02『Cartagra』

 つくしは、欲しがらない義妹いもうとだった。

 二人で服を見に行ったとき、私のオススメを喜んで着ることはあっても、買ってあげようかって訊いたら、いつだってどうしよっかな──と言って、曖昧に笑うだけ。顔馴染みのスタッフも一緒になってあれこれ勧めてみるけど、反応は変わらなくて。何だかいたたまれなくなった私が、ヨソに行こうかって声をかけると、あのかぶりを振ってこう言うのだ。


 ──あたしは、ささめねーちんの着てるヤツがいい。


 だから、いつも私の服ばかり着ていた。

 私とつくしの身長は二〇センチ以上離れていたけど、あの娘はが良かったから、オーバーサイズのずるっとした感じも着こなしに見えた。

 ささめねーちんの着てるヤツがいい──そこに、気遣いはあったと思う。大野木おおのき家は五人義姉妹で、つくしは末っ子だったから、お下がりの数には困らないワケだし。けど、それ以前に、あの娘には好きなもの自体がないんじゃないかって思えた。

 あの頃のつくしには、選ぶなんてこと、できなかったのだから。


 初めて会ったときの姿は、今でも憶えている。

 海外の土産物屋さんに売ってるような薄っぺらいワンピース、カット用のハサミを使ったかさえ怪しい雑なショートヘアは、そのくせ髪質にのみ妙に手入れが行き届いていて。

 靴は──履いていなかった。

 そこはマンションの屋上で、空はマンションの外壁とそっくりな埃色だった。

 私が着いたとき、あの娘はフェンスの前で、両手を真っ直ぐ上げていて。その先には、スニーカーがそれぞれぶら下がっていた。

 ──探検か?

 それが、つくしの第一声だった。

 ──まあ、そんな感じ?

 本当は、空に距離感を覚えなかったというか、ベランダから見上げたそれが、どうにも作りモノっぽかったから、もっと高い所に行けば、イメージも変わるんじゃないかと期待して、上ってみただけ──だったと思う。

 屋上に向かう途中、飛び降り自殺って意を決するものじゃなくて、案外こういうふわふわした気持ちから起きるのかも──とか、ダークなことを考えていた気もする。実際、自殺志願者っぽい人を見かけたら一一〇番か事務所まで──みたいな掲示が団地内にはあった。

 ──いいなぁ。けど、こっちは忙しいんだ。乾かしてるから。乾かさないと、怒られる。

 ──何やったの?

 こっちに向かって差し出されたスニーカーは、白い生地に浮かぶ黒ずみが湿疹みたいで。よく見ると、インソールが濡れていた。インソールだけが。

 私は、つくしの手許からゆるゆると目線を下げていく。

 つくしの素足は──。


 ──すげー。お医者さんみたいだ。

 両足に包帯を巻く私の手つきに、つくしは目を輝かせながらそう言った。

 ──でしょ? 

 ちょっとだけ得意げになりつつ、私は医療用テープ──なんて代物は言うまでもなく持ってなかったから、ただのセロテープで包帯を止める。

 我ながら、あそこで母さんのナプキンを使おうとひらめいた小学生時代の自分を褒めたい。包帯をじかに巻いただけじゃ、すぐに滲出液しんしゅつえきが滲んでいただろうから。

 ──はい、オーケイ。けど、ちゃんとホンモノに診てもらいなよ?

 ちょっとやそっとじゃほどけないかどうか、触って確かめていると、

 ──治るよ。

 声が降ってきた。はっきりとした口調だった。

 ──もう、治ってるよ。

 今でも思う。

 あれは、笑顔なんかじゃなかった。ただ、頬を緩めて。心配しないでって、言ってくれているようで。勘繰らないでって、警告されているようで。

 普通、これくらいの年の子が、質の悪いイタズラが業者の不手際か、路上に撒かれた薬液か何かを踏んで足の裏がただれたら、そりゃあ泣いてお家に帰るだろう。

 なのに、この娘は。その足でスニーカーを履いて、濡らしたから、乾かそうと思ったから、ここへ来て。でないと。

 怒られるからって。

 ──じゃあ、おまじないね。

 人差し指と親指で、つくしの足の甲から、何かを摘んで抜く素振りをする。


 ──クギを抜いたの。痛みのもとになっているクギ。痛いだけじゃなくて、かゆいとか気持ち悪いとか、そういうのも全部まとめて、今抜いたの。だから、もう治ってるよ。


 そんな精一杯の子ども騙しに、つくしは目を細めて──笑ってくれた。

 白い前歯が、ほんの僅かに欠けていた。


 だから、好きなものを見つけてほしかった。

 自由に選んでいいって知ってほしかった。

 二月末のその日、つくしと出掛けた目的は、誕生日プレゼントの下見だった。三月六日でつくしは一〇歳になる。服に靴、アクセサリーからステーショナリーまで。色んな店を回って、色んなものを見て、あの娘がちらりとでも目を輝かせるものがあれば、後でこっそり買いに行く──そういうプランだった。

 そう、そういう、プランだった。

 あの言葉に、つい思考が停止してしまうまでは。


 ──なあ、ささめねーちん。これ欲しい。


 帰りのバス。つくしはうとうとしていた。

 着いたら起こすよって伝えると、もうすぐ五年生だしヘーキと言われた。その腕に抱えられている、ラッピングされた箱。

 サプライズの──つもりだったのに。

 つくしの口からこれが欲しいと聞けた嬉しさのあまり、即行買ってしまうだなんて。

 オレンジ色の空に目を細める私の肩へ、つくしは小さな頭を寄せて。


 ──ホントはさ。ねーちんのくれるものなら、何でも嬉しかったぞ。


 つくしは、そう言った。次第に瞼が閉じてゆく。

 それは、今日一日私が連れ回したせいだと思ったから。

 ごめんねって口にする代わりに、頭を撫でた。

 そして、つくしは一〇歳になった。

 だけど──。


「五年生にはなれなかったね」

 私とつくしの相部屋。

 私は、膝に片っぽだけのスニーカーを抱いている。

 キャンバス生地のキャメルが、つくしの髪の色にちょっとだけ似ている。

 本当に──何でも良かったのだろうか。

 何でも嬉しかったって言うなら、このスニーカーは。

 あの娘なりの気遣いだったの。


 優しい──嘘だったの。


 もう、その答えは一生わからない。

 そのうち、この部屋は私とつくしの部屋ではなくなる。誰かがそれを決めるんじゃない。そんなつらいこと、他の誰かに決めさせちゃいけない。

 私が決めないと、みんな──いつまでもじっとしている。じっとして、くれている。

 だから、私が早く立ち直って、引っ張ってあげないといけないんだ。

 掌に、カッターを当てる。

 ──きしっ。

 天井から降って来た物音に、私は一瞬手を止めて自嘲する。

 ねぇ、頼むからさ。


「あんまり──期待させないでよ」


 生命線に沿って、刃先を動かす。

 亀裂からぷつぷつと血の玉が覗く。

 ──クギを抜いたの。痛みのもとになっているクギ。

 ああ、これは釘だ。釘の頭だ。

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