「水尾さま……っ!」


 通された部屋に足を踏み入れた瞬間、その場で伏していた少女がそのおもてを持ち上げた。まるで古くなった戸を無理やりこじ開けるかのような動きでそちらを見遣れば、そこにいたのは想像通り阿久里あぐり乳母子めのとごであるみわが泣き腫らした顔をこちらへと向けている。

 直鷹なおたかは彼女のその表情に、先ほどの阿闍梨の言の葉が真実のものであると突き付けられた。


「私がっ、私がついていながら……っ! 水尾さまに……、ひ、姫……姫さまを、頼む、とっ、そう、命じられましたのに……っ!」

「いい。みわ、いいから。何があったかを、ちゃんと教えてくれ」


 額を床に擦り付けるように伏し、涙で声を滲ませる少女の肩に手を置き、直鷹は彼女のおもてを上げさせる。阿久里と知り合ってから半年――その間、花咲城はなさきじょうに何度も上がったが、彼女の傍にいつもいた侍女はみわだけだった。

 乳母子ということもあるのだろうが、父に冷遇され家族とは隔て生きてきた阿久里にとっては、きっと本当の姉妹のような存在なのだろう。


(俺にとっての、恒昌つねまさみたいなもんだよな)


 そこで本当の兄である直家なおいえが出てこないのは、やはり自身の中では兄は主君として見ている部分が大きいからなのだろう。ともあれ、目の前で阿久里を攫われた彼女の心の痛みは察して余りある。


「ふん、自分たちばかりが被害者なのだというツラだな」

「……お言葉が……」


 すでに部屋に通されていた高梨たかなし家の者が、感情の温度のない表情で直鷹へと視線を向けてきており、その中でも先ほど阿闍梨へと詰め寄っていた年嵩の男が鼻先に皺を刻んでいた。

 それを静かに諫めるのは、昼間庭で見かけた「小次郎」と呼ばれていた男。


(そういや外に様子見に出るとき、こいつに何かすることないかって声かけられたんだっけ)


 ということは、少なくともあの時点ではまだ綾姫の身に危険が差し迫っていたような状況はなかったということだ。

 ――もっとも、彼が今回の誘拐騒動の主犯でなければ、という話だが。


(今回の事件は、ほぼ綾姫の自作自演による狂言に間違いない)


 水尾へと嫁ぎたくない綾姫が、攫われたというていを装い、そのまま失踪。そしてその後、意中の男と落ち合い逃げる――。

 当初の筋書きとしてはその程度のものだったのだろうし、誰の入れ知恵かは知らないが、鏑矢で榊の者を外に出したのも、その計画の内だったのだろう。

 けれど、阿久里も共に攫われたという辺りから、確実にそうともいい切れなくなってしまった。


(もし、その狂言誘拐を利用して、榊家当主の身柄をも攫うことが目的だったのだとしたら……?)


 否。

 そこまででなくとも、姫君の狂言に巻き込まれ誘拐されたのだとしたら、その後全ての事情を知った阿久里は完全に用無しとなる。よくて、人買いを生業とする者に売り飛ばされる――もしくは遊郭に直接売られるか。


(最悪、その場で物言わぬ身体にされるな……)


 自身の考えに、思わず背筋に冷たいものが走り抜けた。知らず、握りしめた拳が骨を隆起させる。


(落ち着け……落ち着け……。まだなにも、決まってないんだ)


 直鷹がみわの横へと腰を下ろすと、その後ろから現れた阿闍梨が戸を後ろ手に閉じ、その場へとしゃがみ込んだ。上座で円を描くように座っていた高梨家中の者たちが一斉に身体の向きを変えると、ジジ、と燭台の上の蝋燭がゆらりとその輪郭を歪める。

 空気が揺れたせいだろうか。ふわ、と鼻腔を擽るにおいに気づき、直鷹がそちらへと視線を向ければ、一際目を惹く年若い女の姿があった。

 黒い艶やかな髪に、化粧をせずとも白いおもて、長い睫毛に彩られた瞳の力はただただ強い。質素な小花の描かれた海老色の小袖に薄紅の蔽膝へいしつ(前掛け)をしていても、その際だった美貌は一国の姫君といわれても十分納得できるほどのものだった。

