伍
は、と息を吐けば視界が白く濁るほどの寒さの中、視界にある色は雪の白ばかり。この寺の阿闍梨によって大切に育てられているだろう木々の濃い緑も、いまは雪に染められていた。
見上げた空を衝くように伸びる竹ばかりが雪の色から抜け出でて、その青さを白の世界で主張する。
(思ったより、積もったなぁ……)
目視で大体三寸(約十センチ)くらいだろうか。冬場、雪が降ることは珍しい話でもないが、ここまで降り積もるのは本当に珍しい。流石にこれ以上積もられると、明日
この寺の本来の持ち主である
流石に、いま現在の自分の立場を考えると、主である阿久里と兄嫁になる人物との対面の場に同席する理由はなく、部屋の外で待機をしていた。しばらく無音が続いた室内に不安が頭を擡げていたが、その内、内容こそ聞こえないもののなにやら話すような素振りは感じることが出来たので、まぁそれなりに対面もうまくいったのだろう。
阿久里が室を退く際にちらと横目に姫君の姿を垣間見たが、噂通り美貌の姫君ではあるようだ。兄がいうように瓜二つの女を従えているという話については、侍女は全て
(ま、榊にどうだったか訊けばいいか)
あとは、姫君が兄へと実際に輿入れしてくる当日までの間に、先ほど見かけた「
流石にこの寺に「榊さまの
(つってもまぁ明日になると多分凍るからなぁ。完全に陽が落ちる前に一度雪掻きしとくか……)
雪掻きに人手はいくつあってもありがたいものなので、出来れば遠賀より綾姫に付き従った配下の者を貸してほしいところだが、流石に
(ま、
もしかしたら、下男辺りが夕刻前に雪掻きをするかもしれない。その時に一斉に大人数で対処した方が作業も早く終わるだろう。場合によっては修行僧にも手伝ってもらわなければならないだろうが、あの阿闍梨ならば事情さえ説明すれば快く貸してくれるに違いない。
(そうと決まれば、まず阿闍梨に相談して……っと)
直鷹は阿闍梨の一家が住まう
もう既に日没まで数刻もない状況でこの外気ということは、夜半はもっと冷え込むことは確実だろう。直鷹は、は、と白い息を吐きながら温度のない空を見上げる。
――刹那。
竹林の狭い上空を、くぅるりと大きく旋回する鳥の姿をその目に捉えた。
曇天の空の下で飛ぶその姿は、一見黒い影にしか映らない。
けれど。
(あれは……)
直鷹は眉根を寄せながら、視界を絞る。
上空の主は、大きく翼を広げ、ゆったりと右へ旋回し、上昇する風にその身を任せながら再びふわりとその身体を持ち上げる。鳥の飛翔など、どれも似たようなものだとは思うが、流石に雛より育てた愛鷹を見誤るはずはない。
雛の頃はそれこそ雪のように白かった羽毛が、長じたのちは腹面が他の個体と比べ鮮やかな山吹色だったため「やまぶき」と名付けた鷹に間違いないだろう。
直鷹は空を飛ぶ鷹へと視線を送りながら、曲げた人差し指を咥えるとピュィ、と指笛を奏でる。その音に気づいたのか、当てもなくくるりくるりと旋回していた身体を傾けると、一気に彼の許へ急降下してきた。
瞬きをひとつする間に、小さな鳥の影だったものが、はっきりとその姿形を現すほどとなり、次の瞬間には差し出した腕に二本の脚が絡みつく。白い浄衣の袖に留まった彼は、広げた羽を一度大きく羽ばたくと、甘えるような声を出しながら小首を傾げた。
腹面は、その名の由来となった鮮やかな山吹色。
間違いなく、自身の愛鷹である。
「やまぶき、お前……」
何故、ここに?
