独特の風切り音を奏でる一閃が、静けさの降る冬の夜を一瞬で喧噪へと染め上げた。

 直鷹なおたかが部屋から飛び出していったのち、阿久里あぐりもまた乳母子めのとごの少女を従え、高梨たかなし家中の人々が泊まる庫裡くりへと足を向ける。

 廊下はひやり冷えており、足音を落とすたびにじわりと素足が痛みに似た冷たさを訴えた。は、と吐き出した息は、一瞬白く視界を濁らせたのちにあっという間に霧散する。


(直鷹たちは……大丈夫、かしら)


 ちらりと仰ぎ見た先には、暗闇の中、篝火に照らされた天を衝く竹林の黒い影。その頭上には満月には僅かに月齢の足りぬ氷輪が輪郭を鋭くしたまま光を放っていた。

 様子伺いに出た先で、相手方の斥候と鉢合わせをしても大丈夫なように、手勢はある程度連れていくよう伝えていたが、敵の正体が不透明な現状としては不安の種が知らない内に胸の内側に巣食ってしまう。


(……とりあえずいますべきことは、綾姫あやひめさまのご無事を確認したあとで、阿闍梨あじゃりにそちらはお任せして……、戻ってきた直鷹たちと状況の確認かしら、ね)


 場合によっては夜が明ける前に、花咲城はなさきじょうへと戻らなければならない事態になるかもしれない。もっとも、この雪の積もった闇夜の中、出歩くということはなるべくなら避けたいところではあるのだが。

 阿久里は空へと向けていた睫毛の先を再び自身の目の高さまで戻すと、打掛の裾を捌きながら角を曲がった。みわの持つ燭台の灯りが照らす足元の奥は、シンとした真っ暗な廊下が続いている。この先を進み、さらに突き当りを左へ曲がれば綾姫の泊まる部屋へと辿り着くはずだ。


(……なんか、随分……静か、ね?)


 阿久里の眉が微かに皺を刻んだ。

 眠りにつこうとしている闇夜を切り裂いたあの甲高い鏑矢の音を、高梨家中の者たちが聞き逃していたはずはない。自分たちから頼んだこととはいえ、敵地とはいわずとも決して友好的とはいえない間柄であるさかき家の縁の寺に泊まっている以上、ある程度の警戒はしていただろうし、寝ずの番を置いていただろう。

 けれど、高梨家へと貸し出しているこの庫裏は、綾姫への警備の者もいなければ、状況確認のために阿久里、もしくは阿闍梨へと人を寄越すこともしなかった。


(まぁもしかしたら、外に出た直鷹たちに先に会って、事情を確認したのかもしれないけれど)


 それにしたところで、直鷹はこちらでは榊の一家臣に過ぎず、やはり当主である阿久里、もしくはこの寺の管理をしている阿闍梨の許へと人を寄越すことを怠っていいわけではないだろう。

 少女は冷たい空気を吸い込むと、廊下へと落とす足音をやや早めていく。

 みわが掲げている燭台の火が、ゆらぁりと残像を残しながら角を曲がっていき、阿久里もそれを追うと、開かれた戸の奥から灯りが零れている部屋があった。間違いなく、綾姫の部屋だ。


(でも……警護が、いない?)


 不安げに少女を振り返る乳母子へと一度視線を走らせると、軽く頷く。そして阿久里は一度大きく息を吐き、みわの姿を追い越すと、衣擦れの音を立てながら「夜分に失礼致します」と中を伺うように足を廊下へと滑らせた。

 けれど。


  ガタッ! ガタンッ!!


 少女の声を上から覆い被せるかのように、部屋の奥から大きな物音が立つ。同時に、室内で声にならない悲鳴が上がった。

 阿久里は慌てて室内へと足を踏み込むと、そこには顔を柿渋染めとおぼしき橙とも茶ともつかない色味の手拭いを顔に巻いた五名ほどの男の姿があった。蓑を被っており、その足元は革足袋かわたびが履かれており、雪に塗れている。


野伏のぶせり(盗賊)……っ!?)