 直鷹は視界の端に彼女を映しながら、「これが噂の綾姫そっくりの侍女か」と独りごちる。

 綾姫が連れていた侍女は数十人に上るが、きっとその瞬間に傍近くに控えていたのは彼女だけだったのだろう。


「榊家当主の御伽衆を務めております、水尾直高みずおなおたかにございます」


 直鷹が口上を切ると、高梨家の人間も次々に名乗り始める。


能勢小次郎朝充のせこじろうともみつと、申します」


 そして最後に名乗り、こうべを下ろしたのは、昼間、「小次郎」と呼ばれていた男だった。能勢、という姓には直鷹も聞き覚えがある。確か遠賀で古くからある名家であり、守護大名家だった多田ただとも遠いものの縁戚関係だったはずである。

 けれど年齢が若いせいか、この場ではさほどの権力は与えられていないようだ。専ら傍らいる侍女のお守りをさせられている。


「この栄福寺えいふくじの住職として管掌させて頂いております。此度は、わたくしどもの寺にて、このような事態になり……まことに、真に、申し訳がなく……」

「阿闍梨。悔いるのも、謝罪もあとにしましょう。誰が、いつ、どうやって、さか……、――御屋形さま達を攫ったのか、まずはそれを確認させて頂きたい」


 声を震わせながら謝罪の言葉を口にし始めた阿闍梨を止め、直鷹の黒い瞳がゆっくりと部屋へと巡っていく。上座付近でまとまっている高梨家の者たちは、一度互いの顔を見合わせたあと、面白くないとでもいうように鼻先に集めた感情を吐き出していた。

 ただひとり、男たちの中で視線が合わなかったものは能勢と名乗った彼だけだった。能勢は相変わらず気遣わしげに、隣に座している侍女へと睫毛の先を向けている。


(……へぇ?)


 直鷹の睫毛が、上下した。


「あ、あの。水尾さま……わた、私が……、その場におりました、ので……、お話、させて頂きます……っ」


 隣に座るみわから声が上がり、直鷹は彼らへと這わせていた視線を断ち切ると、そのままそれを少女へと流す。

 みわが語るところによれば、直鷹へと外への警戒の指示を出したあと阿久里は彼女を連れて綾姫の部屋を訪れたようだ。そしてちょうど部屋へと足を踏み入れようとしたその瞬間、部屋から物音が聞こえ、見れば覆面の男たちが数名ほど押し入っていたところだったらしい。

 その後あっという間に長持ながもち(収納木箱)の中に綾姫が放り込まれ、庭から現れた同じく覆面をした男に阿久里を攫われたということらしい。


「その時、なんか引っかかったこととか思ったことはない? なんでもいい、さ……御屋形さまがいっていたことでも、なんでもいいんだ」

「えー、っと………………あ! あ、の」


 一瞬記憶を探るように宙を彷徨ったみわの瞳が、再び少年へと向けられた。


「大した、ことじゃないんですけれど……」

「うん。いいよ」

「姫さまと部屋を訪れるとき、人気ひとけが全くなかった気が、致します……」

人気ひとけ?」

「はい……。あの、こういうときって、まず自分の主人を護ろうとするので、部屋の前の警護って手厚くなると思うのですが……」


 だが、実際は綾姫の部屋に至るまで、警護の姿は見当たらなかったらしい。

 そのことに気づいた阿久里が訝しげな表情をしていたということだ。


「なんだ、藪から棒に! まるで姫さまが攫われたことが我らに非があってのことように聞こえる……ッ! 無礼ではないか……っ!!」

「そうだ!! 我らはここが守護大名である榊の寺と思ったからこそ、信頼しておったのだ!!」

「……あぁ、そうだ。確か、能勢。お主が榊へと事情を訊ねに参ったのではなかったか」


 高梨家の家臣から一斉に怒りの声が上がる中、年嵩の男が思い出したように能勢へと視線を向けた。彼は一度まばたきをすると、是と返事をする。


「鏑矢と思われます音が鳴り響きましたので……、ご住職か榊のどなたかわかる方に事情を訊ねるために……」

「あぁ、さっき出るとき山門やまとの辺りでお会いしましたね」

「はい。水尾どのが外に様子を伺いに行こうとされていましたので、同行しようかとお声をかけましたが……」

「流石にお客人ですから……姫君の護衛を増やした方がよろしかろうと、ご遠慮申し上げたんですけどね」


 皮肉を含ませた声を返せば、上座にいる男たちの眼がますます大きく見開かれた。けれど、指摘されたことはまさに彼らの失態でもあるために、反論の言葉が見つからなかったようで、グ、と唇を噛み締めている。

