肆
傍らに置いた
炭を燃やす段階で開けっ放しにしていた室内に、ようやく暖かな空気が巡り始めた。
一切の寒さを感じないほどに暖かいとは口が裂けてもいえないが、それでも戸を閉め切った向こう側には真白い雪の世界が広がっていることを考えれば、満足していい室温だろう。
(の、はずなのに……どうしてこんなに室内の空気は凍り付いているのかしらね……)
睫毛の先にいるのは、豊かな黒い艶やかな髪をゆったりと背へと流した女性。年の頃は、阿久里よりも二、三、年嵩と思われるほど。薄紅色の小袖の上に、緋を基調とし金や銀で細かな花模様の刺繍が施された綸子の肩裾模様の打掛を羽織っている。
長い睫毛に縁どられた双眸は大きく、きりりと持ち上がった眉山や、きゅ、と硬く結ばれた紅を刷いた唇、艶やかな打掛を着こなせるその
そもそも付き合いのない
(……それにしても、対座してから一言も発さないって……、逆にあちら様からしても気づまりではないのかしら)
例えば
(私のこの容姿がご不快だというわけではない、のかしら……。あまりその辺りへの不快感を姫君からは感じないのだけれど……)
そもそも阿久里の容姿――瞳と髪の色素が薄く、まるで狐を思わせるような色合いであることは隠してもいないのできっと噂話に知っているだろうと思われた。それでも面会を拒否しなかったということは、そこへの恐怖があるわけではないのだろう。
どうしたものかと、次の間に控えている双方の家の侍女たちへと視線を這わせると、
みわの反対側、には対面する姫君付きの侍女が、こちらは一切の感情を貼り付けることなく能面のような表情でやや睫毛の影を頬へと落としていた。彼女の視線は前方の床へと落とされており、はっきりとした面立ちは確認できない。
けれど。
(ものすごく、似ている、気が……するのよね……)
遠賀の姫君に。
身に着けているものも枯草色にいくつかの小花の飛び模様の小袖に、
(血の繋がりでも、おありなのかしら)
兄弟姉妹でもこれほど似通った者を探すのは難儀であるように思えるが、まぁそういった話は昔話にも時折、耳にすることだ。一方が高梨家の姫君であり、もう一方は侍女。ともなれば、例えば彼女の母方の血縁の者が、奉公に上がっているのかもしれない。
(まぁなんにせよ、現状をどうにかしようとは思っていないのは確実ね)
阿久里は室内を彷徨わせていた視線を再び対座する姫君へと戻すと、あくまでもその視界の中心に阿久里を置こうとはせず、どこというわけでもない辺りへと視線を彷徨わせている。相変わらず綺麗に紅の刷かれた唇はきゅ、と結ばれたままで、表情は変化が見られないままである。
(私ならとっくにあの表情を作っていることに、飽きてしまいそう……)
現に、阿久里はすっかりこの展開に飽きている。
何かの感情を持続させるのはそれなりの努力が必要であり、そう考えると、それほどまでに阿久里の顔が見たくないということなのだろうか。
こうなったら我慢比べであちらからなにかの反応がない限り押し黙っていようかとも思ったが、それはそれで時間の無駄である。なにより、他家よりの姫君ということで、次の間での同席を控えてもらい雪の降る廊下で待機させている直鷹が可哀想だ。
阿久里は胸の内で一度大きく息を吐くと、固まったままになっていた唇を軽く湿らせた。
「……大分、室内も暖まってきたかとは思いますけれど、姫君におかれましてはご不自由などございませんか」
息苦しささえ感じるほどの無言が広がっていた室内に、阿久里の声がふわりと滲む。とはいうものの、相対する相手に合わせ愛想よく対応するなどという技能は母親の胎内に置いて生まれてきた阿久里には、にこやかに話しかけるなどということは到底無理であり、
「…………姫さま」
阿久里の問いかけののち、再び訪れた沈黙に堪り兼ねたように次の間から
「……
「
互いに床へと指先を這わせ、軽く頭を下げる。さら、と髪が肩口を滑り落ち、再び
正直阿久里としては、どちらが先に頭を下げたかなどどうでもよい話に思えるが、流石に家の威信をかけた対面ともなれば、上に立つことも下に甘んじることもその程度が難しいらしい。
