03『Cross the Red Line』

 名前を呼ばれたような気がした。

 てのひらに、ざらりとした感触。鳥居に手をついて、うずくまっているところだった。鳥居は、見慣れた赤い苔に覆われていた。

 立ち上がり、お腹をさすってみる。温もりは、あるにはある。もちろん私一人分の温もりで、動きもしない。

 ──幻聴なんて、今にびっくりするようなことじゃないか。

 くるりと振り返る。日傘は、どうしたのだろう。境内に続く鳥居に差し掛かったところで、目眩に襲われて、転ぶ寸前で鳥居に手をついて、それから──。

畦道あぜみちへ下りる石段の前まで、足早に戻った。

 灰色がかった桜色の空の下。

 田んぼも家も山も──見える全てが、赤い苔に覆われていた。


 ──ヒヒイロゴケ。


 それは、牛乳を零したような私の肌に、ちいさなちいさな赤い水玉を散りばめて──。

 踏んだ感じは、霜柱しもばしらに似ていた。

 目当ての日傘は、石段の途中に落ちていた。

 神社の石段は、一段ずつ上り下りするには面倒で、一段飛ばすには危うい。不親切な幅だと思う。いや、これは、爪先で探るような、私の歩き方が悪いのか。視力が人並みになった今となっては、ちまちま歩く必要もないのだけれど。

 どうも──癖になっている。

 日傘を拾った。畳んで、もう一度開いて。傘についたヒヒイロゴケを飛ばす。別に意味はなかった。桜の花びらで染め抜いたような空から降るこれが、止まないことは知っているし──。ヒヒイロゴケは、触れ続けている物質に、やがて〈同化〉する。だから、世界の全てがヒヒイロゴケに埋め尽くされることはあっても、世界がヒヒイロゴケだけになってしまうことは、恐らくあり得ないのだ。

 改めて鳥居の前に立った。目を伏せると、小人のひそひそ話みたいなノイズが聞こえ始める。


 ──着いたよ。


 そう、頭の中でメッセージを送って、くぐった鳥居の上──笠木かさぎぬきと呼ばれる、横木の間には、木彫りの河童が並んでお座りしている。そのじとっとした目に緑の光が灯っている──装置が外敵を阻む障壁として機能していることを確認してから、私はボスのもとに向かった。


「随分縮んじゃったね」

 口をついて出た感想じゃない。

 私なりにせめて場を和まられればと考えに考え抜いた冗談だった。

 ボスは、何も言わない。縁側に座って、私を見上げている。

 そう、

 岩のように大きかったからだが、今ではぬいぐるみのように小さい。ただ、頭の天辺てっぺんにある曇りガラスみたいな素材でできたドームや、恐竜を思わせる怖い顔、赤茶色のはだは健在で。履いていたズボンも、丈が短くなったくらいだった。

 コクーン体。

 酷いダメージなどが原因で、本来の姿を保てなくなったとき、ルーツ──人間でいうところの心臓であり脳でもある、とにかく彼らにとって大事なところ──を保護するために形成される仮初かりそめの身体。

 そういえば、ボスのこの姿を見るのは初めてだった。

「お呼び立てして」

「ううん、私も会ってお話したかったから。心配──かけちゃったよね」

 つくしちゃんのことで色々あって。

 昨日、使いのカエル君が家に来るまで、ボスの無事は確認できていなかった。いつもならテレパシーを使うのだけれど、ボスがコクーン体になった今では、それの有効範囲が百メートルほどに狭まっている。

 どのみち、顔を見て話したいとは思っていた。

 ボスの隣に腰かけて、

「つくしちゃんのこと、色々ありがとう」

 そう言葉にしてみて、はっとする。

 これは──。

「あの、今のは」

 捜してくれてとか、頑張ってくれてとか。

 そういう、言葉が圧倒的に足りなかった。

 皮肉に──聞こえたのではないか。

 そんな、私の不安をよそに、ボスの眼は。

 続きを待っているというより、みなまで言わなくても、わかっているから。私の不器用さは重々承知しているから。

 そういう──眼をしていた。

 だからこそ。

 ボスの口が開きかけたところで、何となく察しがついてしまって──。


「謝らないでっ」


 自分でもびっくりするくらい大きな声が出た。

 今のは、彼の発言を遮った──のだと思う。

 気のせいかもしれない。でも、目を見れば、何かを言いかけていたことはわかる。何を──言いかけていたのかもわかる。

「お願い。今回は、そんなに単純じゃないでしょ」

 ボスは、ええ──とだけ、落とすように言った。

 こっちの世界に風はない。だから、葉の擦れ合う音もしない。

 境内にカエル君達の姿はない。いつもなら──普通の蛙と変わらない大きさに、人間に近い骨格、木目調のはだをしたカエル君たちが、相撲やサイコロを使った賭け事──あちこちで思い思いのことをしていて。

 私とボスは、たまに私の作ってきたお菓子をつまみながら、それをぼんやり眺めているのだけれど。あの夜、やって来たカエル君によれば、今はみんな他所の八幡神社で療養中だそうだ。


