弐
未だ春の気配を微塵も感じない、重たい雲が空を覆う季節。
どこまでも空気は透明で、疾うに赤や黄の衣を脱いだ木々が世界との輪郭をより鋭くする。
甲高い音を立てる風は、眼下にある城下よりも僅かに冷たく、頬へとかかる髪を乱していった。一瞬遅れて、裾を持ち上げた打掛がバサリ、冷たい空気を孕み、
「姫さま」
背後から気遣わしげな声がかかり、肩越しに振り返ればそこには生まれた頃より共に育ったといっても過言ではない
阿久里は寒さに軋む頬を緩めながら、眦を落とす。
「ありがとう、でも大丈夫」
声と共に湿り気を帯びた白いモヤが、生まれてはすぐに消えた。
カンカン、ガラガラ、と周囲に響く音は、いままさに目の前で引かれた荷台から発せられたものだ。それに被さるように、太く大きな声で「そぉれっ!」と掛け声がかかり、視界の端で縄に括られた大きな石が持ち上げられる。
ゆらり、ゆっくりとその身体を揺らしながら石が宙へふわりと浮き、引っ張り上げる縄がギシギシと音を立てた。なにもしていなくとも身が斬られるような寒さの中、網目の荒い縄を手にするのは苦痛が大きいだろうに、石を機具で引っ張り上げた数人の男たちは手慣れた素振りで指定の位置へと積み上げていく。
見れば、彼らの身体つきは日頃より鍛えていたもののそれで、昨日今日作られたものではないとはっきりわかるほどに、動作に不安が感じられなかった。
先代の父・
すでに離縁させられているものの、阿久里の母親も京の公家出身であり、その前に嫁いだ妻たちの大半が公家や京出身の女だった。その辺りからも榊家に蔓延する公家贔屓というのは窺える話である。
もっともそのお蔭で公家や京への太い人脈を得ており、京で有名な
城普請を命じた
「普請は、石工衆への人脈があるという
「はい。手塚さまが直接彼らとやり取りをされて、石垣の積み方など指南して頂いたと聞いております」
阿久里の疑問に答えたのは、みわよりもさらに後方に控える黒髪の少年――
彼の父親が謀叛の結果処罰されたので若くして家督を継いだ彼だが、外見は父親と違い物静かで穏やかそうな印象を受けるが、その実、父親よりも遥かに苛烈で、かつ優秀な逸材であると阿久里は内心評していた。
「その……、辰五郎にしては珍しく……、随分とまた、剛の者が揃ったものですね……?」
「あぁ、その辺りは
「そう彼が……って、え……? 水尾さまのご家来衆を!? 集めたのですか!?」
榊家とは敵対関係とは言わずとも、一触即発の空気がここ何年も続く水尾分家の三男である直鷹が、榊家の
だがしかし、労働力を借りてくるともなれば話は変わってくるのではないだろうか。なにより直鷹はともかくとして、それ以外の水尾分家に縁づく者に、榊の内情に通じさせるようなことはいかがなものだろうか。
「――いやいや、そんなわけないでしょ」
僅かに離れたところより、男にしてはやや高めの声がかけられた。
阿久里が風に乱れる髪を抑えつつそちらへと視線を這わせれば、
この城で御伽衆として振る舞うときの、彼の正装ともいえる姿である。
「
当初「水尾さま」と呼んでいた名は、直周の近親――嘘ではないが――という名目で御伽衆として側仕えさせるようになってからは流石におかしいということとなり、「直鷹」と呼ぶようになっていた。けれど、流石に微妙な間柄にある水尾分家・三男の名を堂々と使うことは如何なものか、という直周からの指摘により、音のみを取り、城では「
「ちょっと前まで国内であれこれワルサしてた連中だよ。熊に昔の伝手使って声かけさせた。力だけは有り余ってるわけだし、これを使わない手はないでしょ」
「あぁ。熊どのの知己でしたら、力自慢も当然のことでしたね」
阿久里が冷え切った手をぱちり、胸の前で合わせて頷くと、その言葉を受けた少年の眉がやや顰められた。
「いや……、知己っていうか……あー、でも知己っていえば、そうなのか? まぁ普通にその辺荒らしてた
「元がなんであれ、いまこうして普請作業の優秀な担い手になってくれているのですから、良いではないですか」
実際問題、親に売られたり親を亡くした子供が行きつく先は、運がよければ寺に拾われ稚児として暮らしていける可能性もあるが、大半の場合、野伏せりと呼ばれる夜盗等に拾われ、自身もいつしかそうなっていく。勿論だからといって、略奪行為や殺人などが許されるわけでもないが、少なくともいま彼らを雇うことにより生活の保障がなされ、その間の犯罪が目減りする。
さらにはそういった剛の者を雇い、普請が進んでいくとあればこちらとしては願ったり叶ったりである。
彼もきっとそう踏んだからこそ、熊――弦九郎に昔の知己への声掛けを頼んだのだろう。
「で、作業は順調って?」
「そう、ですね……。直周、資金繰りも予定通りいってます?」