けれど、一度口を開いた姫君――綾姫は、色々なわだかまりが吹っ切れたのかお約束ともいうべき口上を続けていく。
「此度はこちらより急な申し出であったにも関わらず、快く宿泊のための寺を用意して頂けたとのこと。まことに、ありがとう存じます」
「まぁ快く、といえるほど、気持ちよくお貸ししたわけでもないのですけれど」
「……は?」
綾姫の
まぁ今更どう取り繕ったところで、零れ落ちた声は回収など出来るわけもない。流石に高梨家との摩擦を避けたいというのは本音としてあるものの、そもそもの無礼は先方にあったのだ。
ちら、と見遣った次の間では、みわが困ったように眉尻を下げながらも唇の端を僅かに持ち上げ苦笑を食んでいる。彼女の立場としては諫めるべきだが、個人的心情としては拍手喝采といったところだろうか。
阿久里は「まぁいいか」と内心開き直ると、口許を抑えていた指を再び膝の上へと下した。
「ともあれ、高梨家と
自分自身、なにが「ともあれ」なのだと胸中で軽くツッコミを入れつつ、膝へ伏せていた指の腹を滑らせるようにして、床へと置く。そしてツ、と床に衝いた指を追うように、睫毛を向けて
そういえば、
(彼が手配したものなら、そんな悪い質ではないかとは思うけれど……)
(これは……
落葉自体は冬の香でもあり、流石に使っている香木も質がいいものらしく上品なくゆりが鼻腔を擽るが、輿入れという慶事にしてはいささか華に欠ける――もっというのならば、地味といえるかもしれない。
(まぁこればかりは、本人の好みの問題も大きいからどうこういうつもりもないのだけれど)
阿久里とて、季節を問わず好みをいうのならば
阿久里が次の間に控えているみわへと視線を走らせると、それに気づいた彼女は軽く頭を下げ、傍らに置いてあった包みを自身の前へと滑らせる。そして恭しげにそれを掲げ持つと、自らの主たちのいる間へと足を運び、綾姫の目の前へとそれを置いた。
阿久里が袱紗の結び目を軽く引くと、ゆったりと結ばれていたそれはシュルリと涼やかな絹の音をたててはらりと解け落ちる。中には螺鈿装飾の施された小さな漆器がコロリと収まっていた。
光の角度によってさまざまな色のきらめきを見せる螺鈿が形作るのは、
この繊細な仕事ぶりを見るに、恐らく京の職人のものなのだろう。
すぐそこにまで迫った戦乱の世に対する自覚は全くなかった父だが、こういう緊急の慶事や、いま執り行っている城の普請に関する知識を持つ人への人脈などを考えると、そうそう馬鹿にしていられないのだと思える。
(まぁ、それでもあの僅かな時間で、ここまでの品を用意してくれた直周が優秀っていうことには変わりないのだけれど……)
きっとこれならば、中に収められている薫物もさぞ素晴らしいものだろう。
城に帰ったら、留守居で残っている彼へ改めて労いの言葉をかけよう。きっと軽く目を見張り、その後「恐れ入ります」といつも通りの感情の色の浮かばない顔をするに違いない。阿久里は胸中で感情を滅多に
「こうして姫君のお輿入れのお宿をご用意しましたのもなにかの縁ですし、心ばかりの品ですけれど、めでたき婚礼の――」
「めでたくなんて、ない」
僅かに明るくなった阿久里の語尾を待つことなく、先ほどまでだんまりを決め込んでいた綾姫の唇が棘を含む声音を零した。ぽつり、と一言落とされただけのその声が、室内に重たい余韻を残すように広がる。
(……えー、っと……?)
人のことはいえた義理ではないが、元より愛想に乏しいと感じていた綾姫から、心からの返事があるとは期待していなかったが、彼女の台詞を考えるに明らかにこれは拒絶を示しているのだろう。
「あの……。もしかしてこの祝いの品が、お気に召しませんでしたか?」
「……え?」
阿久里の声に、初めてその祝いの品を視界に入れたらしい綾姫は、ちらり、向けた睫毛を一度頬の上で上下させた。
「別に……。それは、関係ありません」
「あ、そうなのですね。それならば、よろしゅうございました」
「は? よろしい?」
「え? いま、姫君、めでたくなんてないと仰いませんでした?」
「……いいましたが」
それが、なにか?
