は、は、と息を荒く吐き出すたびに、視界が白い靄で濁る。

 一度踏み叩かれたとはいえ、雪道を駆けるのは足を取られるという危険が伴う。松明の助けがあるとはいえ、夜道ならばなおさらそうだ。

 いくら武芸の心得があり体力にそれなりの自信があるとはいえ、喉の奥が血の味に染まる程度には体力を消耗していた。

 けれどそんな疲労も、胸の内側に巣食った焦燥に比べたらなんでもないことなのだと断言出来る。

 阿久里あぐりの命を受け、鏑矢の正体を確かめに外へと出ていた直鷹なおたかたちは、その真意に気づき慌ててその身を引き返していた。少年の白の浄衣を追うように、背後から家臣である弦九郎げんくろうを先頭にさかき家の者たちが息を切らせ走っている。


(なんで……、なんで気づかなかったんだ……)


 鏑矢がその場に落ちていながら、特に敵とおぼしき斥候もいなければ、当然近くに兵が陣を構えている様子もない。

 そもそも、曲がりなりにも守護大名家である榊家の菩提寺に正面きって弓を引くような真似が出来る者など、この鳴海国なるみのくににはひとりもいない。

 強いていえば、兄・直家なおいえなのだろうが、彼にしたところで今日の今日、この場でそれをするだけの理由などありはしない。雪が積もる夜中に開戦を告げるなど、水尾にしても得ることなど少ないのだから。


(つっても、直前に兄上に呼び出されたことが引っかかって判断誤ったってのは事実だけど……)


 何度考えても、機が悪かったとしかいいようがない。

 となれば、考えられる可能性としては、挑発。

 鏑矢の音が空を切り裂けば、必ず榊家の者は警戒に当たるだろう。いくら当主の供とはいえ、菩提寺に泊まるとなればその数はおのずと絞られているし、その僅かな腕利きの者たちが寺を抜け出せば、寺そのものの警護は手薄となる。


  ――お兄さまに、というわけではなく……恐らく、意中の殿方以外には嫁ぎたくないといった感じでした。


 もし、高梨たかなし家の姫君と懇ろの関係になっている男がいたのだとしたら。

 その者が、寺から姫を連れ出すために仕組んだことなのだとしたら――。


(いや、最悪姫君がかどわかされるのなら、それはそれでいい)


 高梨と水尾みずお、そして榊の関係性が崩れてしまう可能性は勿論高いが、それでも三家が均衡を再度保とうとするのならば、きっと出来ないことではない。それに努めろといわれるならば、きっと自分は水尾家の家臣として、そして榊家の御伽衆として、それをやるだろう。

 しかし。


(俺を送り出したあと、榊は綾姫あやひめのところに様子伺いにいくといっていた)


 勿論それが、当主としては当たり前のことなのだが。

 けれど――。


(場合によっては、そのかどわかしの瞬間に居合わせる可能性だってある)


 否。

 状況的にはそうならない可能性の方が低いだろう。

 直鷹は息苦しさに眉根を寄せながら、積もった雪を革足袋の裏で蹴り上げる。真っ暗な闇が広がる中、ようやく寺に灯されていた橙が視界に現れた。


(っし、まだ騒ぎには――)


 直鷹が内心ほっと息を吐きかけたその時――。


「ッ!?」


 山門やまとからいくつかの影が足早に姿を見せた。

 どうやら戻ってくる直鷹たちに気づいたのだろう。一瞬驚いたかのようにその複数の影たちは動きを止め、けれど次の瞬間、寺をぐるりと周回する壁に沿って走り去っていく。


「ちょ……、おいッ!! 待てッ!!」


 去っていく影の数は、五――。

 その中にはなにか・・・を担いでいるような様子もなく、女とおぼしき姿はひとりも確認できなかったが、どう考えてもこの状況で寺を出ていく集団など怪しんでくれといっているようなものだ。


「熊ッ!!」

「応よ!!」


 直鷹が弦九郎を呼ぶと同時に、背後より少年の横を通り抜けた巨体が不審な影を追う。小さくなっていくその背を視界の端に収めながら、直鷹は血の味のする息を吐き出した。

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