まだ誰も踏み荒らしていない雪の中を、革足袋かわたびが掻き分けるように進んでいく。

 ザクリ、ザクリという音と共に、痛みにも似た冷たさが指先を襲った。

 荷物と人の受け入れを終えたのち、湯を借り、ようやくほっと息をついたばかりの爪先が悲鳴を上げている。もっとも、あのまま寺にいたところで雪掻きは免れない作業であったはずだし、なにより先ほどまでの浅沓あさぐつと違い、ある程度防水にも優れた革足袋を履いているので身体的苦痛は幾分マシといえるだろう。


(まぁ、精神的負担はこれから一気にきそうなんだけどさぁ……)


 直鷹なおたかは、吸い込んだ冷たい空気を憂鬱な気分と共にはぁ、と吐き出した。目の前が一瞬、白いモヤで濁り、刹那の間に溶けていく。

 左右に竹がそびえる小路に、雪を踏む音ばかりが染みていき、時折笹の葉に積もったものがバラバラと零れ落ちた。ふ、と見上げた曇天に舞うのは、愛鷹であるやまぶきの姿。

 如何に革足袋とはいえ、そろそろ内部に雪が入り込みそうになった頃、視界が急に開け、左右にあった竹林が背後へと広がる。直鷹が街道を左右に見渡すと、空高く飛んでいたやまぶきがくるくると二、三回旋回すると、スゥ、と滑空を始めた。きっと彼の身体の向かう先に、兄がいるのだろう。

 恐らくネギ畑と思われる雪が降り積もった広い土地の奥に、人の住む村落が見える。確か榊家さかきけ領地と隣接するあの場所は、もともと長兄の直重なおしげの領地だったはずだ。


(で、いまは兄上の直轄になったよな)


 ということは、十中八九あの惣村に兄・直家なおいえがいるに違いない。

 直鷹は街道を横切ると、雪の中からしゅ、と尖らせた頭を出すネギ畑を囲うあぜへと歩を落としていく。ザクザクザク、と、彼の歩みと共に後ろに足跡が刻まれた。

 畑の合間に盛られた土で作られた畦は、時に狭く畑との段差が激しい。雪が積もったことにより滑りやすくなっており、直鷹の足が何度かそこに取られそうになる。


(榊がいたら確実に畑に突っ込んでいく状況だな)


 否。

 自身との巡行により多少の体力はついたと豪語する彼女だが、そもそも身のこなしが絶望的なため、この雪の中、ここまで辿り着くことそのものが不可能に近い。


(しっかし、なんであんなに鈍くさいかな……)


 目方(体重)が重すぎて身のこなしが鈍いというのならば、まだ納得できるが、彼女は重いどころか細く華奢だ。もっとも、細すぎるから体力つかないという可能性も考えられるが、しかしあの身のこなしの悪さは、多少体力がつこうと変わるとも思えない。

 にも関わらず、自分も人並み――どころか、屈強の侍にも劣らぬ体力を身に着けられると信じている。あの根拠のない絶対的な自信は、生まれ持った図々しさが生み出すものなのだろうか。

 知らず、直鷹の唇の端が持ち上がり、笑みを刻む。


(あー、っと。そうだ……阿闍梨あじゃりに雪掻き頼んで出てくるんだった……)


 そもそも、やまぶきへと視線が向かったのも、彼の居住区である庫裡くりへと足を運ぶ最中のことである。

 このまま陽が落ち、夜になり――さらに外気が凍り付けば、これほど積もった雪が明日どんなことになっているのか。想像するのさえ、嫌になってくる。


(いや……まぁ、もっと嫌なのは、多分これからなんだけど)


 はぁ、と何度零したかももう覚えていないため息を吐き出すと、先ほど寺で阿久里あぐりと言葉を交わしたときよりもやや冷えた空気に白い靄が溶けて消えた。

 ふと気づけば足跡を落としていた畦ははるか後方となり、眼前には雪を頭に乗せた茅葺かやぶき屋根の惣村が広がっている。世帯数としては三十――多く見積もっても恐らく五十はないだろう。

