胸中の靄を吐き出すかのように、ふぅ、とため息にあえて音をつけ零しながら、綾姫あやひめ寄懸よりかかり(女性用の脇息)へと肘を置く。さらり、肩から艶やかな黒髪が零れ落ち、打掛の中で暖められた香がふわ、と舞い宙に溶けた。

 質としては決して悪いものでは勿論ないが、何故輿入れという晴れの日に落葉らくようのような香を纏うことになったのか。

 いくらため息を吐き出したところで、悲しみと悔しさが混ぜこぜになった感情はいつまでも胸中に留まったままだった。


(勿論、それはわたくしが決めたことだけど……)


 一国の主である高梨海山たかなしかいざんむすめとして生を受け、多少の不自由と贅の限りを尽くし育てられた身の上だが、やはり輿入れというものに人並みの憧れも、ときめきもあったのだ。

 心華やぐ小袖を新しく誂え、黄金にも勝るといわれるほど高価な紅を贅沢に唇に刷き、慶事のときにこそ最も相応しい薫物たきもの――黒方くろぼうを身に纏い、恋い慕う殿方へと嫁ぐために輿に乗る。

 そういった年頃の娘ならばきっと一度は夢見る光景に、綾姫も憧れを持っていた。


(でも)


 確かに父により心華やぐ新しい小袖も、京より取り寄せた上質の紅も与えられたが、身に纏う薫物だけは自身で決めた。勿論、父から黒方を贈られてはいたが、この身に纏うものだけは、自分で選んだ。

 打掛も、紅も、きっと父が取り寄せたもの以外を身に着けようものならすぐに気づかれる。それどころか、きっと勝手を許した侍女たちばかりでなく綾姫さえ叱責されるだろう。

 けれど、香ならば――、身に纏うにおいならば、きっとそこまで怪しまれることはない。気づかれることは、ないだろう。

 自身が、この婚儀に納得していないのだとそう示せるなにかがほしかった。

 だからこそ、憧れでもあった輿入れの日に落葉などを身に纏わせたのだ。


(あぁ、でも……)


 自身の心の内を知っているいとはともかくとして、もうひとりに恐らく気づかれたことを不意に綾姫は思い出す。

 長い沈黙ののちに互いにこうべを下げ挨拶をしたが、その時に動いた空気によって、彼女は確かに綾姫の薫物のにおいに気づいたような素振りを見せていた。

 彼女の見場が狐のような色彩であることは出会う前から噂で知っていたし、本人も特に隠していないようで配下を伴い国の巡行をしているらしい。その話を耳にしたときは、どのような野蛮な女なのかと思っていたが、実際会ってみれば性格の図々しさはあったものの色彩以外はごく普通の姫だった。

 それどころか彼女が用意した祝いの品は上等であり、恐らくその中の薫物もいいものに相違ない。なるほど、流石は京の幕府が認めた守護大名家の当主であると思わせるものだった。

 ゆえに彼女が教養高く、香道に通じていても不思議はないだろう。

 きっと婚礼に赴く姫君が纏うには少々地味だと、そう思ったに違いない。


(だって……小次郎こじろう兄さまへの輿入れでないなら、わたくしにはめでたいお話なんかじゃないもの……)


 脳裏へと浮かぶのは、幼いころより親しくしていた母方の従兄の優しい面影。

 いつから好きだったかなど、覚えてはいない。

 それこそ出会ったのは、まだ乳を飲んでいた赤子の頃だ。

 けれどきっと、遊び相手として初めて紹介されたときから好きだったのだろう。


(小次郎兄さまが嫁をもらうと聞いた日は、流石にわたくしも泣き明かしたわ)


 それでも彼は奥方よりも主家の姫である自身を大切にしてくれていたし、お飾り程度の妻よりも幼いころより共に過ごした自分の方が愛されているという自負もあった。――そして、不幸な病により彼の奥方が亡くなったのが一年ほど前の話。


(今度こそ……今度こそ、小次郎兄さまに嫁せると思っていたのに……)