「はい。まぁ細かい日々の収支に関しての数字までは……。いま手元にあるのは普請図のみなので、会計方に行って少し調べてきましょうか?」
「お願い出来ますか? 報酬は十分に与えねば、あちらの仕事もそれなりのものになると思いますし、なによりそこで不満を生じさせたらますます榊の噂が悪いものになりますから」
元々、曾祖父が作ったといわれるこの花咲城は、彼の代には
曾祖父が作り上げた段階では、
(それを咎めなかった家臣も家臣だけれど……大半の重臣が公家贔屓になってるなら、留める人間なんていないも道理ね)
当主の座についてよりすぐにでも取り掛かりたかった城の普請だが、父が長年放置し続けてきた内政のツケが溜まりに溜まっていたせいで、人員にも費用にも余裕などあろうわけもなく、まずはその資金繰りから開始することとなった。
御伽衆に迎えた少年や、側仕えの者、譜代の家臣などと相談しながら話を詰めていき、なんとか予算が立ったのは年明けを目の前に迎えた師走のこと。
では来年早々にも取り掛かろうということになり、ようやくこうして城普請が始まったわけだが――。
「なぁ。
帳簿を調べるために奥へと戻っていった直周から普請図を受け取った直鷹が、視線を図案に落としながら訊ねてくる。
阿久里は直鷹の持つ図案へと顔を近づけ、睫毛を落とす。確かに現在の虎口側面の山肌を少し削りそちらを出入り口にすれば、攻め手は虎口に辿り着く前にぐねぐねと曲がりくねった道を行くことになり、そういった意味でも相手方の疲労を狙える。
さらり、頬へとかかる後れ毛を細い指で抑えながら、阿久里は一度、紅のついた唇へと軽く力を入れた。
「ん~。確かにこちらに虎口を作った方が、守りとしては固いですよね。だとしたら、この虎口から向かって正面方向は二の丸の外れの辺りになりますし、櫓をもうひとつ設けたら攻め手の動きって抑えられませんか?」
「ここに? あー、角度的にどうだろうな……。塀の高さがあって二の丸からだと死角になる可能性の方が高いかも」
「あぁ、なるほど。でも……だからといって、塀の高さを低くするわけにもいかないです、よね?」
「だねー。あんま低いと数で攻め込まれたとき、よじ登ってくる奴もいるだろうから、あんまおすすめはしないかな。それよりさ、」
直鷹の指がツ、と普請図の上を虎口から一気に天守付近へと滑る。
「この辺、まぁ天守の辺りだしなにもいらないかなとは思うけど……その他にもここと、ここ、あとこれもか。山切り崩した割にはなにも作らず、土地余らせてる感じするけど、なんか予定あんの?」
「あ、そうそう。直高が来たら、相談しようと思っていたんです」
阿久里は落としていた睫毛を持ち上げ、直鷹が軽く首を傾げたのを確かめると再び普請図へと視線を這わせた。そして彼が示した箇所へと指先でとん、とん、と触れていく。
「ここ、全部井戸がある場所なんですけれど」
「あー、あった気がする」
「古井戸で、もう水も枯れてしまっているなら塞いでしまった方がよいのではないか、なんて意見も出てたんですが……。前後して、たまたま直周に探すよう頼んでいたひいお祖父さまのときの普請図が見つかって調べたら……いざというときのための、抜け道に繋がるものだったんです。その、井戸」
過去の普請図と照らし合わせても、その付近には特に水を常に必要とするような建物などは描かれておらず、またその形跡もいま残されてはいない。恐らく、最初からいざというときに逃げ落ちるための抜け道として作られたものだったのだろうということが伺い知れた。
「まぁ、いまのこの状況を見越して山に曲輪を作られたような人なら、そういった抜け道も作ってたとしても、おかしくはないよね」
「お父さまのことなので、枯れ井戸なんてとっとと埋めていてもおかしくなかったんですけれど。埋めることなくそのまま手つかずでいてくださったことに、とりあえず全力で感謝致しました」
「……感謝の垣根がすごい低いな……。っていうか、そもそもどこに抜ける道だったわけ?」
「ここからちょっと離れたところではあるんですが、城下を抜けて川を越えた先に竹林あるの知ってます? あそこに榊の菩提寺があるんですけれど……。どうやら全ての井戸は、そこに繋がっているみたいです」
実際、まだその井戸の抜け道が機能しているかどうか試してはいないので、確たることはいえないのだが、過去の普請図によるとそういう作りになっているということらしい。榊の菩提寺を建立したのは、曾祖父よりもさらにずっと前、守護大名家としての三代目ということなので、落ちる先としては適当といっていいだろう。
「川越えた先、か。じゃあ、方向としても敵が軍を送り込めない方向になるから、逃げ
「あ、そうなのですか?」
「うん。花咲城ってさ、北から
「……確かに菩提寺は艮の山を越えた先の竹林になりますから、南から東まで展開されたとしても、さらにその先、敵陣の背後に出ることが出来る……ということですか?」
