第一章 咎なる身

 パチ、と火桶の中で小さく火が爆ぜる。

 煌々と赤く燃える炭火の音に一瞬気をとられた阿久里あぐりは、は、っと気づいたときにはすでに、妙な面持ちで報告にきた直周なおちかの声を聞き逃してしまっていた。

 ――否。

 正確にはきちんと音は聞こえていたが、あまりにも予想外の内容だったのでなにかの聞き間違いだと思い込みたかったのかもしれない。


「え? ごめんなさい。ちょっとよく聞こえなくて……直周、もう一度言ってもらえますか?」

「は。遠賀国とおがのくにの、高梨海山たかなしかいざんどのの姫君から、お屋形様へ消息(手紙)が届いております」


 先ほど聞いたばかりのものと、一言一句違わぬ直周の言の葉に、阿久里はとりあえず届いたそれを咀嚼しないままに飲み込んだ。意味はわからないままだが、とりあえず事実は事実としてまず受け止めることが肝心だ。

 遠賀国――。

 この鳴海国なるみのくにの隣国で、天然要塞として名高い山城・常盤城ときわじょうを頂く四方を山に囲まれた平野が広がる国である。そこを治めているのは、京の幕府より正式に国の守護公権を認められた守護大名ではなく、近年全国に広がりを見せているといわれる所謂下剋上によって守護大名を追いやり、自身が国の主として台頭した高梨海山だった。

 出自は京の油売りとも僧侶ともいわれているが、ともあれ国主とは無縁であった身分にありながらも一国一城の主となったその力量は、近隣諸国の大名、豪族などを震え上がらせたといわれている。

 主君だろうと国だろうとなんでも飲み込む蟒蛇うわばみと仇名される彼が、遠賀国を支配下に治めてから二十余年が経っているが、その内の大半の時間を鳴海国・水尾秀直みずおひでなおとの戦に費やし、これ以上争っても互いに利がないと悟ったのが数年前。

 同盟と共に、高梨家の姫君を秀直嫡男である直家なおいえに嫁がせるということになっていたというが、その話がようやく実を結ぶことになったと直鷹なおたかより報告を受けたのは、つい先日のことだ。


「……どうやら聞き間違いじゃなかったのね」


 阿久里は苦笑を滲ませながら、トン、と床に指を衝き、くるりと膝を直周へと向ける。ふわり、香のにおいが火鉢で熱せられた空気に柔らかく溶けた。

 上座より一段下がった開いた戸の近くで、背筋を真っすぐに伸ばしながら座する直周へと、阿久里はこちらへいらっしゃい、と、ちょいちょい、指を振ると火鉢近くまでいざなう。そして、同じく戸の近くで控えているみわへと、障子戸を閉めるように声をかけた。

 障子が閉まる様を黙って見つめていた直周は、外の景色が完全に閉ざされると遠慮がちに一歩、二歩、にじり寄り、再びその場へと腰を落とす。先ほどと大して距離の変わらない位置では火桶の熱気など届かないだろうに、臣下としての区分をきっちりと彼は引く。

 父親とは違い、一見気の弱そうな線の細い少年だが、その特徴的な細い双眸の奥には相応の凶暴な光があることを知っている。そしてその願望に見合うだけの能力があることも。それ故に、彼はこうして自身の立ち位置をはっきりとした形で示す。

 きっと自分の隠しきれていない本性というものを自覚しているからこそ、相手に警戒心を抱かせないために線を引くのだろう。


(まぁ……心で思うだけならば無害なものだし、そんな畏まる必要もないのだけれど)


 まぁ良くも悪くも、真面目な性質タチなのだろう、と阿久里は能面のような表情を見つめながら、独りごちた。

 少女の視線に気づいているのかいないのか、直周は真っすぐに寄せられた視線から逃れるように懐へと手を差し込む。彼の懐から出てきた文は、みわを経由して阿久里の手へとやってくる。ちら、と一瞬睫毛を向けた直周は、今度は視線を逃すことなく、こくりと顎を軽く引いた。

