ザク、と浅沓あさぐつの下で、小気味よい音が響いた。

 革足袋かわたびならば多少は防寒性に優れているが、絹製のしとうずでは流石に雪の中を踏み抜くと、じんわりと足先に痺れが走る。

 ふ、と見上げた空は、重たい色の雲が低い位置に広がっており、その下をちらちらと白い雪が舞っていた。周囲を取り囲むように生えている竹林や、地面を覆う苔等も、その色を白に染め上げられている。

 昨晩より降り始めた雪は、どうやら一晩で世界を見事な銀色に変化させたらしい。

 は、と吐き出す吐息は、視界を一瞬白く濁らせたかと思うと、あっという間に霧散する。今冬は、寒さの割になかなか降雪が見られないとは思っていたが、春を間近に控えたいまようやく降り出すとは、秋の空に限った話ではなく天というものは相変わらず気まぐれで人の手には負えないものだ。

 直鷹なおたかは、空へと向けていた睫毛を元の高さまで下ろし、周囲を確認するように視線をゆっくりと景色へと這わせていく。

 雪が降り積もった竹林の中央部を切り開くようにして、鳴海国なるみのくにの大名である榊家さかきけの菩提寺は建てられていた。そこを護るように植えられている巨大な竹は天然の外壁の機能を果たしており、外部からの視線を断ち切りながら防衛にも富む。


(この場所を花咲城はなさきじょうからの脱出先として初代当主が選んだってのは、さすがかつて権威のあった将軍家が選んだ守護大名だけはあるってことなんだよなぁ)


 遠賀国とおがのくにの大名・高梨海山たかなしかいざんむすめから一晩の宿を借りたいという消息が鳴海国の主である少女・阿久里あぐりへと届けられたその翌日、直鷹は阿久里たちと共に彼女の家の菩提寺である栄福寺えいふくじへと足を運んでいた。

 昨晩、国境にある高梨家に縁づく寺に一泊したらしい海山の息女は、本日雪道に難儀しながらも無事、榊家が用意した寺まで辿り着いた。そして、先ほどようやく二百名からなる輿入れに共だった者すべてが敷地内に到着したとのことだった。

 さすがに他国の、しかも縁も所縁もない家の菩提寺で右も左もわからない状態で放置は出来ないだろうということで、直鷹は阿久里に頼まれ、雪の降る中、高梨家家中の受け入れをしていたが、ようやくその作業も終わりが見えた。


(あー、足いって……。あとで湯、借りる時間あるかな)


 花咲城へ上がる日は狩衣かりぎぬに立烏帽子、浅沓の神職姿であるため、流石にこの半年の間に所作に慣れたものの、やはり雪の中を歩くとなれば勝手は違う。やはり多少見栄えが悪かろうと、革足袋を履いて来ればよかったと直鷹は心の底で幾度と繰り返したぼやきを口にする。

 すっかり凍えてしまっている指先を口元まで持っていき、はぁ、と息をかけた。湿った吐息にじんわりと冷えたそこが痺れを生む。

 骨ばった指からそのまま下へと視線を巡らせれば、白い狩衣に、白い差袴さしこが白色の世界との境界を曖昧にしながら現れた。

 日頃ならば、榊家の御伽衆としての神職姿であっても当主である少女をして「ふらふら出歩く極楽浄土でも目指しているんですか?」といわれるほどに人目を惹く派手な色味や文様の狩衣を愛用していたが、流石に他国の、しかも輿入れ一行を迎え入れる晴れの日に奇抜な出で立ちは如何なものか、というごくごく当たり前の指摘を受け、祝い事を兼ねて全身白色無文の浄衣じょうえに今日は袖を通している。

 が、やはり常より白一色の召し物など、それこそ肌小袖くらいなものだ。日常的に自分の傍近くにある色ではないせいか、周囲に降り積もった雪と同化したような錯覚さえ感じてしまい、どうにも底冷えるような気がする。

 直鷹は衣へと新たな文を生み出す雪を軽く払いながら、すでに出入りする者の姿もなくなった山門やまと(正門)から視線をゆっくりと横へと流していった。きっと常ならば濃い色の葉を茂らせている背の低い木々が、次々に降り注ぐ雪に頭を重くしている。


(っていうか、この雪、当分止みそうにもないけど。……明日、帰れんのかね)


 阿久里の予定としては、高梨家の息女への挨拶を済ませた後、先祖の墓へと参り挨拶をして一晩この寺に宿泊するという予定になっていたが、この調子で夜半まで降り続けたら最悪寺を出るまでに一苦労ありそうだ。

 輿入れの一行とはいえ、武器を携えた他国の人間が国内に入り込んでいるときに、普請中の城を主人がそう何日も空けているのは流石に不用心である。


「水尾どの」


 直鷹が浅沓で積もった雪を踏み叩きながら、阿久里の待つ庫裡くりへと歩を進めているところへ、後方から柔らかな声がかけられる。彼は一度、睫毛を上下させるとゆっくりと肩越しに振り返った。