「つまり?」
「場合によっては、攻撃に転じることも可、能……?」
「そそ。大変よくできました」
阿久里が、唇に拳を当てながら眉間に皺を寄せ絞り出した回答に、直鷹はくしゃり、笑う。そして、彼女の頭上へ手のひらを置き、するりと髪の感触を確かめるかのように手を滑らせた。
不意に、バサッ! と、普請図が冷たい風に煽られ、音を立てる。
「……っ」
すっかり無意識の中に溶け込んでいた彼の水干の橙の鮮やかさに、阿久里の喉がヒュ、と鳴り、一歩、足が後ずさった。けれど、寒空の中、その場にしばらく留まっていた足はうまくいうことを聞いてくれず、草履を置き去りにして素足が地べたを踏む。
痛みにも似た冷たさが足の裏を襲い、体勢を崩した阿久里の身体が後方へ傾ぎそうになったその瞬間――。
背中を乳母子のみわが支えるのと同時に、細腕へと直鷹の手が伸びてきた。
「あーもー、相変わらずほんとなんていうかさぁ……」
「…………わかってます。あ、ありがとう、ございます」
そ、と拒絶しないように努めながら、彼の手からすり抜けるように腕を抜き、「みわも、ありがとう」と肩越しに礼を言うと、「いえ」と控えめな返事が寄せられる。
阿久里は軽く頬を緩めながら、一歩下がった足を草履へと差し込んだ。
心臓がよくない弾み方をしているのは、突然身体の軸が傾いだことによる驚きというよりも、むしろ目の前で冷たい風に裾を躍らせる橙色の水干のせいだ。
初めて出会ったころより、何度もこうして様々な場面で助けられてきているわけだが、最近どうにも彼の存在を意識すると肌が、身体が、心が強張る。例えば、先ほどのように普請図を共に見ているときだとか、連れ立って領地を視察しているときなど、彼の視線が「榊家当主」として自分を見ているときには、いくらその距離が近くても無意識の中に彼の存在が溶けていく。
けれど、ときおり出会ったままのころのように「阿久里」として自身を捉え、扱おうとする彼の視線に気づくと、どう振る舞えばいいのか途端にわからなくなってしまう。
呼吸の仕方さえも、忘れてしまうほどに。
(まぁ、そもそも彼は本来水尾分家の三男なのだから、私を主と仰ぐ必要などないのだけれど)
彼を「御伽衆」として側近くに置いているのは、あくまでもこの城に呼ぶための方便に過ぎない。
(じゃあなんだといわれると……あ、『同盟者』……?)
非公式に、ふたりだけの間で交わされた同盟。
ならばその「同盟者」へと向けられる視線の名は、一体なんなのだろう。
本来「榊」と「水尾分家」という身分があったからこそ生まれた同盟であるはずが、それでもふとした拍子に出てくるお互いの、個人への感情は一体なんなのだろう。
「……お気をつけ下さいませ、
そんな阿久里の心に気づいているのかいないのか、直鷹がくく、と笑いを堪えた表情で、
とりあえず形容しがたい心の中の感情は、少女の長い睫毛が一度、上下する間に保留となる。
「そういえば、伝えるの忘れるところだった。榊、悪いんだけどさ、具体的にはまだいつかはわかんないけど、近々、呼ばれてもすぐに登城出来ないかもしれない」
自分ばかりが「直高」と呼び名を気遣ったところで、こうして他の家臣の姿が遠いときなど、彼から呼ばれる名は相変わらず「榊」である。故に先ほどのようにわざと屋形号を出されると、面映ゆさと居心地の悪さばかりが心を擽るので、実際こちらの方が精神安定上好ましく、本意ではない注意することさえも出来ないのだが。
阿久里は若干の気まずさの残滓が残っていた頬を柔らかく溶かし、目尻を下げる。
「わかりました。特に急ぎという用はないかとは思いますが……なにかあったのですか?」
「いや、そんな大した話じゃないんだけど。兄上の嫁が、ついに輿入れしてくるらしい」
彼にはふたり兄がおり、その内の長兄・
直家ならば、隣国・
その際、海山の
「まぁ。それは……おめでとうございます」
「ん。まぁ、そんなわけでちょっと返事とか遅れたらごめんね」
「いえ、そんな。こちらのことは、お気になさらず。良き祝言となるといいですね」
ふ、と見上げた空は重い色が立ち込めている。
山頂よりヒュゥ、と走り抜ける風は、冷たく鋭い。
阿久里は乱れそうになる髪を抑えながら、再び普請図へと視線を落とした直鷹へとちらり、視線を向ける。
先月、年が明け、彼は齢十八になったと聞いた。
彼の兄・直家の歳を考えれば、まだ早い。
けれど。
(この人も、もういつ奥方を持ってもおかしくないのよね)
不意に、そんな囁きが脳裏を過る。
何故そんな声が、自分の心から漏れ出てきたのか。
少女は風を孕み、袂が揺れる水干の橙に目を細めた。
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