 予想だにしていないその存在に、阿久里の心臓が大きく跳ねながら一瞬で汗を掻いた。口許へと指を当て、悲鳴を飲み込みながらふ、と床へと視線を這わせると、恐らく彼らのものと思われる足跡が廊下から部屋へと続いている。

 背後に控えていたみわが、「姫さま」と前へ行こうとするのを、視線で留め、首を振った。相手の目的がわからない以上、下手に刺激をしない方がいい。どうやら男たちにとっても阿久里の来訪は予想外だったようで、仲間内で視線を何度も合わせながら、奥の間にいた綾姫と少女を行き来する。


「んん? なんだ、こっちにもいるではないか」

「あぁ……なぁ、この場合ってどっちになるのだ?」

「……この中の誰も顔を存じ上げないんだ。わかるわけないだろう」

「まっとうに考えれば、最初から部屋の中にいた方ではないのか」

「いや、でも……間違えたのだとしたら、どれほどお叱りを受けるかわかったものではないぞ」


 阿久里と奥の間で驚きに目を見開いている綾姫を順に見比べながら、男たちの太い声が冷たい空気の入り込む部屋に落とされた。どうやら話から察するに、綾姫をかどわかそうとしているようだが、その女がどちらであるのか判断がつかないようだ。


「おい! なにやって……っ」


 背後から新たな声がかかり、阿久里の肩がビクッと震える。反射的に、肩越しに振り返ると、同時にさら、と肩口から髪が一房零れ落ちた。

 視線の先には、室内の男たちと同じく頭に手拭いを巻いた男の姿。


「いや……、あの。どっちを攫えばいいかと……」

「いいから早くせんと、榊の者が帰ってくるぞっ!!」


 男はそういうと、雪塗れの革足袋のまま廊下へと上がり、阿久里の腕を遠慮のない力で引っ張った。同時に阿久里の口許は男の大きな手のひらで覆われ、打掛ごと小脇へと抱えられる。


「ひ……ッ、姫さまぁッ!!」


 甲高いみわの悲鳴が、人気のない冷たい廊下に響いた。「みわっ」と答えたはずのその声は、男の手のひらへと吸い込まれていく。


「~~~~~~ッ!!」


 ちら、と視線を送った先にいた綾姫もなす術もなく男に担がれ、その痩躯を長持ながもち(収納木箱)へとしまい込まれていた。彼女の羽織っていた打掛の裾が、その淵からひらりとはみ出している。


(これは……)


 まずい。

 流石にこの状況は、非常にまずい。

 相手の目的もいまいちわからないということもあるが、なにより「水尾へ嫁ぐ予定だった高梨の姫が榊の寺で攫われた」という事実を作り上げるわけにはいかなかった。

 阿久里は口を塞ぐ男の手から逃れるように、何度か頭を振りその拘束を解こうとするが、非力を謳われる自身に出来るわけもない。それでも暴れようとする阿久里が鬱陶しかったのか、男は運び出されている長持をわざわざ再び開けさせると、乱暴にその中へと少女の身体を転がした。

 どさ、という音と共に、肩口へと痺れにも似た痛みが走る。それでも思ったよりも衝撃が少なかったのは、この長持には小袖が敷き詰められていたことのほかに、どうやら最初に詰め込まれた綾姫が緩衝となってくれたからだろう。


「綾姫さま、ご無事ですか?」

「……え、えぇ……」


 綾姫の声が返されると同時に、バタン、と蓋が閉められた。

 視界が一瞬で黒に染まり、ふわり、鼻腔を擽るのは自身の纏う黒方くろぼう薫物たきもの

 

「よし、とっととここを出るぞっ! 早くしろ!!」

「この侍女は?」

「殺すなって話だ。置いておけっ!!」


 近いのに、ひどく遠く感じられるような隔たりのある声が、長持の外で交わされていた。その奥からは自身を泣きながら呼ぶ乳母子の少女の声。


(みわ……下手に動かないで。この者たちを刺激しないで)


 祈るように唇を噛み締めていると、長持が持ち上げられたのだろう。ガタ、と身体が傾いたかと思うと、そのままガタガタと底が揺れ始めた。

 ともあれ、みわの命はこれで守られたらしい。


(あとは……直鷹にこのことさえ伝われば……)


 きっと、なんとかなる。

 閉じ込められたことによる空気の薄さのせいか、それとも緊張の糸が途切れたためか。これからどこへ連れていかれるのかと音へと神経を傾けていた阿久里の意識が、ふわ、と輪郭をぼかしながら霧散していく。


「…………申し訳、ありません……」


 薄らぐ意識の片隅で、そう呟く声を聞いた。

 そんな、気がした――。

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