という疑問は、最後までその音を紡ぐことなく口内で苦く溶けた。
直鷹の腕へとしがみつく彼の脚には、
夜――。
この文字が示すものが、兄・直家の幼名である「
なにより、自身の屋敷に置いてきたはずのやまぶきを直鷹に無断で連れ出すことができる人間なんて、兄以外ほかに誰がいるというのか。
(あ~、ってことは、ここにいるのもバレてんのなー)
元より隠し通し続けることが出来る相手だとは思っていない。
けれど、隠し通せるものであるのならば、出来得る限りそうしたかった相手でもある。直鷹さえ自ら口を開くことをしなければ、その意思を踏み躙ってまで深くあちらから干渉してくることはないかと思っていたが、見通しが甘すぎたというほかはない。
ともあれ、やまぶきをこうしてここへと送り込んだということは、いますぐ話があるということだろう。
直鷹はやまぶきの嘴をちょいと指で触れると、踵を返し、向かっていた方向とは逆へと足音を落とし始める。きっとあの兄のことだから、直鷹がわざわざ探さずともわかるような場所で待っているに違いない。
やまぶきをこの寺の上空で放っていたのだから、恐らくそう遠い場所ではないだろう。
来た道を逆戻りしながら、どの辺りだろうかと思案しつつ二度目の角に差し掛かった、その瞬間――。
その先から不意に現れた人影に、直鷹は転がしていた歩みをツ、と止めた。
急に歩みを止めたことに驚いたのか、腕に止まったままになっていたやまぶきが、一度、二度、羽をバサ、と広げ、雪に凍える空気を掻き乱す。
「っ、わあっ」
彼よりも頭ひとつ分小さなその人物を認識するよりも早く、ふわりと
「……さか――、これは、御屋形さま」
思わず口を衝いて出そうになった呼び名に、ここがどこであるかを瞬時に思い出し、訂正する。彼女の後ろに控えているのは
殊更に
彼もその視線の先を共に追えば、自身の持ち上げられた腕へと辿り着いた。そこにいるのは当然やまぶきである。
「…………」
妙な沈黙がしばらく辺りに落ち、その間幾度か少女の睫毛が上下した。その沈黙を破ったのは、遠慮のない視線を浴びせられたやまぶきの「キッ、キッ」という甲高い声。
「……直高」
「なんでしょうか」
「そちらにいらっしゃる鷹が、やまぶきどのに見えます」
「そりゃそうでしょ。やまぶきだからね」
正直、興味のない人間からしたらどれも「鷹」の一言で片づけられるものだと思っていたが、どうやら城下視察の際、何度かやまぶきを伴っており、阿久里も彼を覚えていたらしい。
「っていうか、なんでやまぶきには『どの』付けなの」
「だって、あまり知り合って間もないというのに呼び捨てなどしたら、図々しいと思われません?」
「あんたが図々しいのはいまに始まったことじゃないから、今さら俺は驚かないよ」
「貴方じゃありません。やまぶきどのに、です」
「……鷹より低いってどういう飼い主なの。俺」
「あら。鷹より高いじゃないですか。
珊瑚色の唇が三日月を形取るその前で、ぱちり、と少女の両手の指先が重なり合い弾ける音が響く。よくやる彼女の癖のようなもので見慣れた表情ではあるが、妙にいまはそれが腹立たしい。
直鷹は綺麗に櫛を通し、背でゆったりと綺麗に結われた少女の髪をぐしゃぐしゃに掻き乱したくなる衝動に襲われるが、流石に後方に控える、みわから物凄いお叱りを受けることは間違いないので、思うだけに留めておく。
「でもどうされたのですか。やまぶきどの、こちらに連れておいででしたっけ?」
「……いや。あー、なんていうか。いま、空飛んでるのを偶然見かけて、呼んだだけ」
「……? そう、ですか」
兄の意図がどこにあるのかもわからないので、直鷹としてもどう答えればいいものか言葉に迷う。阿久里もその辺りを察したのか、軽く小首を傾げつつもそれ以上は特にその件に対し突っ込んでくることはなかった。
「最初、婚礼の祝いとしてやまぶきどのを贈るつもりなのかと思ってちょっと吃驚しました」