 さほど大きくもなく、けれど小さすぎることもなく。この鳴海国にはごくありふれた集落である。

 直鷹が辺りへと視線を流しながら兄がいそうな屋敷を探していると、ちょっとした武家屋敷にある庵ほどの大きさのお堂が目に飛び込んできた。そしてその前には、腕にやまぶきを留まらせている直鷹が屋敷で雇っている下男の姿。


「旦那さま」


 彼は落とした腰のまま、直鷹を呼ぶとぺこり頭を下げる。

 考えてみれば、兄が単身屋敷からやまぶきを連れ出しても、彼がその指示に従うわけはない。弦九郎はいま直鷹の命により阿久里の滞在する寺で警護をしているし、やまぶきと顔馴染みである屋敷の者――となれば、残された下男の手を借りるのは当然ともいえた。


「悪かった。兄上に急に連れ出されたんだろ」

「いえ、おいらは別に構わねぇんですが……。ただ、いくら若殿さまとはいえ、やまぶきを旦那さまに無断で勝手に連れ出しちまって……、もしなんかあったらと思うと、気が気じゃねぇっつぅか……」

「もしなんかあっても、それはお前のせいじゃない。断れない筋の頼みとわかってるくせにごり押しした兄上が悪いんだし、なんかあったら兄上に責任取ってもらうよ」

「はぁ……、めんぼくねぇです」


 直鷹は彼の肩へとぽん、と手のひらを置き返事をする。なおも恐縮する下男の腕でばさ、と羽を広げたやまぶきがぴょん、と跳ねるとそのまま直鷹の腕へと飛び移ってきた。


「兄上は? この中?」

「あ、はい。いらっしゃいますです」

「ここは? 乙名おとな(村長)の屋敷……にしては、小さいか。村の仏堂かなんかに見えるけど」

「あ、はい。そうみてぇです。若殿さまのご家来衆も中におられます」

「そっか……。んじゃ、お前はもう屋敷帰ってていいよ。これ以上遅くなると、暗くなるし。俺と熊は伝えていた通り、今夜は帰らないから、そのつもりでいてくれ」

「はい。あ、旦那さま。やまぶきは如何いたします? 連れて帰りますか?」


 ちら、と視線を下男からやまぶきへと向けると、彼はくるりと直鷹を見遣り「キュ」と甲高く一度鳴いた。直鷹はかじかむ指先でやまぶきの嘴へと軽く触れると、ふ、と寒さに固まる頬を僅かに崩す。


「いや、いい。やまぶきは明日俺が連れて帰る。戸締りだけ、頼むな」


 頭を下げる下男に「頼む」ともう一度一言添え、直鷹はやまぶきを伴い橙色の灯りが零れる仏堂へと歩を進めていく。雪が貼り付いた底を階段で軽く削ぎ、一瞬躊躇うように喉を鳴らした。


「――兄上。直鷹です」


 もうここに自身がいることなど気づいている室内へと声をかけると、中からふたりの男の影が入り口へと現れる。兄の乳兄弟である青年と、その弟。どちらも彼の馬廻を務める近習であり、腹心の者である。


「直鷹さま」

「お待ちしておりました。どうぞ、中へ」

「……ん」


 直鷹が室内へと一歩、足を踏み入れるのと同時に、彼らふたりはすれ違うように外へと出ていく。直鷹が肩越しに軽く見遣ると、どうやらそのまま警護の任につくようで、彼らふたりは階段へと足音を落とした。

 兄弟、水入らずでの会話ということらしい。


(もうどうにも逃げ道ないってことだろ、それ……)


 直鷹は心臓に冷たいものが流れるのを感じながら、灯りの落ちる仏堂へと視線を戻すと、上座に悠々と座する兄・直家の姿があった。少年はやまぶきの留まる腕を軽く振るい、彼を宙へと放つと袖を捌きながら腰を下ろしこうべを下げる。


「へぇ。お前、本当に来たんだ」


 当然そうするべきであるという絶対的な価値観を孕ませたまま、直家はそれでも意外とばかりに驚きの感情を言の葉に乗せ笑った。直鷹は、「当然でしょう」といいながら、伏せていたおもてを持ち上げる。