 実は、綾姫の婚約は水尾直家みずおなおいえが初めてではない。

 遠賀国守護大名家である多田ただ本家を武力をもって父・高梨海山が国から追い落としたとき、その多田に連なる傍系を彼は全て滅ぼさなかった。

 元は京の商人の出であった父は、譜代の家臣というものを持っていない。ゆえに自身の配下につくのならば、と、多田の傍系が遠賀で存続することを許した。多田は何百年も前より遠賀で根付く一族であり、国の掌握にも必要な駒だったのだろう。

 その一環として、当時まだ幼子であった自身と僅か年嵩であった多田傍系の嫡子が婚約をしたことがあった。そして綾姫が大人の仲間入りをした後に、嫁ぐ予定になっていた・・

 過去形なのは、嫁ぐ前に水尾との和睦が成り立ち、多田との婚約は白紙となったからに他ならない。


(まぁ、とはいっても……水尾との婚約なんて多田以上に薄っぺらいものだったけど)


 自身が何年も前に形ばかりの婚約をしたという他国の嫡男のことは勿論知っていたが、ご破算になるものだと疑いもしていなかった。したという話はあったが、その許嫁いいなずけの君から文が届くのは父ばかりで、自分がもらったことなどこの数年で一度もなかったし、こちらから送ることもなかった。

 だから。


(いまさら、こんな話がぶり返されるだなんて思ってなかったわよ……)


 意思の強さを感じられる柳眉を顰めながら、綾姫は先ほどため息を零した唇へと力を入れた。そして、次の間に控えている侍女たちへと視線を流したあと、傍近くに座るいとへと睫毛の先を向ける。

 先ほど阿久里あぐりとの対面の席では席を外させていた彼女たちだが、それさえ終わればまたこうして綾姫の許へと戻ってくる。大名家の姫君たる自身には、それは当たり前のことではあるが、同時にいまはひどく鬱陶しい存在だった。

 いとは主からの視線に気づいたのか、一度睫毛を上下させると、軽く顎を引いた。


「お寒くはございませんか、姫さま」


 そうして、綾姫そっくりな声で彼女へと期待通りの声を紡ぐ。

 彼女はそれにあわせ、打掛の襟物を軽く持ちながら頷いた。


「そうね……やっぱり、少し寒い気がするわ」

鳴海国なるみのくに遠賀国とおがのくによりも南方と聞いておりましたので暖かな国かと思いましたが……雪が降るほどなら、どこの国も変わりないということでしょうか」


 いとはそういいながら、す、と綺麗な所作で立ち上がると、次の間との境まで足を運んだ。そしてそこに控える侍女たち――侍女頭であるいとからすれば、下の者になるのだが――へと「下がっていなさい」と命じ、襖を閉じる。

 元より侍女たちはただ黙ってそこに控えていただけであり、物音などがあったわけではないが、襖のお蔭で完全な密室になったことで部屋がシンと静まり返った。再び先ほど座していた場所へと腰を下ろそうとするいとへと綾姫はちょいちょい、と指先でもっと近づくように告げる。


「やるわよ、いと……」


 吐息の方が多分に混じった声音でそう呟くと、綾姫と似通った――否。全く同じ・・・・いとのおもてが僅かに曇った。


「姫さま……。本当に、本当に、よろしいのですか。姫さまは、遠賀国大名家姫君であられるのですよ」


 綾姫は乳母子めのとごでもあるいとへと、まばたきをしながらその言を肯定する。一度暗闇に落ちた双眸が再び光を得たあとも、目の前にいるのは自身とそっくり同じ顔だ。

 自分と同じ顔をした女が、同じ声で綾姫の言を諫めてくる。

 

「そうね。わたくしは、高梨海山のむすめね。けれど、好き好んでお父さまの子に生まれたわけじゃないのに、最初は多田。次は水尾。あっちへ嫁げこっちへ嫁げと……わたくしはお父さまの思うままに動く将棋の駒などではないわ」

「ですが……」

「なによ、だったらあなただってその責を本来負うべきではないの」

「姫さまっ」


 諫める、というにはやや怒気の籠った声が鋭く走った。

 一瞬、綾姫は肩を竦ませたが、ちらりと彼女を見遣ればあちらの方がそのおもてを青ざめさせている。主人に当たる綾姫を叱責したことに恐れ入って、というよりも、まさに彼女が発した内容そのものを恐れている、そんな表情だった。