訝しげに顰められた気が強そうな綾姫の眉を見つめながら、阿久里は軽く首を傾げる。
「ですよね。いえ、てっきりこちらの品がお気に召さず、めでたくなくなったなどと仰られたのではないかと思ったのです。流石に、昨日の今日で時間もない中、
「ふゆか……って……、な、なんなのですっ!? わたくしの父は、高梨海山。そのわたくしに対し、無礼でありましょうっ!」
「お忘れかもしれませんが、私は鳴海国の守護ですよ」
「だから、父よりも上だとでも仰りたいの!?」
「そうではございませんが……まぁ、どちら様にしたところで、縁も所縁もない当家へ一晩の宿を前日に申し出られるような方に、そのように仰せられましても……」
「っ、な、なんて……っ!」
「――姫さま」
次の間からゆったりとした声がかかり、やや前面に体重をかけていた綾姫の身体がぴたり、止まった。阿久里が声の主へとす、と睫毛の先を向ければ、そこには対面する綾姫本人かと見紛う人の姿があった。
先ほど彼女が
「榊さま。主の言葉がいささか過ぎたこと、お詫び申し上げます」
「いとっ、お前どっちの味方なの! わたくしの侍女ではないのっ!」
「はい。姫さまの侍女であるからこそ、鳴海国の守護であらせられる榊の御屋形さまにお詫びしているのです」
いと――とは、彼女の名なのだろう。
綾姫は苛立つ感情をそのまま宿した声音で侍女を呼ぶが、それを受け止めつつも飲み込むことなく彼女は淡々とした声を紡いだ。容姿同様に声も似通っているが、それでも喋り方のせいか、顔立ちほど似ているようには感じない。
「別に謝っていただくほどのこともありません。流石に当家の贈り物をして、めでたくないといわれたのならば黙っているわけにもいきませんでしたが、それは私の勘違いであるとわかりましたし」
「あ、当たり前ではありませんか! わ、わたくしをなんだと思っているのっ」
「縁も所縁もない当家に、前日になって急に一晩の宿を借りたいといってきた姫君、でしょうか……?」
「……あなた、口が過ぎるってよくいわれないかしら?」
「図々しいとはよくいわれます」
すっかり取り繕うことを忘れた唇が、脳裏に浮かんだ本音をそのまま希釈することなく吐き出すのを、流石にまずいと思ったらしいみわが「姫さま」と一言添えてきた。阿久里は、しまったと唇に両手の指を当てるが、もはや全てが遅いことは十分すぎるほどわかっている。
いま戸を挟んで廊下で待機しているだろう直鷹には、この会話は届いていないとは思うが、後からそれを知ることになるだろう彼には、くどくどと説教されるに違いない。
「えぇ……と、結局のところ、姫君はなにがご不快なのでしょうか? 図々しいお願いであったとしても、一晩の宿を貸した縁が結ばれた方ですし、こちらと致しましても苛立たせたいというわけではないのです」
思えば彼女はこの室に阿久里が
「……ほんと、余計なことばかり仰るお口ですこと……」
「まぁ。恐れ入ります」
「褒めてなどいないわ」
ぷいっ、と阿久里から顔を背けた綾姫は、紅の刷かれた唇を僅かに内側へと引き込んだ。彼女の緋の打掛の肩口で、たわませている黒髪がさらりと零れ落ちる。
同時に、ふわりと鼻腔に届く落葉のにおいに、阿久里の眉は知らず疑問符を軽く刻んだ。
(これほど艶やかで美しいお顔立ちで、打掛の好みを見ても華やかなものがお好きそうなのに、なんで落葉なのかしら……)
そういう好みなのだといわれればそれまでなのだが、婚礼の祝いとして紐解いた螺鈿細工の漆器を見たときも、彼女の心は一瞬ではあったとは思うがそれでも華やいでいたはずだ。
きっとあの品も、彼女の好みにあったのだろうと思う。
けれど、身に纏う香りばかりが、その名の通り落ち葉を思わせるような哀れみに満ちたものだった。
「……あなたのような立場にいたら、わたくしも他国に嫁ぐことなくいられたのかしら」
「姫さま」
ぽつり、呟いた綾姫へ、いとが語尾をかぶせるように自身の主へと声をかける。その声音は、窘めたいが立場を考えればそれをそのまま表すことなど出来ず、どこか内に籠る響きがあるそれだった。
