満月には僅かに足りない歪な円が、闇夜に転がっていた。

 先ほど室内から見上げた時とは微妙に位置を変えた月や星々の散らばる夜空が、天を衝く竹が重なり合うその隙間の先に広がっている。

 降り注がれる月明りを受けた雪が表層にきらきらと光を弾いており、踏み叩かれるたびにザクザクと鼓膜に音を貼り付けてきた。すん、と鼻を鳴らしても、風さえ眠りについたらしい夜半に鼻腔を擽るのは、手に持った松明の燃えるそればかり。

 直鷹なおたかは空へと向けていたおもてを下ろすと、松明の灯りを前へと翳す。幾人かの足跡に掻き分けられた雪が、自身の左右に散らばっており、その先には同じく松明を手に辺りへと視線を走らせる背中が見えた。

 先ほどの鏑矢の矢音に気づいたのは、当然のことながら直鷹たちだけではなく、阿闍梨あじゃりや寺の僧侶、高梨たかなし家の面々が泊まる庫裡くりでも何事かと人がバタバタとしはじめていた。

 阿久里あぐりの命を受け偵察に行くと告げると、手助けをすると申し出てくれたのは、昼間に庭で揉めていた男――「小次郎」と呼ばれていた男だった。

 気持ちはありがたく受け止めつつ、高梨からすれば他国で土地勘もないだろうということ、また彼らは輿入れの供ということで警護が満足にいる状況にもないことを理由にやんわりと断った。

 もっともその実、本音は他国の者にさかきの領地を嗅ぎまわられたくないという一点のみであったし、それと強いて直鷹・・の立場として付け加えるのならば、ここで高梨家の者になにかあった場合、破談になる可能性もあったためだ。


(ま、そんな本心気づかないほど、阿呆だとも思えないけどね……)


 ともあれ、彼がすんなりと引いてくれたおかげで外へと様子見に出ることになったのは、直鷹はじめとする阿久里に付き従いこの寺へと来た者たちのみなのだが。

 不意に、前方を歩く人影がなにかを見つけたようで、ゆらぁり、残像を描く橙色の火を伴いながら竹藪の中横道へと逸れていく。そのままその姿を追っていると、道を外れた先でしゃがみ込んだ彼が慌てたように立ち上がった。


伽大夫とぎだいぶどの」


 革足袋で雪を蹴り上げるように足早にやってきた男は、直鷹へとそう声をかけてくる。

 榊家に御伽衆として仕える際、直鷹が家老職にある水尾みずお本家のゆかりの者であり、「直高」と名乗ってはいるものの、その詳しい素性は阿久里をはじめとするごく一部の者しか知りはしない。

 榊家に仕える人間からは、気づけば水尾に連なる神社の宮司みやづかさが御伽衆となったという経緯から「伽大夫」と呼ばれるようになっていた。


「なにか見つかった?」

「は、これが……」


 やや早口で訊ねると、彼は両の手のひらに乗せた矢を手渡してくる。その先端には思った通り、やや雪に塗れた鏑に穴を開けた蟇目ひきめが取り付けられていた。

 矢へと睫毛の先を向けていた直鷹はふ、とそれを持ち上げると辺りへと視線を走らせる。榊家の菩提寺である栄福寺えいふくじは、流石は花咲城はなさきじょうからの脱出口にもなるだけあり、周囲を竹林に囲まれた天然の要塞になっている場所だ。

 外部の街道から寺への侵入経路は山門やまと(正門)の真正面の小路のみとなっており、大軍が押し寄せようにも竹林が邪魔をしてくる。現にこうして辺りへと視線を這わせてみても、どこまでも天へと伸びる高い竹に囲まれていた。

 外から弓を射かけようにも、外部から寺までの距離は二町(二百メートル)ほどはあり、また竹を越えるほどの高さまで矢を持ち上げたのだとしたら、なおのこと寺にはその切っ先は届かない。仮に真っすぐ射ったのだとしたら、無数に生えている竹に矢じりを吸い込まれて終了だ。


(こんな寺近くの竹林に落ちてたってことは、だ……)


 直鷹が松明で雪の積もる地面を照らすように前方へとその火を向けると、既に彼の意を汲んでいたらしい熊田弦九郎くまだげんくろうが、矢が落ちていた周辺へと歩き出していた。


「――あるじどの」


 そして幾分もしないうちに、彼は肩越しに振り返り直鷹を呼ぶ。

 他の者はその場から動かないよう命じた後、なるべく彼の足跡を辿るように追うと、闇夜の中、はっきりと雪掻きをされた一帯が姿を現した。

 先ほど、矢が落ちていた付近にほど近い場所だ。

 勿論、誰かが踏み入れるわけでもないこの竹林を、寺の者がわざわざ雪掻きするはずもない。雪を排除したあとの地面には、枯れ木草がその身を濡らしていた。


「……踏まれてんね」


 一見雪に潰されたようにも見えるが、その一部、明らかに何者かによって踏み叩かれたような草木が横たわっている。弦九郎もそれに気づいていたらしく、片頬を吊り上げながら鼻先で笑いを弾いた。