 綺麗に畳まれたそれを傾け開いていくと、手触りからも上質と窺える質の良い紙に、繊細な文字が流れるような筆運びで綴られている。恐らく姫君の自筆などではなく、これをしたためたのは侍女なのだろうが、これほど上質な紙に、これほど見事な手蹟の侍女を抱える高梨家は、所詮は下剋上で成り上がったものと侮ってはいけないだけの相手と伺い知れた。

 

(一筆もうしまいらせ候――、)


 定型の文言からなる消息は、この度水尾家の嫡男・直家へ輿入れをすることになったということ、その際に領地近くを通ることになってしまうことなどについての詫びが綴られている。

 疎遠な国を跨いでの輿入れの場合、自身の手の入り込んだ土地までぐるりと迂回するか、もしくはその周辺の土地を買収するかが一般的ではあるが、今回の姫君の場合は榊家の領地近くを通るとはいえ、実際に輿が進むのは水尾の領地――さらにいうのならば、昨年父親に対し謀叛を起こした水尾直重みずおなおしげの旧領である。現在はその土地全て、嫡男である直家が受け持ったと聞いているが、それならばなおのこと榊への承諾など必要がないはずだ。


(姫君は、慎み深い遠慮がちな方なのかしら……?)


 親しい人間からは甚だ図々しいと評されている阿久里は、彼女の心のありように感動すら覚えつつ、それでもやはりその本心が理解できない。個人的な性格は置いておくにせよ、特に輿入れの道筋に不安などないというのに、婚家とは疎遠といっても過言ではない間柄の榊家へとわざわざ諾を得ようとするのはどういう理屈なのだろう。


(輿入れを、うちが襲うとでも思われているのかしら……)


 あからさまに敵対しているわけでもなく、むしろまだ榊家は水尾家の主君筋に当たる関係を一応保持しており――そうなるよう努めており、流石に嫡男へと嫁してくる正室を急襲するなど、頭にもない考えであったが、遠賀ではそのような噂でも流れているのだろうか。

 阿久里は、内心首を傾げながら流れる文章を読み進めていく。


「……って、え?」


 ある一定の箇所で思わず止まってしまった阿久里の視線は、再び同じ場所を走っていくが、幾度それを繰り返しても紙の上に綴られている文字が変わることはない。相変わらずの見事な手蹟で、慎み深い文章なのだがその実、その内容は――。


「宿を、提供してほしい……?」

「……そのようです」


 思わず零れてしまった言葉に、すでに阿久里へと手渡す前に中をあらためていた直周が、呆れにも似た――否、嘲りといい換えても差支えのない感情をそのまま乗せた声で是と返してきた。自身に対しては必死に心の奥底を隠そうとするくせに、こうして共通と思われる感情を有する際は容赦がない。

 阿久里は消息の内容よりも、直周のそれにふ、と思わず苦笑を零した。


「……どうしたものでしょうね、これは……」


 再び少女は消息へと睫毛を落とし、眉根をやや寄せながら呟く。

 紙の中に流れる文字がいうことには、水尾直家へとこの度嫁ぐことになったが婚儀とは夜半に行うものされているため、どうにも遠賀からの行程上、それが叶わない。ひいては、その調整をするために一晩宿を貸してほしい、ということだった。

 確かに「婚」とは「昏」にも通じ、花嫁は黄昏時(夕刻)に実家を出て、夜に婚儀を行うものとされている。もっとも国を跨いでの輿入れともなれば黄昏時に実家を出た花嫁が、夜半に婚家に辿り着くなどということは出来ないため、どこかで必ず宿を取る必要はあるのだが――。


(問題は、何故榊家うちにそれを頼むかという話なのだけれど……)


 道中、水尾家の息のかかった宿泊所がないわけでもないだろうし、もしなくとも直家の城に入る前にどこか家臣の屋敷で一泊すればよいだけの話だ。わざわざ関係が微妙な、しかも水尾からすれば主家に当たる榊家へそれを頼むとは慎み深く遠慮がちどころか、阿久里も驚くほどの図々しさである。