 けれど。


「そもそもこの寺への賊の侵入さえなければこのような話にはなっていなかったのではないか。――榊の若衆よ」


 突如、阿闍梨の背後の戸よりくぐもった声がかかった。

 一斉に室内の視線がそちらへと走り、阿闍梨の巨躯が半身を引いた瞬間、乾いた音を立てながら戸がス、と開かれる。


「多田、さま」


 高梨の者たちより呟かれた名を追えば、戸の向こう側に褐色の直垂姿が現れた。そのままツ、と視線を持ち上げると、昼間「多田」と呼ばれていた男の姿。ぎょろりとした目がまるで虫でも見るかのように直鷹を見下ろしていた。


「それは、ごもっともなお話ですね」


 直鷹がその視線を真っすぐに受け止めながら、それでもこうべを下げずにいると、舌打ちをしながら彼の足が室内へと踏み込んでくる。ダン! と、力任せに閉じられた戸が、反動で僅かな隙間を再び作り出していた。

 

「榊家は、当家の非を指摘する前にご自身の罪をまず悔やまれては如何か! 水尾へと嫁するためにご実家を発たれた姫君を誘拐されたなど……、我が殿になんと申し上げればよいか……! その責任を、榊はどう取られるおつもりか!!」


 昼間、水尾との縁談をあれほど渋っていた口はどこへいってしまったのか。

 直鷹の胸中には冷えた感情が沁みていくが、同じくそれを聞いていたはずの阿闍梨は、どうやら管掌する寺で預かっていた客人どころか主たる少女まで攫われ心が完全に委縮しているようだ。

 大きな身体を震わせ、謝罪の言葉を呟きながら時折「御屋形さま」と栗色の髪の少女を呼んだ。


「……勿論、当家と致しましても、全力でお探し申し上げるつもりです。……それで、みわ。ほかに、なにかあったか?」

「あ、えと……。あと、は…………」

「攫われたとき、なにか証拠となるようなものはなかったか?」

「わ、かりません……。皆、手拭いで顔を覆っていましたから……」


 賊が綾姫の部屋に迷わず押し入ったことを考えても、間違いなく目的は綾姫だったということだ。

 阿久里が彼女の部屋をおとなうことまで予測していた可能性も否定は出来ないが、例えば彼女が自分を伴い部屋を訪れていたら、少なくとも阿久里が攫われる事態だけは防げていたのだからそれはないだろう。


「とりあえず、榊の若衆よ」


 みわの証言ののち、しばらく沈黙の落ちていた室内に多田の太い声が響いた。

 その呼び名は、どうやら榊の当主が女であり彼女の御伽衆をしている直鷹を男妾とでも思っているかのようなもので――。

 隣にいるみわの表情が一瞬鋭く、険しいものとなる。

 けれど、直鷹はその挑発に乗ることなく、真っすぐに彼へと視線を返した。そんな揶揄は、この半年散々受けてきたので、今さら痛くもかゆくもないというのが本音だ。


「水尾直高、と申します」

「……ふん。榊の、家老に連なる家の者か」

「はい」

「ならば、水尾どのとやら」


 先ほどまで高梨を仕切っていた年嵩の男が口を噤んでいるところを見る限り、どうやらまだ二十代半ばとも思われるこの男が、この綾姫の輿入れ一行の中で一番身分が高いのだろう。

 多田という姓から考えて、十中八九、遠賀国とおがのくにの元・守護大名家の家柄に違いない。


高梨海山たかなしかいざんの国盗りに際して、味方することで追放を免れた傍系の者なんだろうな)


 直鷹が多田の素性にある程度の予測を立てながら視線を向けると、太い眉を殊更持ち上げながら彼は早口に捲し立てる。


「簡単に賊を入れ込むような寺に泊める榊など、こちらとしてはもはや信用できん。一刻も早くこの寺から辞させて頂く。新たな被害を防ぐためにも、姫さまの連れてきている侍女どもを逃がす必要もあるだろうしな」

「……信用を損なってしまったことは、幾重にもお詫び申し上げます。そして、そう思われるのも無理はないことかとは思いますが……」

「ふん。物分かりがよいではないか。――して、能勢。お前はどう思う?」


 突然話を振られた能勢は、はっ、と弾かれたように顔を持ち上げた。


「……っ、あ、はい。そう、ですね……。姫君捜索の人員は残すにせよ、一度、殿のご判断を仰ぐために女房衆は国元へと帰してもよいのではないかと……」


 能勢は自身の思考を探るかのように、一言、一言、慎重に言葉を紡いでいく。そしてちらり、視線を傍らの侍女へと向けたあと、多田の言に従うように頷いた。


「お前もそう思うか! そうだろう。女どもは逃がしてやるのがいい。もっとも、賊がまだこれからもここに攻め入ってくるとも限らん……。榊の姫もさぞご不安に思われているのではないかな。一度みな、ここを出た方がよいのではないかと思うが、如何かな。水尾どの」


 早口で捲し立てられた言葉のうち、どうしても引っかかった箇所に直鷹は眉を顰めた。


(榊の姫……?)