「兄上のお召があればすぐに参ります、といってませんでしたっけ」

「聞いていたけどね。でもお前、屋敷にいることの方が少ないじゃないか。牧野まきのの小倅と一緒にあちこち歩き回ったり」


 いつぞやしたばかりの会話を再びなぞるように、口先だけで音が巡る。

 直鷹は「ははっ」と兄によく似た乾いた笑いを唇の上で転がした。

 けれど。


「――榊の姫と、人の嫁を出迎えたり、だとか?」

「――――っ」


 わかっている。

 わかっていた。

 自身に嫁いでくるはずの姫君が、榊家に接触を図ったことを把握し、やまぶきを、あの寺――榊家の菩提寺である栄福寺えいふくじの上空に飛ばせていたような人なのだ。

 何故、直鷹がそんな場所にいたのか。

 どのような立場でそんな場所にいたのか。


(すべて)


 兄上は、わかっている。


(わかっていて、ここに呼んでいるんだ)


 直鷹は一瞬で緊張による汗で溺れそうになった心臓に落ち着けと念じながら、ごくりと喉仏を上下させた。


「兄上……」

「前もいったと思うが、嫁をもらう前の多少の悪さや火遊びのひとつやふたつ、俺はとやかくいう気はないんだがなぁ」


 カチ、カチ、カチ、カチ、と視界の端でやまぶきが爪を板間に落とすたびに、小さく音が刻まれる。直家の温度の宿らない声をより無機質なものにするようなその音に、直鷹は袖の中で握りしめた拳に強く骨を浮かせた。


浄衣じょうえ

「は、……え? 浄衣?」


 兄の指が真っすぐに、直鷹の心の臓辺りを指し示す。

 直鷹は訝しげに眉を顰めながら、直家の指の先にある自身の身体へと視線を落とした。日頃愛用している派手な織りの小袖でもなければ、季節外れと呆れられる曼珠沙華の打掛でもない。

 婚儀という慶事の弥栄いやさかを祈るための、宮司みやづかさとしてのそれ――。

 榊家当主・阿久里の相談役である御伽衆おとぎしゅうとしての、それ――。


「確か、半年前くらいだったか。父上から、お前が宮司――神人じんにん(神職、神主)としての水尾家みずおけを相続したのは……」

「……そう、ですね」

「最初にいっておくが、別に俺はお前が俺を追い出し、水尾の家督を奪おうとしているなんて思ってない。昔も、そしていまも、だ」


 直鷹と直家の父・秀直ひでなおはここ数十年のうちに鳴海国において頭角を現してきた国人である。元々水尾家は神職を生業とする一族であり、北国からこの水尾に流れ武家となった一族だ。

 本家というものはいまも榊家に仕えており、秀直は分家の棟梁に過ぎない。けれど時世が戦に強く、利に敏い彼の立場をより強くし、鳴海国に数多いる国人衆をまとめる地位にまで追い上げたのが早十年以上前のことだ。

 身分としては元々大それたものでもなかった水尾家は、いまでは守護大名家である榊に取って代わるとまでいわれており、その家督を正室腹である直家が継ぐことは彼が生まれた瞬間から決まっていた。

 同じ母の胎から生まれた直鷹も、物心ついた頃よりそれはわかっていたし、それ故に現在の棟梁である父親に対しても、その跡を継ぐ兄に対しても、一家臣としてきっちりと線引きをしその領域へと踏み入れることは決してしなかった。


「まぁ俺は別に神人としての水尾にはそもそも興味はないし、今後勢力を拡大すればするほど、家長の仕事は多くなる。結果、宮司そっちに割ける時間ってのはなくなっていくから、それをお前が継ぐっていうなら文句はないんだけどな」


 もしかしたら、直鷹からいい出さなくても元より兄には最初からその構図が頭の中にあったのかもしれない。ことあるごとに、将であれと彼は直鷹にいってきていた。都度、自分は直家の与力であると返していたが、そういう意図もあったのだろうか。


