弦九郎げんくろうを先頭にして足の速さに自信のある者が数名、寺から逃げ出すように走り去った影を追いかけていくのを見送ったあと、直鷹なおたかは夜半とは思えないほど篝火が焚かれた寺内へと足を踏み入れた。

 夜空で一声鳴いた鏑矢のせいで、本来眠りにつくべき時間だというのに寺の中は俄かに殺気立つほどの気配に満ちている。降り積もった雪は、幾度も踏まれ固い地面を作り上げており、阿闍梨が育てた草木は、墨色に染められた僧衣が近くを通り過ぎるたびにハラハラとその化粧を落としていった。

 どうやらこの寺の主である阿闍梨が、弟子達を起こし警護に当たらせ始めたようだ。


さかき……は、もう阿闍梨のところか? 綾姫あやひめの様子伺いにいったあとは、そっち行くっていってたよな)


 現在、この寺の中で要人というべき人物は、まず守護大名である阿久里あぐり、そして他国の客人であり水尾直家みずおなおいえ許嫁である綾姫、そして寺の主たる阿闍梨だろう。状況にもよるが、三者が同じ部屋にまとまってくれていた方が警護としてはやりやすい。

 恐らく彼女も、そして阿闍梨も同じような結論を出すだろうし、あの気の強そうな暫定兄嫁がそこで我儘をいっていないといいのだが。

 直鷹は白い浄衣の裾を凍える空気に翻しながら、革足袋かわたびの先を阿闍梨の住まう庫裡くりへと運ぶ。流石にこの寺の主たる人物の住まう場所とあって、既に下男か弟子の手で雪掻きがされていたのだろう。両脇に除けられた雪の中央に、式台玄関までの飛び石が走っている。

 入口には篝火が焚かれており、その前には阿闍梨を護るように数名の若い僧がおり、そしてそれに詰め寄るようにがなり声を上げる直垂姿があった。

 どうやら綾姫の供をしてきた高梨たかなしの家中の者らしい。


「阿闍梨」


 直鷹が高梨家の者たちを飛び越え、この寺の主へと声をかけると、弾かれたように周囲の視線が一斉に彼へと向けられた。阿闍梨は直鷹の姿を見留めると、軽く首を引きそのたっぷりとした顎を僧綱襟そうごうえりの中へとしまい込む。

 一見いつも通りおっとりとした穏やかな所作ではあるが、けれどその頬は緊張に硬くなっており、直鷹を見つめる瞳の奥はひどく鋭い光を宿している。

 日頃、ただただ穏やかな年嵩の人物からの空気に、少年の喉は迫り上がってくる不安を飲み込むように、自然と上下した。


「榊家の、者か」


 直鷹へと視線を寄越してきた直垂集団のうちのひとりから、声がかけられる。彼が阿闍梨からそちらへと瞳を向けると、そこには直鷹の父親よりやや年嵩かと思われる男の姿。年の頃、五十ほど。この度、綾姫の輿入れに付き添ってきた者であり、今後も場合によっては鳴海国なるみのくにに綾姫の従者として留まる者なのだろう。

 榊家の御伽衆である「水尾直高みずおなおたか」として今、この場にいるのだが、正直、高梨家の者にこのおもてをはっきりと認識されるのはまずい。相手がそのまま水尾に仕えることになる者ならば、尚のことそうだ。

 けれど状況的に、すでにそんなことを心配するような時期はとっくに越えている。


(ま、後のことは後で考えればいいか)


 直鷹は、は、と一度息を整えると、真っすぐに男の鋭い眼光へと自身の視線を返した。


「はい。御伽衆を務めております、水尾直高、と申します」

「……ッ、水尾、だ……と?」

「榊さまの家老職を務められる、ご本家筋のお方です」


 まさか自身の主たる姫君が嫁ぐ先の家名を聞くとは思ってもいなかったのだろう。男の瞳が、驚愕に見開かれる。その先走った早とちりを、阿闍梨がやんわりと訂正し、彼は半歩ほど草履を引いた。

 ジャリ、と濡れた音が石畳で響く。


「水尾どのもいらっしゃったことですし、ここで立ったまま話すような内容ではありますまい。わたくしの庫裡に女房衆はお預かりしておりますので、お上がり下さいませ」

「女房衆……?」


 阿闍梨の言い回しに、直鷹の語尾が持ち上がった。

 いま、この栄福寺えいふくじにいる女人にょにんの代表格といえば、鳴海国の守護大名である阿久里に、その客人である綾姫だろう。さらに、阿久里が伴っていた乳母子めのとごであるみわに、綾姫に付き従う侍女数十名。

 阿闍梨の家族も勿論この寺に住んでいるが、それは「お預かり」とはいわないはずだ。

 間違いなく、預かっているのは阿久里と綾姫、ということだろう。


(でも)


 確かに「女房衆」というのは、女全般を意味する言葉だ。

 妻という意味にもむすめという意味にも使われるし、文字通り侍女連中を指す言葉でもある。

 阿闍梨からすれば、阿久里は主君に当たる存在だ。日頃の彼の言動を考えても、きちんとそれを敬っていることはわかるし、また他国の大名家姫君を以てして「女房衆」という表現をするだろうか。彼ならばきっと「姫君」や「御屋形さま」といった表現を使うはずだ。

 直鷹の訝しげな視線に気づいたのか、阿闍梨の瞳が一度地面へと落とされ、くくれた顎がいくつもの皺を刻む。「阿闍梨?」と問う少年の声に、びく、と肩を揺らした彼は、再びその瞳を直鷹へと向けてきた。

 直鷹の胸の内で、飲み込んだばかりの不安が再びじわりじわりと立ち上る。

 知らず握りしめた拳が、カタカタと震え出した。


「阿、闍梨……」


 乾いた喉の奥から零れ落ちた声が、音になっていたのかさえ、わからない。

 日頃は弧を描く阿闍梨の唇が僅かに開き――そして、躊躇うように一度噛み締められる。

 けれど。


「御屋形さまと、高梨の姫君が攫われました」


 その一瞬のちに彼から紡がれた言の葉は、空の闇よりも黒く、頬を撫ぜる空気よりも冷たいものだった。

 手に持つ松明の炎が、ゆらり、少年の不安を煽るように揺れる。

 は、と吐き出した息で濁った視界に、吐き気を覚えた。

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