「ちょうど……この辺と、この辺……踏むことになるよな」


 弦九郎はそういうと、松明を片手に持ったまま弓を番えるような姿勢をとった。勿論、辺りは一面竹に覆われてはいるものの、弓を真上に引くくらいならば出来そうな空間は確保されている。

 体格の差はあるだろうが、雪がどかされ、その下にある踏まれた草木、近場に落ちていた鏑矢――。ほぼ、ここで間違いはないだろう。


「嫌がらせ、か、もしくは挑発……ってとこなんかねぇ?」

「どうだろうな。嫌がらせにしても挑発にしても、どこへの? って話になるでしょ。わざわざこの機会を狙ってきてるわけだし」

「榊、か……高梨か、ってことか?」

「まぁ、あとは可能性としてはほぼないけど、水尾おれか」

「? なんで主どのよ?」

「あー、いや……。だから、可能性はほぼないっていったじゃん」

「ほぼっつーか、ねぇだろ。そんなの。それとも俺が知らねぇ間にどっかの女でもかどわかして、恨みでも買ったかぁ?」


 それなりに遠慮のない力加減で、バンっ、と背中へと掌底を食らわされる。「いって!」と直鷹の身体が軽く傾ぎ、革足袋が踏まれていない新雪へと足跡を残した。

 雪の中に転がるならまだしも、この取り除かれ土が見える場所へと真っ白な浄衣で突っ込んだらどうするつもりなのか。

 もっとも、そもそも家来筋にあたる男が、曲がりなりにも「主どの」と呼ぶ自身へと手を上げるあたりで、そんな心配が脳裏を過るような男でないことはよくわかるが。

 直鷹は外気のような視線を浴びせながら、はぁ、と唇から白い靄を生み出した。

 けれど。

 不意に今しがたの彼の言の葉が引っかかり、黒曜石の瞳に光が宿る。


「……かど、わかし……?」


 思い出すのは、陽が落ちる前――兄と対面する直前に寺で交わした、阿久里との会話。


  ――……つまり、綾姫は兄上に嫁ぎたくない、と。そういうこと?

  ――お兄さまに、というわけではなく……恐らく、意中の殿方以外には嫁ぎたくないといった感じでした。


 あの時は、綾姫あやひめの片恋の話なのだと勝手に思っていた。

 高梨海山たかなしかいざんの姫君ともなれば、きっと出会う人間は限られているだろうし、そのすべてが彼女を蝶よ花よと褒めそやしていただろう。外部と接点を持つことの少ない姫君が、その言葉を受け、想いを募らせるようになったのかと思っていた。

 けれど。


(相手の男がどうだったかは、そういえば聞いていない)


 きっと阿久里自身もその辺りの事情まで聞き及んでいないだろうし、婚儀を控えた人間が淡い恋心に意識を傾けるよくある話として終わらせていた。


(でも)


 もし、綾姫の片恋ではないのだとしたら。

 もし、相手の男も姫君を憎からず想っていたのなら。

 もし、その男が主君である高梨海山さえも出し抜こうとしていたのなら。


(いや、別にそこはどーでもいいっていうか……)


 姫君が男と手を取り合い駆け落ちをするのなら、それはそれでいい。

 確かに兄の面子は丸潰れになるし、きっと高梨との間に大きな溝が出来るだろうが、それはそれで今はどうでもいい。

 問題は――。


(榊家の領地で、姫君が姿を消すってことだ……)


 時代の流れにうまく乗り、力と勢いだけで国を切り取ってきた水尾家。

 すでに実質的な力こそなくなってきてはいるものの、いまだ権威を持ち続けていた榊家。

 先代が治めていたころは、水尾に傾きつつあった力の配分が、それでも阿久里が当主になり、均衡に保たれるようになってきていた。

 そうなるよう、彼女が努めた。

 それを、傍で支えてきた。

 国が疲弊しないように。

 そう、ふたりで決めて歩んできた。


(それを)


  ――お前は、榊と水尾――いずれの家臣だ?


 兄の声が、脳裏で木霊する。

 均衡が崩れるには、きっと恐らく十分な理由だろう。

 ガチ、と恐らく寒さではない理由で、奥歯が鳴った。


「……っは、ちょっと笑えない……」

「な、なんだよ……主どの。冗談だよ。そんな怒んなって。姫さんにゃ内緒にしとくからよ」

「莫迦っ! くだらないこといってないで、戻んぞ熊!」


 直鷹は弾かれるように踵を返すと、踏んだばかりの雪を蹴り上げる。


「ちょ、主どのっ!?」


 背にかけられる声を置き去りにしながら、松明の火に照らされた雪道を影が走った。

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