「そういえば、直重どのが本家の景直かげなおと共謀し、榊と父上へと反旗を翻そうとしたのも半年前か」

「……そう、ですね」

「そして結果、榊家当主が代替わりしたのも、半年前」

「……そうですね」

「お前が、宮司としての水尾を継いだのも、半年前――」


 ひとつずつ、指を降りながら直家が語尾を修飾するのは全て同じ言の葉。

 直鷹は、うっすらと三日月を浮かべる兄の口許へと黒曜石の瞳を向けながら、彼の意識に触れない程度のため息を吐く。そもそも最初から誤魔化せているとは思っていなかったものをひっくり返され、改められているだけの話だ。

 焦ったところで、いまさらどうにかなる問題でもない。先ほどまでうるさいほどに音をたてていた心臓は、いまは驚くほどに穏やかだった。


「榊の阿久里姫が、直高・・と呼ぶ御伽衆を傍近くに侍らせるようになったのも――」

「半年前です」


 直家の声が終わりを紡ぐその前に、直鷹の唇が答えを告げた。

 その彼の声に、直家は意外とでもいうように軽く瞳を見開く。


「なんだ。もうだんまりはおしまいか?」

「最初からだんまりなんてしてなかったじゃないですか。ちゃんと返事してましたよ」

「あんなもんはただの鸚鵡返しっていうんだ。返事とはいわない」

「……兄上」


 直鷹は一度、唇を湿らせた。


「兄上は、俺が水尾の家督を奪おうとしているのではない、とわかっているといわれました。俺の口からもいわせて下さい。俺は、兄上を廃嫡しようと思っていません。いままでも、そして、これからも」

「だろうな。自分でいうのもなんだが、お前と俺はいい兄弟であったと思うし、これからもそうであろうと思っている」

「俺もそう思っています」

「俺はな、こう見えてもお前を武家の男子として買っている。個人の武としてはなんの問題もなく有能だ。ついでに同じ親のもとに生まれた弟としても、ずっと可愛いと思っていた」

「……けれど、いま俺は兄上の信頼を失い始めている――そうですね?」


 直鷹の瞳が、いっそめつけているのではないかと思うほど強い意思を持ち、上座にいる直家を見据える。そんな弟からの視線に、彼の表情は外に降り積もる雪のように温度をなくした。


「そう、だなぁ……。信頼、というほど大仰な話でもないけどな。俺はいわれた通りのことしかやらんような阿呆は嫌いなんだ。いうことを聞くだけの傀儡は好きではないし、多少のことには目を瞑るだけの器は持ってるつもりだ」


 一度、直家の唇が音を切る。

 次の瞬間、ザザ……ン、と外で雪が屋根を滑り落ちる音が響いた。

 ジジ、と端に置かれた燭台の上の火が、ゆらゆらとくゆる。


「ただひとつ、訊いておかなければならないとは思う」


 直家は胡坐をかいていた足を崩すと、片膝を立てそこに肘を置いた。


「お前は、榊と水尾――いずれの家臣だ?」


 紡がれた言の葉は、きっと雪を降らせた雲が生きる層より冷たいものだった。

 すぅ、と細められたその瞳には、弟を見る兄としての感情は一切映し出されていない。あるものはただただ上に立つ者の冷たいそれ。

 直鷹は真っすぐに直家の瞳へと自身のそれを重ね合わせ、受け止めると、す、と板間へと拳を置いた。そして、烏帽子の先を兄へと向けおもてを下げる。


「無論、水尾です――兄上」


 一分の乱れもなく、水が高いところから低いところに流れるように、直鷹の声が仏堂へと響いた。


「俺は、あなたの家来です。いままでも、そしてこれからも――」


 その想いに、嘘はない。

 自身の主は、物心ついたときより兄だった。

 それはきっと、未来永劫変わることのない誓い。

 自身の全てを決める、軸となるもの。


「ん。ならば、俺はそれを信じようか」


 いままでも、そしてこれからも。

 こうべを下げた少年の頭上から、兄の声が柔らかく降り注ぎ――。

 直鷹は、泣きたいような感情のまま三日月の唇で「はっ」と、ただ声を落とした。

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