 間違いなく、阿久里のことだろう。

 けれど、賊が攻めてくるもなにも、そもそも攫われているのだから不安もなにもないだろうに、多田という男はなにをいっているのか。


(あれ……こいつ、もしかして)


 阿久里が攫われたということを、知らないのか。

 確かに彼女が綾姫と共に攫われたという話題は、彼がここに来てから一切されていなかった。知らないのも無理はないのかもしれない。

 けれど。


「お待ちください。このような時刻に、しかもやんだとはいえ、外にはいまだ雪が積もっております。女房衆を連れて、どちらに行かれるおつもりです?」

「そ、それは……っ」


 そもそも、この地に縁づいた者がいなかったからこそ、榊家へと一晩の宿を借りる羽目となったということを、忘れたとでもいうのだろうか。

 そこまでして、この寺から人をかしたいという理由は、一体どこにあるのか。


(間違いないな……)


 この男が、綾姫の狂言誘拐の共謀者――もしくは、彼女の想う人間とやらだろう。

 誘拐されたはずの姫君の心配ではなく、残った女たちの身柄の始末を心配している時点で、姫君の無事など確認されているといってるに等しい。

 阿久里が攫われたことをいまだ知らないのは、たまたま彼が実行犯でなかっただけのことだろう。


「それにここ栄福寺は榊家の菩提寺。曲輪くるわと呼んでも差支えがない造りになっております。ここ以上に安全な場所など、近隣にはございません」

「だ、黙れッ! そのような場所でありながら、姫君を攫う賊を侵入させたではないか!!」

「……まぁ、それはごもっとも。ですが、当家と致しましても、賊が近くに潜んでいる可能性があるような場所で、夜の雪道に女人にょにんを放り出すわけにはいかないので」

「ならば、如何するつもりだ……」

「そうですね……」


 ちら、と直鷹が視線を横へとずらせば、このやり取りに既に飽きているのか、美しいそのおもてに能面のような表情を貼り付けた女の姿。片や、仕える姫がいなくなり目を真っ赤にして泣き腫らす侍女――片や、同じ条件だというのに、不安の欠片も見当たらない侍女――。


(この侍女も共謀者、だな)


 もしかしたら、仕える姫君に対しさほど愛情を抱いていないからこその態度なのかもしれないが。

 けれど、まだ近隣には賊がいるのかもしれないという状況の中で自分自身の身の安全さえまだ不透明だろうに、不安の欠片も見当たらない態度というのはやはり肝が据わりすぎている。


(とりあえず、榊を取り戻すまでは誰一人、手の内から逃すわけにはいかないな……)


 直鷹はどうしたものかと唇へと拳を当てて、思考の渦へと入っていく。

 この寺からどうあっても人をけさせたい、多田。

 理由は定かではないが、それに追従し国許へと帰ろうとする、能勢。


(水尾と高梨の婚姻に関して、おれからその予定を変更させるような物言いは出来ない……。高梨が帰るというものを引き止めるのもおかしい話だし……)


 と、なれば、それを止められる人物などひとりしかいないではないか。


「では、こうしましょう。そもそも姫君が攫われたということは、いつまでも水尾へと隠しておけることではありませんし、隠し立てした方が信用を損なうことでしょう」

「如何にも。故に、一度国許へと戻り、殿より水尾へと書状を……」

「いいえ。それでは時間がかかりすぎる。水尾としても、姫君の到着をお待ちしている状態なのですから、高梨の皆々様は、そのまま水尾家へと保護して頂いたらいかがでしょうか」


