しちゃいけない。

「晶!」

 私と鏡花さんの悲鳴みたいな声が重なって。

 晶は、舌打ちをした。ゆっくりとささめ姉さんから離れた。

 ささめ姉さんが上体を起こした。

 床に座ったまま、手で顔を覆って──泣かなかった。嗚咽は聞こえなかった。

 そのまま、私たちは止まってしまった。


 三月九日


 つくしちゃんの遺体が発見された。

 連絡があったのは、雪の溶けかけた朝早くだった。場所は、遊具だけが残る小学校跡地。一部小学生の間では、秘密基地と呼ばれているらしい。そこにある誰かが置いた古いベンチに、つくしちゃんは横たわっていた。あの日着ていた、ダッフルコートを頭から被って。

 生前に受けたと思われる傷も、死後に受けたと思われる傷もなかった。

 原因不明の心肺停止だった。小学生の女の子が、あんなに健康な娘が。

 最初につくしちゃんを見つけたのは島佐竹しまさたけ君。私の友だち──依鈴いすず先輩の弟で、つくしちゃんの同級生だった。


 そして、スニーカーが片方見つからなかった。


 つくしちゃんの通夜。みんなが、目に涙を浮かべる中で。

 ささめ姉さんだけは、泣いていなかった。

              ※

 葬儀が終わって、深夜。

 結局、アジトからは何も見つからなかった。落ちていたはずの銃も薬莢も。どうも──先客がいたらしい。弾痕に至っては、私とオオカミがつけたものさえ、さっぱり消えてなくなっていた。この調子じゃ、修繕済みの壁や床をほじくったところで何も出てきやしないだろう。

 引っかかったのは、スモークディフューザーや香炉傀儡こうろくぐつなんかのガジェット一切に、起動した形跡がなかったこと。故障していたワケでも、物理的に壊されていたワケでもない。まともに機能していれば、あの部屋に辿り着くことさえ難しいはず。

 ──空間転移系のワンノートか、あるいは装置か。

 私は、ベルトのケースにそっと触れる。中にはいざというときネイルガンの素体となるプリペイド携帯と予備の釘。そして、今回の"戦利品"──火傷から死に物狂いで引き抜いた、見るからに禍々しいそれ。今のところオオカミの素性を調べるのに役立ちそうなのは、どうもこの釘だけらしい。

 探索を続行しながら、腕時計に逐一ちくいち経過を伝える。返事はないけど、できないだけで聞いてる可能性はある。

 契約ギノーがコクーン体になると、テレパシーの有効範囲に制限を受ける。だから、そういう事態に備えて腕時計これでシャロとやり取りができるようにしている。ちなみに、向こうからの返事は合成音声。ギノーの声を機械で拾うことはできないからだ。


 つい、頬がゆるんだ。


 なら、電子音声現象って何なのとアイツに訊こうとして、でも話振ったら振ったで長くなりそうだって考え直して止めた──そんな、オチも何もない昔話を思い出したからだ。

 さて、非常時のコミュニケーションツールとして改造されたこの腕時計。これ自体は別に大して思い入れのない代物──って断言したいところだけど、滅茶苦茶悲しいことに思い入れはある。

 十朱のアパレルショップで仲良かったスタッフさんが、リニューアルオープンする百蘇比ももそひのお店へ異動になって、オープン初日に遊びに行った私にプレゼントしてくれたものなのだ。

 ただ、コミュニケーションツールとして当然ながらビジュアルに支障が出ない程度に改造してとシャロに頼んで、そのとき内蔵されたのが──どうも私らの世界にはない代物、疲れの原因物質を分解する特異なフィールドを発生させる合金だったらしく。

 シャロの善意という名の余計なお世話で、せっかくの思い出の品は普段使いできなくなってしまった。要するに、コイツを身に着けたままじゃ既来界を出られない。二つの世界を自由に行き来できないのだ。

 未来界から既来界へは大抵何でも持ち込めるのに、どうして逆は制限がキツイのか。


 ──モノの出入りに制限がある現状は、むしろ喜ばしいことだよ。


 それは、誰にとっての喜ばしいなのか。シャロは、いつも肝心なところをぼかしてくる。

 さて、機械は──原形を留めているモノもあるにはある。けど、シャロがいないんじゃどうしようもない。仮に機械がこの"戦利品"を通して何らかの答えを弾き出せたとしても、私にはそれが理解できない。いつも分析結果そのままじゃなく、シャロが私向けに噛み砕いた結果を聞いているだけなんだから。それに下手に触って壊しでもしたら、いよいよつくしを手にかけた連中に辿り着けなくなる。