「いいではないの。榊さまは、いわばこの輿入れには無関係の方なのだから」
「無関係とわかっておられながらも、急な頼み事を消息(手紙)だけでなんとかしてしまおうとするその強いお心を、少し羨ましく思いますね」
「あぁもう。本当お口が減らない方ね。それをいうなら、あなたもそうじゃありませんこと?」
「まぁ……否定はできませんが」
既に「遠慮」の二文字が脳内から消え失せた阿久里は、思うままに言葉を紡ぐ。流石に次の間に控えているみわから小さく「姫さま」と声をかけられるとハッと意識を改めるのだが、公の面会でもないのでどうにも気が緩みがちになってしまう。
日ごろ接する人間は、城に勤める者たちばかりだし、こうして同年代の同性と長く話をする機会は人生初かもしれない。
(この取り留めもない目的のない会話が、みわから聞いていた女の集会というものかもしれないわね)
愉しいかどうかと訊かれると返答に困る時間の流れ方だが、これもひとつの経験だろう。
「まぁ……どの道、無理よね。わたくしにはお兄さまがいらっしゃるし、もし、仮にお兄さまがいなくとも弟たちがいるもの。お父さまの跡目には絶対になれないし、正室腹の
はぁ、とため息を零しながら伏せられがちの瞼に憂いを滲ませる綾姫は、膝の上に置いた手をきゅ、と握りしめた。
(これは……)
いまの彼女の言を聞く限り、嫁ぎたくない――ということで良いのだろうか。
否。
彼女は、他国に嫁ぐことなく、といっていた。
(ご実家のある遠賀を出たくないということかしら……)
確か、遠賀国では当主である海山と、嫡男である彼女の兄の仲が険悪になっており、一触即発の状態とも聞く。彼女が父親と兄、どちら側の人間かはわからないが、何にせよこんな時代とはいえ、実家の騒動に心を痛めないわけはない。
「だから、私のような立場になりたいと仰られたってことかしら……」
「……え?」
「あ、いえ。すみません。先ほど、私のような立場ならば、と仰られたので。ご実家を離れたくないが故に、当主ならば嫁ぐこともなかったのにと仰られたのではと思ったのですが」
「あぁ……」
阿久里からの思わず零れ落ちた独り言に、弾かれたように顔を上げた綾姫だったが、その後言葉を続けるほどにその表情は色をなくしていく。
「そのお顔からすると、違うのでしょうねぇ……」
「まぁ、そんな見当外れというわけでもございませんわ。
「礼記ですね」
「……そこはどうでもよいところではありませんこと? ……ねぇ、榊さま?」
「なんでしょうか?」
「あなた様のお立場ならば、やはり好いた男を婿がねに選ぶことが出来るのかしら」
阿久里の睫毛がゆっくりと羽ばたくと同時に、控えの間より「姫さま」とやや鋭い声が飛ぶ。しかし、綾姫はちらりと瓜二つの侍女へと視線を流したのちすぐに、再び阿久里へとそれを貼り付けた。
どこまでも強いその瞳には、期待にも似た懇願が滲んでいる。
「本来ならば、大名家の
「そう、ですね」
「ならば、好いた男を召してしまえるのでは? と思ったまでですわ」
「それ……は……」
どうなのだろうか。
実際、父親より奪うようにして家督を継いだのがほんの半年ほど前。父が当主の座にいた頃より、阿久里の婚礼については一切の話は出ておらず、当主になってからはまず内政に取り組む忙しい生活を送っていた為、そんな話を考えもしなかった。
けれど、彼女のいうようにいずれは跡取り――出来れば、嫡男を儲けなければならない身だ。
――この鳴海国の、守護大名でいる限り。
「確かに跡継ぎを儲ける為にも、婿を取るというのは……きっといずれ、そうなるだろうとは、思います」
「殿方も、好き勝手に幾人もの女を侍らせておりますわ。ならば、あなた様がそうしてはいけない道理はないのではありませんこと?」
「けれど、そういう方さえも、正室は政略によって迎えられるものなのでは?」
彼女が政略の犠牲というのならば、それを迎える直鷹の兄・
そもそも庶民ならばともかくとして、一定以上の格式の家では、自分の好きに婚姻を決められるというわけではない。