「……なによ。人払い、しているじゃない」

「そういう問題ではありません。決して口にしていいことではないと……いってはいけないことだと、前々から御方様も仰られていたではありませんか」

「そうはいってもね、いと。あなたと私はそっくりなのよ。いいえ、同じ・・なの。お母さまや乳母やの目が厳しかったせいで侍女たちも表立って口さがない噂をしたりはしなかったけど、みんなもうとっくに知っているわ」


 あなたが、わたくしの妹であることは――。

 事実を突きつけてやれば、いとは綾姫へと向けていたそっくりなおもてをゆるゆると下げ、視線を膝の上へと置いている拳へとやった。ぎゅう、と蔽膝へいしつ(前掛け)を握りしめるその手は、自身よりも手入れはされていないものだが、形はそっくりだった。


「それでも……お口を、お慎み下さいませ。恐れ多いことにございますよ」

「わかったわよ。……それはまぁとにかくとして、わたくしはもう決めたの。水尾になど、嫁ぐものですか」

「ですが、姫さまのお輿入れがなくなれば、遠賀と鳴海、両国の同盟にヒビが入ることになります」

「そのようなこと、お父さまのご都合ではないの。そもそも、わたくしが直家どのに嫁がなくとも腹違いの妹たちだってまだいるわ。わたくしである必然性はないのよ」

「……姫さま。もし仮に、ここで姫さまのお姿が消えれば、まず一晩の宿を提供してくださった榊さまへ疑いの目がかけられることになりましょう。元より水尾と榊は不仲と聞きます。きっと、高梨の家だけでなく、水尾も榊を疑うことでしょう」

「それは……まぁ、そうなるでしょうね。それが、どうかして?」

「……つまり、最悪、高梨と水尾、榊での戦になる、ということです」


 いとは、自身の膝へと落としていた睫毛の先をいつの間にか綾姫へと向けている。紅を刷かずとも艶やかな唇が、語尾を紡ぐときゅ、と横一文字に引かれた。

 眉の間には、僅かな皺が刻まれている。


「……わたくしが、このまま消えれば、の話でしょう? それは」

「どういう、ことですか?」


 いとが訊ねてくるのへ、綾姫は唇にと紅色の三日月を浮かべた。


「遠賀を出る前に、実はもう多田に話をつけてあるの」

「多田、さまに、でございますか?」


 元・遠賀国の守護大名家とあって国元には多田の分家筋の者はそれなりに多いが、この場の会話で上がっている多田とは、綾姫の一番最初の許嫁であった多田頼勝ただよりかつである。

 此度の輿入れの従者も務めており、いくら子供時代の話であったとはいえ元許嫁を輿入れの供につけるとは、我が父親ながら海山は人の心を軽んじすぎではないだろうか。綾姫は「そんなことだから、お兄さまと険悪な親子関係になるのよ」と父への感情に軽く毒を含ませた。

 どうやらいとの脳裏にも同じ「多田」が映し出されたらしいが、話の筋が見えないのか眉根を寄せながら軽く小首を傾げる。


「元々この水尾との婚姻に、多田は反対していたそうよ。一国の主たる高梨家と、鳴海国の大名の家来筋にあたる水尾家の婚姻など、釣り合いが取れていないって」

「それは……噂ですが、わたくしも存じ上げておりますが」

「多田が協力してくれるって話はもうつけてあるの。ならず者のフリして長持ながもち(収納用の木箱)の中に隠して誘拐してくれるんですって。きちんとならず者に誘拐された、という姿も見せるつもりよ」


 綾姫は室内の片隅に置かれた長持へと視線を流しながら、声を弾ませた。あの中にはお気に入りの小袖や思い出の品が入っていると周りの者に伝えており、その他の嫁入り道具を運び入れた場所ではなく特別にここまで運んでもらったものだ。

 漆塗りで高梨家の家紋が入ったそれは、この度の輿入れのために父・海山が作らせたもので、真新しく、多少の時間隠れているのならばさほど不快な思いをすることはないだろう。