「は、はぁあ!?」


 直鷹の提案に、批判めいた悲鳴を上げたのは、多田でもなければ能勢でもなく――、勿論、その他の男たちでもなく。

 視線の先にいる、見事な黒髪の侍女だった。

 彼女の持ち上げた視線が直鷹のそれと重なり合い、慌てて長い睫毛が横へと逸らされる。その瞬間、ふわり、再びこの部屋に入った時にくゆった香のにおいが鼻腔を擽った。


「なにか?」

「な、何故……に、ございますか……」

「……理由は先ほど述べた通りです。榊としても、水尾と揉めるつもりはないので、此度の事件に関しては彼らにも助けの手を差し伸べてもらう方が都合がよいかと」

「い、嫌ですっ! ……そうよ、ひ、姫さまもいらっしゃらないのに、水尾に行くなど……」


 かぶりを振った侍女の髪が、さらりと背から零れ落ちる。

 ふわ、と舞うのは、焚き染められた香のにおい。

 不意に思い描くのは、日頃よりその髪に、打掛に、その身に香を纏う少女の姿。

 栗色の癖のない髪、光の下では金にも見える琥珀色の瞳。白磁の肌に、紅を刷かずとも色づく珊瑚色の唇が紡いだ声を覚えている。


  ――それまで、榊の家は滅ぼされるわけにはいかないわ。


 いつぞや彼女が語ったその声を、いまもはっきりと覚えている。

 滅ぼされるわけにはいかないのだと。

 まだ、榊の家を保ちたいのだと。


(榊は)


 そういった。

 だから。


「――――姫君がいらっしゃらないからこそ、です」


 直鷹はその姿を描いたままに、声を紡ぐ。

 氷点下の声音が、室内へと響いた。


「よろしいですか、侍女どの。あなた方は、水尾直家みずおなおいえどのへ嫁がれる途中、当家の寺に滞在された。そうですね?」

「そ、それが……なに……っ」

「ご存知でしょうが、当家と水尾はさほど親しい間柄にはありません。水尾の花嫁が当家の敷地内で行方知れずとなれば、真っ先に疑われるのは我が家でしょう。そして、武家にとって、親しい間柄にない家への疑いはどうなるか、ご存知でしょうか?」


 直鷹の黒曜石の瞳が、冷たく尖る。


「――大義名分を得、戦となります」


 侍女の唇が怯えたように、はっ、と息を吸い込んだ。

 ジジ、と燭台の上で不安に煽られたかのように炎が輪郭を揺らめかせる。


「そ、そんなこと……わたくしは、知らない……」

「でしょうね。ですが、そうなってくると当家としては、いま敵対関係にない高梨家を敵として見なさなければならないかもしれない。水尾ももしかすると、花嫁を寄越さなかった高梨を裏切りと判断するようになるかもしれません」


 榊としては、三つ巴の形に持っていくように調略していくだろうということを滲ませる。


「それでも、よろしいでしょうか? 能勢どの」


 視線を侍女から能勢へと向ければ、黙ってそれを聞いていた能勢は、一瞬噛んだ下唇をすぐに離すと頭を横に振った。


「……いま他国との戦は、当家はご遠慮したいというのが本音です」


 それはそうだろう。

 遠賀国ではいま、当主である海山とその息子がきな臭い内輪揉めをしている最中なのだから。


「でしょうね。……水尾直家どのへの庇護の件、承知されますか?」

「…………承知致しましょう」


 きっと彼の望む形には転がらなかった話だろうに、それでも涼やかなおもてを直鷹へと向け、能勢ははっきりと声を返してきた。


「では、そのように」


 けれど、向き合った互いのこうべは、一度も下ろされることはなかった。




**********




 まだ空の端にさえ光の滲まない、一日で一番昏い時刻――。

 それでも月は疾うに空の高い位置から転がり落ち、地平線のその先へ隠れていた。夜空で輝いていた赤い星も、西の空の端へと沈みかけており、もうじき朝がくることを教えてくれている。

 直鷹は廊下へと腰かけながら、手元を照らす燭台の灯りを頼りに紙に墨を綴っていく。あて先は、実兄である直家その人。恐らく兄の性格上、雪の積もる中無理にあの時刻から城まで強行軍で戻ったとも思えないし、仏堂を開かせていたことからも、きっとあの惣村に今夜は泊まっているに違いない。

 ――否。

 泊まってもらっていなければ、いまは困る。


(一筆啓上、っと)


 兄への報告に、嘘偽りは厳禁だ。

 敢えて報告しない、や、他意のない誤報であれば場合によっては可とされるが、偽りの情報をわざと報告するのは決して許されない。

 だからこそ直鷹はその全てを紙にしたためた。


(こうなってくると、兄上に事前に榊のことがバレていて正解だったのかもしれないよなぁ)


 そうでなければ、これほどまでに全てを書くことなど出来るわけもなかったのだから。

 榊家の菩提寺に宿泊していた兄の許嫁である綾姫が、何者かに誘拐されたこと。そしてそれは、恐らく狂言であること。そしてその計画で、阿久里が共に攫われてしまったこと。綾姫の付き人であった者の庇護を頼みたいこと。