「いやいや。もう榊家としては祝いの品あげてるんだろ? しかも、
「そうですか? 私ならやまぶきどの、いつでも大歓迎ですよ」
「あげないよ」
「知ってます」
ちょっと不貞腐れたような声で直鷹を睨んだ阿久里の瞳と、直鷹の視線が重なり合いどちらからともなく戯言にプッ、と笑いを弾く。
「あー、でも……茄子にしても、ちょっと……無理かもしれません」
「無理、って? まぁ若い姫君が好むようなもんではないんだろうけど」
「いえ……、なんというか……」
言葉を選ぶように、一度視線をふわりと流し、さり気なく少女の琥珀が辺りを見回した。榊家当主とその御伽衆が傍近くにいることは咎められるような話でもない。それにも関わらず警戒を示したということは、気にしているのは人からの目ではなく、耳だろう。
直鷹が軽く腕を振るうと、やまぶきが一度大きく羽を広げる。そして主の力を利用しそのままバサリ、と宙へと身体を浮かせると、そのまま近くにある渡り廊下の屋根へと飛び移った。
「榊、こっち」
直鷹は彼女にのみ聞こえるような小さな声でそう告げると、警戒はやまぶきに任せ、廊下に面した部屋へと足を踏み入れる。少女は一度、睫毛を羽ばたかせると、後ろに控えていたみわへと視線を送り、彼の背へと続いてきた。
まだ陽も落ちていない時刻だが、部屋の中は薄暗い。戸を閉めるとその暗さは一層強く視界を奪った。
部屋の中に視線を巡らせれば、隅にあった燭台には頭身を大分小さくしているものの蝋がまだ残っており、直鷹は浄衣の袖口へと手を突っ込む。そして仕付け糸で縫い付けられていた火打ち金と石を取り出すと、蝋燭の先端へと幾度か火花を散らした。
一瞬の間を置いて蝋に火が宿り、薄暗い部屋へと橙色が滲む。
「というか、浄衣にも縫い付けているのですね」
「にもって……え? なんで?」
「なんでといわれましても……。普段のばさら大名ぶる為の御召し物でしたら、まぁ理由はわからなくもないのですけれど」
「だっていつ何時必要になるかなんてわからないし、用意しとくでしょ。普通」
「普通、祝い事の席ではそんなもの必要にならないかと思いますけれど……」
緊急事態がいつくるかわからないからこその備えなのだと直鷹は思うが、どうやら阿久里にとっては浄衣はその理論からは外れるものらしい。
「そう仰る姫さまの打掛にも、同じようなものが縫い付けられていることをみわは知っているんですけどね」
「………………なにかあったときのために、よ」
小さくため息混じりに呟くみわの声に、阿久里が気まずそうに声を返す。ちら、と直鷹へと送る彼女の視線は、どうにも気まずそうで唇の先をツンと尖らせており、直鷹は込み上げてくる笑いを口内でこっそり食んだ。
「で、なんかあったの?」
腰を下ろした阿久里を追うように視線の高さを合わせた直鷹が訊ねると、少女は言葉を探すように僅かに眉間に皺を刻む。
「うーん……。直鷹にいってもよいものか、少し悩むところなのですけれど……」
「ん?」
「先ほど、綾姫と対面したときに……気になることをいわれまして……」
どうにも歯切れが悪く、言葉が重たい。
日頃、どこまでも丁寧でありながらも遠慮というものを母親の胎内に忘れてきたとしか思えないほど思ったことをそのまま口に出す彼女にしては、珍しいことだ。それでもなんとか告げなければならないと思ったのか、ズルズルと引きずるようにして出された言の葉に、直鷹の黒目がちな瞳が常よりもやや大きく見開かれる。
「……つまり、綾姫は兄上に嫁ぎたくない、と。そういうこと?」
「お兄さまに、というわけではなく……恐らく、意中の殿方以外には嫁ぎたくないといった感じでした」
「う~ん……。まぁ、好いた男以外に嫁ぐのも、それを嫌がるってのも、別に珍しい話でもないけどな」
「そうなのですか?」
「お互い顔を知らずに婚儀を迎えるなんて、当たり前の話だし。でもだからって近くに年頃になった男女がいたら、お互い憎からず想うようになるっていうのも止められるようなもんじゃないでしょ」