「……ですが、逃げ遂せたあとは如何なさるのですか? ここは鳴海国。寺を抜け出した後に、身を寄せる場所など……」

「小次郎兄さまの許へ、そのままいくつもりよ」

「小次郎……能勢のせどのでございますか?」

「そうよ。寺を抜けて、小次郎兄さまの所領に向かうわ」


 最初から自分は、小次郎へと輿入れをするつもりだったのだ。

 いま小次郎には細君さいくんはおらず、自身が身を寄せても誰が悲しむわけでも困るわけでもない。


「能勢どのは、そのことはご存知なのですか」

「知らないわ。でもわたくしが誘拐されたと知ったなら、小次郎兄さまは必ず追いかけてくださるもの。多田に場所を決めてもらい、外で適当に落ち合えばよいのではなくて?」

「……姫さまが、その後能勢どのへ嫁ごうとなさっていることは、多田さまはご存知なのですか?」

「えっ? 特に伝えてはいないけれど、なにか問題があって?」


 多田としても、水尾に遠賀国大名家の姫を嫁がせることは惜しいと思ってはいても、主君である高梨海山にむすめを誘拐し、水尾との婚姻を壊したと知られたいと思ってはいないはずだ。きっと、誘拐したのちの綾姫の身の振り方について頭を悩ませていただろうし、そのまま能勢の許へいくと伝えれば厄介事がなくなったと安堵するに違いない。


「……姫さま。やはり、やめましょう。不安要素が大きすぎますし、なにより姫さまが此度の輿入れを嫌がり、心に想う方がいらっしゃることを、榊の御屋形さまが知られているではありませんか。狂言など、すぐに露見致します」


 なおも咎めようとするいとの言葉に、そういえば榊の当主である阿久里には少し胸の内を語ったことを思い出す。

 彼女もいまでこそ当主の座についてはいるが、元は榊家のむすめに過ぎず、どこぞに嫁ぐという可能性もあったはずだ。同情を誘えるかもしれない、もしかしたらこの狂言に引き込むことさえ出来るのではないかと期待していたが、どうやら彼女にはまだ誰かを狂おしく想う気持ちというものが芽生えていないらしい。


(まぁ長く軟禁されていたという話だし、あの見場では恋は縁遠いのもわかるけど)


「それこそわたくしの事情を知っているのだから、狂言と気づけば放っておいてくださるかもしれないわよ」


 あの当主はまだ若く、発言には多少の難はありそうだが、基本的に父とは違う「善人」に思えた。それを過大評価し、すべてを賭けるつもりもないが、ひとつの安心材料にならしていいのではないだろうか。


「ですが、やはり……いとは反対ですよ。姫さまの御身になにかあったら……」


 まるで鏡の中の自分を見ているかのような乳母子の顔が、怯えにも似た色に染まっていた。生まれ持った顔立ちがはっきりとしているため、勝気な印象ばかりを与えるそのおもてが不安に揺れているのは珍しい。


「あ……」


 ふ、と思いついたように、震えていたいとの睫毛が上下した。

 綾姫は「どうしたの?」と視線を送ると、よく似た顔がツ、と持ち上げられる。


「姫さま……。何度も同じ話を蒸し返すようですが、要は『綾姫さまが誘拐された』という事実を作り上げればよいのですよね?」

「え、えぇ……。というか、わたくしが小次郎兄さまに嫁げるようになるのなら、なんだって構わなかったのよ。たまたま、それが誘拐とした方が都合がよいだけで」


 綾姫のその言に、一度思案するようにいとの視線が膝の上に置かれた手へと落とされた。意思の強そうな眉の間には僅かな皺が寄せられ、答えを編み出そうとどこでもない場所を見つめる瞳の奥にはただただ強い光がある。


「姫さま」


 再び彼女の睫毛が綾姫へと刺さったとき、そこにはもう迷いはなかった。


「誘拐の件ですが――、」


 続けられた乳母子であり侍女であり――そして、妹であるいとの言の葉に、綾姫は驚きのため大きく目を見開いた。

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