「姫君にお泊まり頂くだけの準備が整った宿をご用意することが叶わない、とお断りしても良い話かとは存じます」

「そうね……流石に、国境付近に差し掛かってから消息を頂いたのでは、こちらも準備が出来ておりませんし……。でも、事前に泊まるべき宿の話も、水尾からは出なかったのかしら」

直高なおたかどのは、このことに関してなにか仰られていましたか?」

「お兄さまに遠賀の国よりお輿入れがある話は聞いていたけれど、流石にその詳細までは……」

「まぁ、彼が娶る話でもないですし、そうですよね……」


 何気なく返された直周の言の葉に、思わず阿久里の胸の奥がギクリ、軋む。声を受け止めたおもてが一瞬で固まった。

 カタカタ、と障子戸を外から風が叩く音が、部屋に響く。


「あ、え……、と。そう、ですね」


 押し黙ってしまったままの阿久里を不審に思ったらしい乳母子に「姫さま?」と声をかけられたことで、室内の空気が再び動き出した。阿久里はとっさに頬を高く持ち上げて、止まった思考を紡ぎ出す。


「ねぇ、直周。……まさか、とは思うのだけれど。もし、輿入れの際の宿について、水尾からのお話がないままで、嫁ぐという立場上そこを言い出せなかった姫君がお困りになられて、当家へ頼み事をされたのだとしたら、流石に無碍には扱えないのではないかしら」

「数年前の話にはなるらしいですが、遠賀の姫君とのご婚儀をまとめられたのは、家老である柿崎正成かきざきまさしげどのと伺っております。直家どのの傅役もりやくであり、ご高齢にはなっておりますが、いまだ呆けたというような話も聞きません。そのような手違いがあるわけはないと思いますが……」

「でも実際、姫君はお困りになられていらっしゃるという話なのよね」


 正直、榊家としても現在城の普請中ということもあり、余計な軋轢は避けたいというのが本音である。水尾家に関しては、直鷹がいるので最悪の事態は避けられるだろうが、遠賀の高梨家に関してはいままで接触を図ったこともないため、彼らが榊に対し、どういう心づもりでいるかもわからない。


「とりあえず、姫君がお困りのご様子なら、それを放っておくには忍びないし……。お輿入れというめでたきお話ですから、なるべく心穏やかにして頂きたいという気持ちも、なくはないのよね」

「まぁ、ここで下手に断って、最悪高梨からの心象を悪化させるのは避けたいという本音は、我らにもありますね」

「そうなのよね……。ただでさえ、花咲城はなさきじょうはまだ普請中。いまはあまりことを荒げない方が賢明というのは、間違ってはいないと思うのです」


 戦など、なければないに越したことはない。

 田畑は荒れるし、働き手は兵として招集され――そして、人が死ぬ。

 国全体が、疲弊するのだ。

 それでもこのご時世、甘っちょろい理想論などいっていても戦乱の世という事実が消えるわけでもないので、榊家としてもいざという時の備えとして、城を修繕し、強化に努めている。

 その普請がまだ済んでいないのだから、これ以上の波乱は避けたいのが榊家としての本音である。


「此度の不始末、水尾の不手際ならばともかく、もし両家の伝達がうまくいってないだけなら混乱のもとになります。当家にて姫君の宿泊の件、無事取り計らうということだけ直高に伝えて……姫君には宿を提供することにしましょうか」

「畏まりました。姫君には、いずれの場所を……?」


 阿久里は脳裏に、鳴海国と遠賀国の国境辺りの地図を描きつつ、その周辺の情報を思い出す。ちょうど、花咲城から東の方向――川を隔て向こう側になるその場所近くにあるものといえば――。