(そして――)


 直鷹は一番兄へと頼みたかった一文を認めると、「鬼」の一文字を著名とし、墨を乾かすため紙を宙にふらふら揺らした。カサ、カサと乾いた音が鼓膜を擽る。


「おぅ、主どの!」


 暗闇の中からかけられた声に睫毛を持ち上げれば、うっすらとした影がどんどんその輪郭をはっきりとしたものに変化していく。小袖の上からも、筋肉質な身体つきがはっきりとわかる程の大柄な体躯に、野生の動物を思わせる眼光。半年前に一度綺麗に剃られたヒゲはいまは顎のみに蓄えられていた。


「熊、どうだった?」


 外を見回った際、不審な影を追うように命じていた弦九郎げんくろうは、あの後数人と共に一度「見失った」と戻ってきていた。

 しかしこの雪の中、どう考えても土地に詳しい彼らの追跡を綾姫や阿久里を連れて逃げる面々が、免れられるわけはない。かといって、あの不審な影はみわのいうように長持を運んでいたような形跡もなかった。

 これが綾姫の狂言誘拐であり、その共犯者が高梨家の者ならば、きっと一度寺を抜け出した者たちは、綾姫を探していたフリでもしながら何食わぬ顔をして再び寺に戻ってきたに違いない。

 それを弦九郎に告げ、寺の周りを調べさせていたのだが。


「あったぜ。新雪の上にくっきり残ってた」

「寺の周りを一周、か?」

「一周綺麗にぐるっと、だな」

「やっぱそうか……」


 予想通り、あの時出くわした不審な影は、追われていることに気づいたのだろう。そのままくるりと寺の外周を回ったのちに、寺へと戻ってきていたようだ。

 直鷹は乾いた書状を細く折りたたむと、チ、チ、と唇を鳴らす。すると、僅かに離れた渡り廊下の屋根に止まっていた猛禽が、首を彼へと向けるとふわ、とその大きな翼を広げた。

 す、と左腕を差し出してやれば、滑るように屋根から直鷹の手元へと下りてくる。その脚に折りたたんだ紙を器用に片手だけで結んだあと、つ、と嘴を優しく撫ぜた。


「やまぶき、いいか。昨日一緒にいったあの惣村……わかるか? 兄上がいる。あそこまでこの文を届けるんだ、いいな?」


 自身の目線の高さまで腕を持ち上げ、やまぶきの瞳を見つめながら直鷹は命じる。基本的に彼の仕事とは狩りや阿久里との巡行での空からの護衛であり、文を届けさせるような真似はほぼしたことがなかったが、それでも長年自身とこの鳴海国なるみのくにを共に歩き回った仲だ。

 さらに死角のない空からの土地勘は、きっと誰にも負けないだろう。

 やまぶきが軽く小首を傾げ「クァ」と鳴いたのを返事と受け取り、直鷹は庭へと数歩足を踏み出した。

 ザク、ザク、ザク、と革足袋かわたびの下で雪が潰れる音がする。

 睫毛を向けた空の端が、俄かに白で滲み出した。白から黄、黄から橙。頭上の闇色へと、目覚めた朝が浸食を始めていく。

 直鷹がやまぶきが止まるその腕を後方へと動かすと、バサッと大きな羽音が耳朶で響いた。ギュ、と雪を踏みしめながら、一気に腕を前方へと走らせれば、一瞬で夜明けの空に一羽の鷹が飛び立っていく。


「主どの。これから、どうするおつもりで?」


 やまぶきの飛び去った空へと視線を向けたままでいると、弦九郎も同じ方向を見つめながら訊ねてきた。少年は睫毛の先を変えることなく、唇を開く。


「俺は一度、花咲に戻るよ。直周なおちかどのに相談することもある」

「……ここの連中は?」

「俺が城に行くときに、兄上の許へいってもらう。誰一人、逃すつもりはないよ」

「俺は、どうする?」

「いったろ? 誰一人、逃がすつもりはないって」


 夜明けの空からす、と夜の色を宿す瞳を隣にいる男へと流していく。その温度は、いま眼前に積もる雪よりも冷たいことは誰より自分がわかっていた。


「見張り、ね……了解」


 その視線に臆したところもなく、弦九郎は同じような温度の笑みをその頬へと浮かべている。


「さて、と……反撃開始だな」


 低く呟いたその声は、すっかり闇が拭われた空へと響いた。

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