農村などでは野合などで娶わせることもあるらしいが、武家に限らずある程度の家柄になれば、婚姻とは家同士の話し合いで決まることが大半であり、「結婚」とはそういうものである。
けれど。
(まぁ、結婚っていう制度は制度として……色恋はまた別だよなぁ)
暖を与えるように胡坐をかいた足へと手のひらを当てながら、ちらり、阿久里へと視線を寄せれば、当のご本人はなにやら難しい表情で唇へと指を当てている。きっと彼女はいま自分自身の置かれた環境に「近くに年頃になった男」がいることなんて、気づいてもいないのだろう。
「ま、ともかくとして。問題は、なんでそれをわざわざ榊にいったのかってことだよな。そんな恋物語を共感しあうような関係性にはないでしょ。特に、榊相手だし」
「なんですか? 私相手って」
「そういうことだよ」
「どういうことですか」
「まぁまぁ。そこはいいから」
「……赤の他人だからこそ漏らせた可能性もあるかとは思いますが、姫君も
「いってみれば、敵方に醜聞握られるような話だしなー」
否。
逆に、兄に嫁ぎたくないからこそ、敵方を通じ醜聞を広めようとしている可能性もあるだろうか。
(まぁそれはそれで離縁や破談の理由にはなるけど、蟒蛇とも称される
――と、そこで不意に兄の言葉を思い出し、直鷹の肩が小さく揺れた。
「? どうしました?」
「そういえば……。姫君付きの侍女に、姫によく似た女がいなかったか?」
「!」
阿久里が小さく息を呑む。
「い、ました。あ、でもそれほど近くで見比べたわけでもないのですけれど。みわの方が近くで見ていたから、わからない?」
「あ、はい。ただ、綾姫さまの方をじろじろと見るのも失礼かと思いまして、それほど長い時間は見てはいないんですけど……。姫さまにいわれ、祝いのお品をお運びしたときに見た綾姫さまと、私の前に座り控えていらっしゃった侍女の方は、お顔立ちは確かにそっくりでした」
「ね、似ていたわよね。姉妹でも長じてあれほど似ているなんてあまり聞いたことがないもの。瓜二つといってもいいくらい似ている――いと、と呼ばれていましたが、そっくりな侍女がいました」
阿久里とみわの視線を受け、直鷹の拳が唇へと寄せられた。
(特に、瓜二つの女を隠してはいないのか……)
兄の話を聞いたときには、その目的ははっきりしないものの影(身代わり)として仕込んでいるのかと思っていたが、阿久里やその他の者の前にも姿を見せていることからも、そういうわけではないらしい。
(とりあえず、あとは兄上への輿入れ当日までに多田って男と小次郎って男の素性を確かめて……っと、)
不意に、外で待機しているやまぶきのことを思い出し、直鷹は「あ」と間の抜けた声を漏らした。待っているだろう兄の許へ行こうとしていた途中だったことを、阿久里と話し込んでいてすっかり忘れていた。
みわとなにやら先ほどの綾姫についての話をしていたらしい阿久里の視線が、直鷹へと向けられる。
「どうか、しましたか?」
「あ、悪い。ちょっとこれから外に出るんだけど、日暮れまでには戻ってくる予定だから。なんかあったら阿闍梨に相談して」
「あ、そうなのですね。お引き留めしてごめんなさい」
「いや、さっきの話はちょっと考えてみる」
「……やまぶきどのを頂けるというお話ですか?」
「あげないけどね」
「知ってます」
ふ、とお互い笑いを弾くと、ほぼ同時に立ち上がる。打掛の奥で暖められた香のにおいがふわり宙へと滲んだが、戸を開けた瞬間入り込んだ冷たい空気に浚われた。
同時に僅かな風に煽られたのか、燭台上の蝋燭がその輪郭をゆらりと歪なものへと変える。
「やまぶき」
外の屋根上で待機していた愛鷹が、羽を大きく広げる音が白い世界に響いた。
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