「あぁ、これは……」


 サク、と靴底で音を立てながら、直鷹は身体の向きを変えると威儀を正す。

 白い吐息の先にいたのは、この栄福寺の住職だった。

 どうやら彼もこの寺を預かる者として輿入れの一行の受け入れを手伝っていたようで、法衣に雪をまとっている。


阿闍梨あじゃり


 直鷹が彼の呼称を口にすると、彼は「はい」と、目尻を溶かしながら軽く頷く。加齢のためか、下がり気味の頬肉が揺れ、顎が法衣の僧綱襟そうごうえりに入り込み僅かに括れた。

 彼は、榊家に仕えていた家臣を祖とし代々この菩提寺を管掌してきた家柄で、直鷹とは親子以上の年の差がありながらも、新参のわっぱと蔑むことなく接してくれる人物だった。その声音からも、優しげなおもてからも、穏やかな人柄が察せられる。

 それどころか、直鷹が宮司みやづかさであるということも大して気にも留めずにこの寺に足を踏み込むことを許している辺り、細かいことは気にしない性質らしい。


「此度は突然の申し出にも拘わらず快く受け入れて下さり、御屋形さまに代わり御礼申し上げます」

「いやいや、なにを仰る。この寺は榊さまのもの。榊さまのお言いつけなれば、いかようにも致しますぞ」

「そう仰って頂けると、御屋形さまもお喜びになると思います」

「水尾どのも、不都合あらばなんなりと仰せつけ下され」


 阿闍梨が目尻を溶かしたままの表情で、一歩、草履を寄せてくる。高梨からの受け入れも終わったことで、彼もこれから庫裡に戻るつもりなのかもしれない。

 直鷹は、半歩ほど足を引くと、爪先を阿闍梨の進む方向へと向ける。そして、弧を描いた唇からふ、と白い息を吐き出した。


「では、阿闍梨。お言葉に甘えて、さっそくお頼みしたいことがあるんですよ」


 ちら、と横目を走らせた先の阿闍梨は、瞼を一度、上下させると、人のよさそうなおもてを軽く傾げる。直鷹は三日月を深めながら、頬の位置を高くしてその瞳に外連味じみた光を宿した。


「庫裡へ戻ったら、湯を頂けませんかね」


 雪を掻く足をぷらりと持ち上げ浅沓を見せると、阿闍梨は「あぁ」と再び頬を柔らかく溶かす。すっかり雪に塗れたそれに突っ込んだ足は、すでに寒さのため痛み以外を感じることが出来ない状態だ。


「これは気づかず、申し訳ない」

「革足袋でも履いてくればよかったんですが。流石にこれほど積もられるとは思っていませんでしたね」

「さもありましょう。これほどまでの積雪は、一体何年ぶりになるのやら……」

「自分は、元服前の童の頃、確か大雪の中遊んだ記憶がありますね」

「あぁ、確かに。五、六年前にもなりましょうか」


 阿闍梨は軽く顎を引き、庫裡への道を一歩踏み出していく。直鷹は彼の鈍色の法衣を視界の端に捉えながら雪を踏む足音へと自身のそれを重ねた。

 ちらちらと、いまだ空を舞う白い雪が、世界から色と温度を奪っていく。

 直鷹が阿闍梨ととりとめのない話をぽつりぽつりと交わしていく内に、踏み叩かれ汚れた道が前方に現れた。人気ひとけの雑多な雰囲気が、冷え切った空気を掻き乱しており、どうやら庫裡の一角に辿り着いたようだ。


「っと、この辺りは高梨家の姫君にお貸しした辺りでしたか」


 鳴海国守護大名家・榊家の菩提寺だけあって、栄福寺はそれなりの面積を誇る。これ自体が曲輪くるわといっても差支えがない規模であり、一概に庫裡といっても相当の大きさがある。

 雪の中、濡らしてはならないようなものは荷解きをして室内へと入れているらしく、高梨家の家臣であろう男衆が長持ながもち(収納木箱)を廊下へと置き、それを受け取った侍女たちが慌ただしく動いていた。

 直鷹が軽く辺りへと視線を走らせれば、阿久里たちのいる場所までは彼らの目の前を通っていくのが一番の近道と知れた。現在ここにいる立場――榊家の御伽衆おとぎしゅう水尾直高みずおなおたかとしてならば、榊家と高梨家は決して親しい間柄ではないが、頼ってきたのはあちらであり、さらには宿場として菩提寺を貸しているのだから通りがかったところで文句をいわれることもないだろう。

 しかし本来の自分の正体――水尾直家みずおなおいえの弟・水尾直鷹みずおなおたかとしては、いまここで顔を覚えられてしまうのはかなり困る。兄の城へ登城した際、榊家の御伽衆の顔を誰かが覚えているかもしれない状態というのは、精神状況的に非常によろしくない。


(なんせ、兄上にさえまだはっきりとバレてるわけじゃないからな……)