しかし、阿久里の言葉が気に入らなかったのか、綾姫の眉根は不機嫌そうに皺を刻む。
「あなた様には、お慕いする殿御はまだいらっしゃいませんの?」
「え……っ?」
今度は、阿久里の声がひっくり返ったように唇で弾んだ。
反射的に、何故か睫毛に縁どられた琥珀の瞳が、綾姫から控えの間へ――そして、その奥にある廊下へと続く戸へと向けられる。
胸の内側で鼓動を刻む心臓が、僅かに汗をかいた。
「わたくしのように、奥にいるわけでもなく、幾人もの若いご近習に
同意を得られないと思ったのか、綾姫の声音が低く沈む。逸らしていた視線をもう一度彼女へと向ければ、そこには失望したように、ふ、と瞳の中を昏くした彼女の姿があった。
確かに当主となり、城に上がる家臣たちとの接触は軟禁状態にあった昔に比べて格段に増えた。大名家の姫君ともなれば、お忍びで外出という事がそうあるわけでもないだろうし、いまの自分よりはそういった機会に乏しいというのも理解できる。
けれど。
「……姫君もご存知かとは思いますけれど、当家は代替わりをしたばかりなので、まだそういった段階ではございません。それに、やはり家のためを考えることこそが当主の務めかと思いますので、その、婚儀には、個人的感情を持ち込むのは……」
「なんともご立派なお言葉なれど、わたくしは、嫌ですわ」
「……と、仰られましても……」
「わたくしは、嫌なのです。お慕いしている方と、ずっと共にありたい。鳴海へ、来たくなどなかった……! 水尾に、嫁ぎたくなどない……っ」
紅の刷かれた唇が歪み、震えた声が紡がれる。
やや俯きがちに放たれた言の葉は、そのまま冷えた板間に転がった。
さらり、姫君の緋の打掛から艶やかな黒髪が零れ落ち、ふわりと落葉の寂しげなにおいが宙をくゆる。
(この方は、好いた方がいらっしゃるのね……)
父親である高梨海山はそれを知っているのか、否か。
いや、きっとそれを知っていようと、彼ほどの男ならばきっと娘を政略の駒として他家へ嫁げと命じたことだろう。
そしてそれは、国を、民を治める地位にある者ならば、受け入れて当然の不自由であり、もはや疑問に思うことの方が奇異といってもいいほどだ。
けれど。
――わたくしは、嫌なのです。
――お慕いしている方と、ずっと共にありたい。
そう、この人はいった。
きっと、付き合いのない榊の家に一晩の宿を打診してきたのも、なるべく水尾の家に入ることを遅らせるためなのだろう。
水尾の家に嫁すことを、一日でも遅らせる――そのために。
(それほどまでに、殿御を慕うという想いは強いものなのかしら)
確かに源氏物語にしても伊勢物語にしても、恋によって人は理性の楔からいとも容易く落ちていく。身分もあり教養にも優れた殿上人が、わかっているはずの破滅の道へと迷い込んでしまう。
(わからない)
当主として生きると決めたあの日から、自身の言動のすべてはこの国と共にあろうと。
そう、決めた。
(わからない)
綾姫のように、自身の身分も忘れたいと、そのお役目さえも知らないのだといわせてしまうほどの激情が、まだ阿久里にはわからない。
――あなた様には、お慕いする殿御はまだいらっしゃいませんの?
不意に、先ほどの綾姫の声が鼓膜で響く。
その声と同時に、何故か睫毛を向けてしまった先にいる人物が脳裏を掠めた。
(――――)
とくん、とくん。
徐々に大きくなっていく胸の音に、阿久里の喉は一度音を立てる。
そして。
「…………こちらにお泊り頂く一晩限りのご縁かとは思いますけれど、姫君におかれましては、どうぞお心安らかにお過ごしくださいますよう。此度は、まことにおめでとう存じます」
その人の名を、心が呟くその前に。
阿久里はツ、と床に指の腹を口吻けると、頭を下げ、自身の唇で音の上書きをする。
その言の葉は、無意識に描こうとした理性の楔から落ちていこうとするなにかを真っ向から否定するものだった。
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