「姫君の通られる街道近くに、榊の菩提寺がありましたよね?」

「菩提寺……といわれると、栄福寺えいふくじですか?」

「そう。あそこなら日頃からきちんと阿闍梨あじゃり(住職)が管理しているし、広さもある。姫君を一晩、お泊めするのに差し障りはないと思うのだけれど……」

「この城まで、抜け道で繋がっておりますがよろしいのですか?」

「ちょっとそれ、思いましたけどね。でもお輿入れの姫君が、抜け道通って城に攻め入るわけでもないですし」

「まぁ、そうですね」


 畏まりました、と直周は床に拳をふたつ衝くと、頭を下げた。そして早速、その手配するために衣擦れの音と共に腰を上げる。


「あ、直周。流石に、消息を頂いたのに、寺を紹介して終わり、というのは少し礼儀に欠けるかしら?」

「礼儀に欠けるというなら、ただの一度の付き合いもない当家に、突然宿を所望する方がよほど礼儀に欠ける行為かとは思いますが」

「…………そういわれてみれば、そうね」


 外を吹く風よりも冷たく辛辣な声を振り向きざまに告げる直周に、阿久里は零れそうになる苦笑を食んだ。


「まぁ、直家どのの奥方になられるといわれても、姫君は高梨家のご息女。礼を尽くしたいと御屋形さまが仰られるならば、従いますが……」

「だって直周。考えてみたら、私よりも図々しい姫君にお会いするなんて、滅多にない機会ですもの。お会いできるならしてみたいと思うでしょう?」

「……御屋形さまがそう仰るならば、御意に――」


 軽く頭を下げ、下知に従うと呟く直周に、阿久里は「お願いします」と丁寧に三つ指を床へとつく。顔の横へと、さらり、癖のない髪が落ちてきた。

 視界の端で揺れる色は、栗色。


(最近、あまり考えることもなかったけれど……)


 自身の、この陽に透かせば金にも映る栗色の髪と、琥珀色の瞳――狐の如き容貌を目にした姫君はどう思うのだろう。

 異形のものとして怯えるだろうか。

 それとも畜生だと蔑むだろうか。


「怯えさせなければいいのだけれど……」


 直周の背が障子戸の向こうへと消えた後に零した阿久里の呟きに、傍らに控えていたみわが僅かに傷ついたような視線を寄せてくる。生まれた時から共に育った彼女は、阿久里以上に彼女の外見について悪しざまにいう声を耳にしてきていた。

 幾度、彼女から「悔しい」という言葉を聞いただろう。


「大丈夫。いまさら過ぎて、私はもうそんな言葉では、傷つかないから」

「……はい。ですが、私は姫さまをそういう人間がいたら、やっぱり口惜しいですよ」

「いいたいのならば、いわせておけばいいんじゃないかしら」


 みわへと視線を合わせ、眉尻を下げながら、再び文机へと膝を向ける。先ほど直周が来たことで中断したままになっていた近隣の村からの訴えについて、寺へと挨拶に出向く前に目を通さなければならない。


「……いわせておけば、で思い出したんですけど。姫さま」

「どうしたの?」


 阿久里は文書へと睫毛を落としたまま、みわの声に耳を傾ける。こういう時、男同士の主従関係ならば、きっと主が机に向かったのならば配下は声をかけないものなのだろうが、そこは女同士。基本的になにか作業をしながらも、世間話を交わすのは珍しいことではなかった。


「遠賀の姫君が嫁がれることは、もう下々にも伝わっている話なんですけど」

「そうみたいね。ご嫡男の婚儀ということもあって、直轄領にある村々では徳政令が出されたって話も聞いているけれど」


 実際、いま目の前に転がる案件も、直家が出した徳政令によりそちら側へ主を鞍替えしようとする若衆が幾人も出てきていて困っているという乙名おとな(村長)からの訴えだ。


「蟒蛇と仇名される高梨海山さまの姫君とのご婚儀を、遠賀・鳴海にかけて『咎なる身』の姫君が国を飲み込む、なんて言い出す者もいるとか……」


 水尾は全体的として善政を敷いているため、領民から慕われ愛されている領主であることから、悪評高い高梨家の息女が正室となるのを心配しているのだろう。

 しかし――。


「咎、なる身……ねぇ」


 基本的に、婚姻とは吉事として扱われるべきものであるというのに、嫁いでくる前からここまで嫌われているとは、流石に姫君にもかわいそうな話である。


(言霊として、意味を持つ呪いにならなければいいけれど)


 阿久里は、くだんの姫君の図々しさが、人の悪意さえも跳ね返せるほどのものでありますように、と内心独りごちた。


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