 そのくせ、さらにその上に座する父には知られているのだから、不思議なものなのだが。

 ともあれ、ここでゆるりとしている理由はない。

 雪が入り込んだ浅沓の中も、いい加減不快である。

 阿闍梨へと軽く双眸を向けると、直鷹の気持ちを察したのか「では」と草履で泥で汚れた雪へと一歩踏み出した。

 ――刹那。


「まったく……! 大殿が何をお考えか、俺にはさっぱりわからんな!」


 太い声が、冷たい空気を震わせる。

 低く、重く、まるで鈍器のような声だった。

 直鷹と阿闍梨が一瞬目配せをしたのちに、声のあった方を見遣ると、雪を被った椿の向こう側にふたつの影があった。浅葱色の直垂ひたたれと、褐色かちいろの直垂を着た男たちの年のころは、兄・直家と同等かもういくつか上かもしれない。見知った顔でないことからも、恐らく高梨の家の者だろう。


「大国である遠賀国の大名である高梨家の姫君が、鳴海一国も掌中にいまだ収めていない水尾風情と縁組だと!? まったくもってふざけていると思わんか!」

「……多田たださま、少し、お声が……」

「構うものか。榊の家の弱兵どもに聞かれたところで、どうすることも出来まい!」

「……ですが、大殿が認められた嫁ぎ先を悪しざまにいうのは……」

「ふん! 小次郎こじろうよ、綺麗ごとはよすのだな。なにをどう取り繕ったところで水尾など、榊の家来筋の家柄ではないか」


 浅葱色の直垂を着た男が、そっと「多田」と呼んだ褐色の直垂の男を窘めるが、彼の逆鱗はいまだ収まる気配がないようで、一層怒気を強めた声を上げた。どうやらこうして傍から見る限り、年こそ同じくらいに思えるが彼らの力関係は小次郎と呼ばれた男よりも多田の方が上らしい。


(まーぁ随分と、いいたい放題いってくれちゃってるねぇ)


 いわれている内容としては概ねその通りなので、否定すら出来ないのだが。


(あの褐色の直垂の方は……多田ってことは、あの・・多田家の傍系ってとこかな)


 直鷹は、流石に主家を愚弄され複雑な表情をしている阿闍梨へと、苦笑めいたおもてを向けながら、遠賀国の情勢を脳裏へと思い描いた。

 現在の遠賀国大名は高梨海山であるが、彼は典型的な下剋上によってその地位に上り詰めた戦国大名である。彼が追いやった守護大名の名は、多田長頼ただながより――。

 多田家といえば、数百年前からの名門であり、元は遠賀国・多田荘ただのしょうを出自に持つ、あの国と縁が深い一族だ。本家一族は全て追放されたという話だが、こうして多田姓が遠賀国に残っているところを見る限り、本家の直系というわけではなく、十中八九、一族の者とみて間違いないだろう。

 兄より先日、遠賀国の内情がきな臭くなってきているとは聞いていたが、こうした輿入れの段になってなお不満が家臣筋――しかも元は主筋であった者から出てくるというのは、噂が噂で済まなくなってきている確かな証拠といえるだろう。


(っていうか、海山どのと仲違いしている嫡男の胤が、もしかしたら多田長頼って話だったっけか)


 だとすると、いま憤慨している多田という男は、高梨海山ではなく嫡男の派閥に属しているのかもしれない。


「格下の家に嫁がれる姫さまが、哀れとは思わんのか! 姫はお前にとっても従妹ではないか!」

「父上と母上のお手元を離れ、ひとり嫁がれることに関しては、お寂しい想いをされているとは存じますが……」

「お寂しい、どころではない! まったく、大殿もいまになって数年も前の婚約話を持ち出してくるとはな……!」

「ですが、それが大名家の姫君の運命さだめともいうべきものかと……」

「わかっておる! わかっておるが、その運命さだめにしたところで、ほかにもっといい縁組があったのではないかと、そう俺はいいたいのだ!!」


 椿の影に隠れているとはいえ、直鷹と阿闍梨に気づく様子もなく大声で激し続ける多田は、手元にあった木の枝を乱暴に折ると苛立つように雪の中へと投げ捨てた。音もなく、白い地面に寝転んだ枝を、多田の草履が荒々しく踏みつけていく。


(あーあ)


 あの枝も、きっとこの阿闍梨が大切に育ててきたものであっただろうに。

 直鷹が胸中でため息を吐きながら、呆れた様子でそれを見つめていると、不意にひとり残されていた浅葱色の直垂の男が肩越しに振り返った。

 先ほどの多田は、全体的に身体の作りも大柄で、眉や髭も濃く、如何にも粗野な印象を受けたが、この男――小次郎と呼ばれていた男は、それとは真逆。優男、というほどでもないが、顔立ちは柔らかく、色も白い。

 語弊を恐れずにいうのならば、武家よりも公家よりに近い印象を与える男だった。

 彼は直鷹たちが影から見ていたことに気づくと――ゆっくりと頭を下げる。直鷹もそれへ倣うように、一言も発することなくおもてを地面へと向けた。

 睫毛の先に、ひらりひらりと空から降り注ぐ雪が、地面の白へと吸い込まれていく。


(こいつ……)


 直鷹は、唇の端を持ち上げ鼻先に笑いを集める。

 

(最初から、ここにいるの気づいてただろ)


 胸中でそっと呟いたその毒は、雪のように地面にそっと落ちていった。

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