07『Mirror Mirror』
雪の動きは忙しない。夏の川辺に群れている、小さな羽虫みたいだった。
眺めているだけなのに、どうしてこれほど不安になるのだろう。向こう側を──
──別に、大して似てもいないだろうに。
そもそも、空から落ちてくるヒヒイロゴケは、もっと──ずっと穏やかだ。
つくしちゃんは、雪道の凹凸で遊んでいた。高い所をぴょんと跳ねるように踏んづけては、低い所まで両手でバランスを取りながら滑ってゆく。
「危ないよ」
つくしちゃんが、こっちを向いた。何か言った──とでも言いたげなきょとんとした顔に、私の声が届いていなかったのだとわかる。やっぱり、私はささめ姉さんみたいには到底なれそうもない。
散歩へ出ようとしたとき、つくしちゃんに一緒に行きたいと声を掛けられた。
そのとき、すでにつくしちゃんは黒いロングダッフルコートを着ていた。ロングに見えるのは、いつも通り多分ささめ姉さんの借り物だからなんだろうけど。
──つくしちゃんが、ついて来たいと言うなんて珍しい。
断る理由も特に思い浮かばなかったので、いいよと答えた。黒板に、家族宛ての伝言を残すことだけ頼んでおいた。
いつの間にか、隣に来ていたつくしちゃんが、私の腕時計を覗き込んでいる。偶々時間が気になったという目つきではなかった。
「何か──あるの?」
たとえば、観たいテレビ番組とか。
つくしちゃんは、何でもないよと言って、激しく
私は、つくしちゃんの目が苦手だ。
鏡花さんは、たとえ全てを見通す能力があっても、絶対全てを見通そうとはしない。他人が本気で見てほしくない、心から触れてほしくないと思っている部分は、それとなく察して見て見ぬフリをしてくれる。
けれど、つくしちゃんには──それがない。誰かの本当の姿をその瞳に映すことに、
だから──さっきからつくしちゃんの足許ばかり見てしまう。
──スニーカー。ささめ姉さんからの誕生日プレゼント。
出かける前、鏡花さんからは、足が冷えるから他のにしなさいと言われ、私からは雪で汚れちゃうだろうし止めた方が良いと思うよと言われ。それでも、つくしちゃんはやんわりとだけど譲らなかった。
──よっぽど、今日履きたかったんだろうな。
ややあって、赤煉瓦のトンネル前に辿り着いた。特別目的地だったわけではない。あくまで当てのない散歩なのだから。もう一度腕時計を確認する。片道にかかった時間から考えれば、そろそろ頃合いだろう。つくしちゃんも疲れてしまったのか、何だか口数が減ってきたような気がするし。天気予報を見てはこなかったけれど、雪の勢いが強くなる可能性だって否定できない。
──ここら辺で引き返そっか。
そう切り出そうとしたとき、
「カイジューが人間に
唐突に、つくしちゃんが口を開いた。
──怪獣。
私は自分でもよくわからないまま、小さく息を呑んでから、尋ねた。
「それは、なぞなぞ?」
「ねーちんには聞いてみたんだけどさ」
切なそうに、目を伏せるつくしちゃん。ねーちんとしか言わなかったけれど、多分ささめ姉さんのことだろうなって思った。つくしちゃんは背中の後ろで手を組んだまま、どこかたどたどしくも言葉を紡いでゆく。
「えっと、カイジューはさ、力が強いんだ。強いから、痛い思いをさせちゃうかもしれない。だから──怖いんだ。怖いから、大切な人の隣にいられない。守りたいなら、隣にいなくちゃいけないのに。カイジューだと、隣にいちゃダメなんだ。だから人間がいい。カイジューは人間に成りたいのに、どうやったら成れるのか、わかんなくて」
正直、びっくりしていた。とても不思議な感覚だった。
つくしちゃんが私に何を言いたいのかが、わかったからじゃない。
私が何をこの娘に言いたいのかが、わかったからだ。
ねえ、つくしちゃん──とできるだけ優しい声で呼び掛けて、差している日傘を少し、つくしちゃんの方へと傾ける。
「私は──どんなに強くお願いしたって、カイジューは人間に成れないと思う。でも、カイジューだからって理由だけで、大事な人の傍を離れなくちゃいけないのかな? カイジューが傍にいられないのは、怖がらせてしまうからだよね? だったら、みんなが怖くないような、やさしいカイジューであり続けるしかないよ。強過ぎる力に振り回されないで、いつでも優しくいたいって気持ちを忘れないでいられたら──つぶらな目の可愛いカイジューでいられるんじゃないかな」
つくしちゃんが、小さく目を見張った。それから、何かをぐっと堪えるみたいに下唇を噛んで。何も言わず、私に抱き着いてきた。いつもの体当たりじみたそれではなくて、良い意味でこの娘らしくない。
──
「ココねーちん」
頭をそっと撫でてみる。晶に撫でられることはよくあるけど、撫でる経験はほとんどない。だからだろうか。慣れない緊張がそんなふうに思わせるのだろうか。
──何だか、壊れてしまいそう。
ふと、遠くの木を見た。枝に薄ら積もる雪の輪郭が──。
赤く色づき、震えていた。
一斉に枝から落ちたヒヒイロゴケが、瞬く間に地面の雪を侵食してゆく。
つくしちゃんが、私にくるりと背を向けた。
私のことを庇うみたいに、大きく腕を広げた。
杉の木に負けないほどに高い苔の柱が、あちこちで勢いよく噴き上がる。
まるで、砲弾が飛び交う大海原に投げ出されたかのよう。
二人して、赤い津波に呑み込まれる。
私は、近くにいるつくしちゃんに、手の届くところにある義妹の背中に、手を伸ばして──。
※
ヒヒイロゴケにぐるりと覆われたトンネルにいた。
手に──日傘はなかった。
眼前を、
「似ているでしょう。その模様」
男性とも女性ともつかない、中性的な声と共に暗闇より
思わず、一歩踏み出そうとして──足が上がらないことに気付く。
靴の上に、翼を広げた鳥を模した葉──ワンノート〈
「
ココにそう呼ばれ、風利華は一瞬怪訝そうな顔をしてから、すぐに不敵な笑みを浮かべる。
「光栄だわ。まさか、かの有名な白い鬼に名を知られているなんて」
ココは、眉をひそめた。彼女の言動に、どうにも違和感があった。確かに今さら頭を空っぽにして、仲良く顔を突き合わせられるような間柄でないことはわかっているが、それでも──。
「ど、どうしちゃったの風梨華? 私のこと──」
言葉に、詰まる。
風梨華の口許に浮かぶのは、確かに見覚えのある笑み。
けれど、こんな目は。知らない。向けられたことが、ない。
「どういう腹積もりかは、まあいいとして、そんな悠長に構えていていいの?」
そう言って、風梨華が顎で後方を指した。
赤褐色の太い鎖が犇めきあって、彼女の背後にある出入口を閉ざす壁と化していた。
まさか──。
「つ、つくしちゃんは」
関係ないでしょ──と声を張り上げようとして。
突風。咄嗟に身を縮こませる。頭上で、破裂音が響いた。
はらはらと、自身の身に降りかかる、この葩は。
「──いつまで可愛い子ぶってんだコラ」
ああ、思い出した。
貴女がくれた髪飾り。
戦うしか能のない自分を、可愛い女の子みたいと言ってくれた。
ココは、眉を心底困ったふうに八の字に歪めて。
「うん、そうだね」
そう、自分に言い聞かせるように呟いて──涙の滲んだ目で笑った。
赤い
それが、決別の合図だった。
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