「記憶が、一部消去されているのです」


 ボスが、口を開いた。

「あの日、自分が誰にやられたのか、いまだに思い出せないのです。消去と言っても、管理情報が変更されたに過ぎないので、時間をかければ復元リカバリーは可能です」

 ──ええっと。

 私の顔つきから察するものがあったのだろう。

 表向きだった硬貨を裏向きにされたようなものですとボスが言った。

 つまり、

 データは視聴できないだけで、まだそこにあるということ。

「神社からは何も?」

「ええ、神社を始め、この一帯を洗いましたが──何も。ただ、何かはあったようです。ヒヒイロゴケのコードもまた読み取れぬよう破壊されていました。一緒だったひょうすべたちも俺と同様、何らかの記憶処理を施されたようです」

 ヒヒイロゴケには、監視カメラのような働きもある。ヒヒイロゴケと接触していた人間の目と耳を借りた監視カメラ。必要な器材さえあれば、ほぼリスクなしでそれを観ることができる。

 ちなみに、ボスの言うひょうすべとは、私の言うカエル君たちのことだ。

 でも、何も手がかりを掴めないなんて──。

 どうして、今さら。証拠の隠滅を図るような工作をするのだろう。だって、が私の元に送り込まれた時点で、誰の仕業か喋っているようなものなのに。

「ねえ、ボス」

「はい」

風梨華ふりかに会ったよ」

 ボスが、目を見張った。

「私のこと、憶えていないみたいだった。それこそ記憶の一部を消されてしまったみたいに。風梨華をあんなふうにしてけしかけてきたってことは、きっと本気で私を足止めしたかったんだと思う」

 そして、その本気の試みは上手くいった。

 いや、私が上手くいかせたのか。

 その気になれば、止められたはずなのに。


 助けられる──命だったのに。


「風梨華は──まだ生きてると思う。彼女が、今回の件について何か知っているはずなの。たとえ、何も知らなくたって、手がかりは持ってると思う。もしかしたら、彼女の記憶をいじったのは、ボスたちの記憶をいじった相手と同じかもしれない。だから──」

 続く言葉を飲み込んだ。

 その先を、言ったら貴方は反対するだろう。

 奴を信用してはいけないと。背を預けるに値しないと。

 正しい言葉を並べるだろう。

「──何でもない。ごめんね。何をするにも、まずはボスが元気にならないといけないのに」

兵主部ひょうすべ報恩ほうおんのストックを使えば、ひとまず躰だけは元に戻せます。テレパシーの有効範囲も、あと一〇時間もあれば回復できるでしょう」

 いやに淡々としている。彼の目は、境内の方を向いていた。

 私は、膝の上に置いた生白い手に、目線を落とした。

 手の甲に浮かんだエンボスは、ドミノにサイコロの目を描いたような図柄をしている。


 エンボス──ギノーと契約したハンドラーの体表に現れる刺青いれずみみたいなもの。


 ボスが言うには、私のこれは牌九パイガオという中国式のポーカーで使うはいの模様で、梅を象徴しているらしい。

 エンボスの図柄は、ハンドラーの深層心理と相関関係があるそうだけれど。どうして牌九パイガオなのか、私にはまるで心当たりがない。

「ねぇ、ボス。やっぱりね」

 なんとなく、彼に頭の中を読まれている気がする。

 だから──。


「私のこと、少しでいいから、食べた方が良いと思うの」


 お互いに、目を合わせられないのだろうか。

「お嬢は──俺が倒されたとき、何をされていましたか?」

 胸が、締め付けられる。

 それは──ずるい。ずるい言い方だ。

「貴女には、もう恐怖を抱かせたくはない」

 貴方がいなくなることの方が、ずっと怖い。

 たった、それだけが言えないでいる。

 コクーン体は雛鳥みたいなもの。自分で餌を──獲れないことはないのだけれど、スペックが本来の姿が持つそれに遠く及ばない以上、身の安全を考えて、基本は親鳥が餌を与えることになる。

 ここでいう親鳥とは、ハンドラーである私のこと。

 そして、餌は負力ふりょくと呼ばれるエネルギーのこと。

 私からボスへ、負力を送る手段は二つ。私がボスと同じく負力とヒヒイロゴケでできた存在──ギノーを倒すか、もしくは。


 私自身が、負力を生み出すために怖い思いをするか。


 負力とは、文字通り負の感情のことなのだ。

「進展があれば、すぐにお伝えします。くれぐれも無茶をなさらないでください」

 無理ではなくて無茶なんだ。

 私が、言いかけて結局言わなかったこと。

 ボスはもうとっくに勘付いているのかもしれない。

 わかった──と頷く私に、想像の中のボスが言う。


 ──それは掟に反していませんか。


 確かにこれからやろうとしていることは、掟に反しているのかもしれない。

 ボスが動けない今、彼の力を借りて、つくしちゃんをあんな目に遭わせた奴を倒したとして、残るのは後悔だけかもしれない。

 でも、じっとしてはいられない。

 それに、わかってしまったから。

「ボスこそ無理はしないでね。私もボスが良くなるまでは大人しくしてるから」

 自分を──大野木ココを可愛がっているようでは。

 もう誰も救えないんだって。

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