 打つ手が、なくなる。

 割れた窓から外を見た。相変わらずこっちの空はダスティピンクに染まってるけど、未来界じゃあもう遠くの空が白み始めている頃だろう。そろそろ、家に帰らないと。

「中学生だもんね」

 結局のところ。どんなに強くなったって、どんなに背伸びしたって、どんなに足掻いたって。向こうに戻れば、私はただの女子中学生。


「こちらヒューストン。アポロ一一号応答せよ」


 ──なんつって。

 文字盤フェイスのエメラルドグリーンが鮮やかな腕時計ソイツから、やっぱり応答はなかった。


 家に帰った。

 足を止めたのは、晶と鏡花とココの部屋。つくしは、間違ってもココのせいで命を落としたんじゃない。オオカミのあの台詞──つくしがあんな目に遭ってしまったのは、百パーセント私のせいだ。私がヘマをやらかしたからだ。だとしたら、私はこれからこの娘たちまで危ない目に遭わせてしまうのだろうか。失ってしまうのだろうか。

 頭をブンブン振って、せめて形だけでも鬱屈とした思考を追い払ってやりたいところだったけど、それも何だか違うというか、今の私には気がして──。

 私とつくしの部屋に入る。二つある勉強机。二つあるベッド。あるだけで滅多に仕切ることのなかったカーテン。閉じたドアにもたれて、ずるずると背中を滑らせながら床に座る。


 こんな──広いんだ。


 つくしの勉強机を見た。教科書は教科毎に分かれている。制服はきちんとシワを伸ばしてハンガーにかけてある。私やまこがそうしなさいと口酸っぱく言ったわけじゃあない。案外几帳面だったのよね。お友だちの──しずりちゃんや鏡花に勉強を教わっていたかいもあって、成績が特別悪いなんて話も聞いたことなかったし。

 そう、い娘だったのだ。

 本当に。

「善い娘で──」

 いつの間にかいつもの流れで手にしていたカッターを、いつの間にか掌ではなく手首に押し当てていた。

 はっとしてカッターを手離す。落ちた音はカーペットに吸い込まれる。


 違う。


 今のは、いつも通り私の傷から釘を精製しようとしただけで──。

 手首に、ぷつりと血の泡が浮かんだ。

 そこに、言葉では到底言い表せないモヤモヤが、全て凝縮されているような気がして。

 ああ──これでいいのかもしれない。

 どうせ、もうは手に入らないんだから。


「つくし。ささめねーちんさ。つくしに会いたいよ」


 そう呟きながら、天井を仰いで。

 ──きしっ。

 ゆっくりと目を細める。今の音は?

 ──きしっ、きしっ、きしっ。

 出所が掴めない。ただ、何だか人の足音みたいに聞こえる。少なくとも、大人の歩き方っぽくはない。その歩き方に、強いて誰かを当てはめるなら──。小さく息を呑んだ。ヤバい。私は今、とんでもないことを言おうとしている。あまりにも甘えに甘えた結論を導き出そうとしている。

 言うな。それは呪文だ。まともに動けなくなる呪いもいいとこだ。言葉にしたら、自分に言い聞かせてしまったら、もう二度と抜け出せなくなる。なのに。

「──つくしなの?」

 ──きしっ。

 思わず、吐息が漏れた。

 ああ、何て都合のいい。やさしい魔法なんだろう。

              ※

 ささめんがプチ家出したと晶が言った。藤枝ふじえださんの家にしばらくお泊りするだけよ──とまこ姉さんがすかさず訂正を入れる。

 藤枝先輩はささめ姉さんの同級生だ。三つ編みのおさげに、すらりとした立ち姿がいかにもお上品で、泣き黒子ぼくろが何だか色っぽい人だ。

 確かに、その方がいいのかもしれない。つくしちゃんとの思い出が家族の中で一番多いだろうささめ姉さんにとって、この家で過ごすことは──あの部屋で毎晩過ごすことは、きっととてもつらいことだと思うから。

 私は、そうなんだと言う一方で。

 ちょっとだけ──ずるいと思った。

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