四話

 異様な気怠さと猛烈な頭痛を抱えながら何とか登校すると、教室がざわざわしていた。


 そして、桐香がいない。

 彼女はいつだってあたしよりも早く登校して本を読んでいたのに。


「ねえ、何かあったの」


 あたしは思わず近くにいたクラスメイトに声を掛ける。

 彼女は嫌な顔一つせずに答えてくれた。


「さっき西條さんが教員に連れてかれたのよ。何でも廃棄区画のビルに無断で立ち入っていたとかで通報されたんだって」

「……っ」


 どうして桐香だけが。あたしだって同罪だ。

 裁きを受けるなら二人ともじゃなきゃ……。


 あたしはすぐにでも教室を飛び出そうとした。

 しかし、檸檬に引き留められる。昨日のことなどなかったように。


「やめときなよ、真奈。あんたが行ったところで追い返されるだけだ。通報されたのはあくまで西條一人なんだから」

「檸檬……」


 あたしは彼女の口振りに含みを感じ取る。

 それはまるで通報内容を完全に理解しているような。


「もしかして、通報したのは檸檬なの……?」

「いや、知らない。知らないけど、私がしたっていうなら何か問題ある? クラスメイトがより善く生きられるように導くのは私達の義務じゃないか?」


 それは彼女が通報したと言っているようなものだった。

 いくらでも誤魔化せるように婉曲的に伝えて来ているだけだ。


「それはそうだけど……でもっ!」

「まーちん、どう見ても普通じゃないよ、最近ずっとさ。ふらふら歩いてるし、授業もろくに聞けてないみたいだし。病院に行ってちゃんと検査してもらった方がいいよ」


 いつものように檸檬の傍にいた英美里が言う。


「あたしのことなんてどうでもいいっ!」


 どうして檸檬も英美里もあたしの邪魔ばかりするのか、理解が出来なかった。

 恐ろしいほどの怒りが込み上げてくる。

 もはや自分の感情を制御し切れていなかった。


「どうでもよくないよ、わたし達にとっては。まーちんは大切な友達だから」

「真奈……いい加減、目を覚ましてよ。一緒に駄目になるのがあんたにとっての友達なのか? 少なくとも、私は大切な友達が駄目になるのを見てなんていられない。どんな手を使ってでも連れ戻すよ」


 二人は諭すように穏やかな口調だった。その言葉は優しさで溢れていた。

 だからこそ、かも知れない。あたしの思考が僅かな間だけ明晰になったのは。


 そうだ。本当はずっと前から気づいていた。

 なのに、見て見ぬ振りをしてきた。


 桐香を初めて見たあの日から、あたしを突き動かすこの感情は、これまで積み重ねてきたものを壊し続けていた。


 それでもこの想いは間違っていない、と進んだ先に見えてきたのは深淵だ。

 一度、入ってしまえば二度と戻ってくることは出来ない、異なる世界。


 桐香はそれを望んでいる。この息苦しいだけの社会から逃れたがっている。


 でも、あたしは違う。

 そこまでの絶望をこの社会にも世界にも抱いてはいない。


 だから、彼女と一緒には行けない。いや、行きたくない。

 それが本当の気持ち。


 なのに、いつしか後には引けなくなっていた。

 どこまでも転がり落ちていくしかなくなっていた。


 結局、あたしは前と何も変わっちゃいなかったのだ。

 気が付くと、彼女の言葉や想いを受けるだけの器になっていた。

 自分の意思はどこにもなかった。

 自分は何を求めているのかも理解していなかった。


「分からない……分からないんだよ……あたしはもう自分がどうすればいいか、何も分からなくて……」


 怒りは途端に悲しみへと移ろい、涙が溢れ出て止まらなくなる。

 感情の堰が決壊していた。もう自分でも何を言っているのか良く分からない。


 二人はそんなあたしを抱き締めてくれた。


「……西條が通報されたのはあくまで不法侵入だけだ。それ以上のことがあるわけじゃない。だから、厳重注意くらいで済む、と思う」

「大切ならちゃんと話をしないとねー」


 二人はあたしと桐香の犯した罪を知っているように思えた。

 その上で彼女達は見逃がしてくれている。


 それはこの社会では決して善くない行い。

 けれど、だからこそ、そこには社会の合理性を越えた彼女達の想いがあるように感じられた。


 その後、あたしは二人に保健室へと連れて行かれた。

 ベッドに入り柔らかな布団に包まれたあたしは、あっという間に深い眠りへと誘われた。それは久しく感じられていなかった、穏やかな時間だった。



♦ ♦ ♦



 授業が終わる少し前に保健室を出たあたしは、廃ビルの前にやって来ていた。

 入り口には警備ロボットが立っており、もう中に入れそうにはない。


 なので、少し離れた場所で待つことにした。

 程なくして、桐香が姿を現す。


「真奈。あなたが通報したの?」

「ううん。あたしの友達。多分、尾けられたんだと思う」

「そう……良かった」


 彼女はほっとした顔を見せる。裏切られたように感じていたのだろう。

 だけど、それは何も違ってはいない。

 なぜなら、今からあたしは彼女を裏切るのだから。


「また探せばいいわ。監視の網を逃れている場所くらい、他にもあるし……」

「ねえ、桐香……もう、あたしは君と一緒には行けないよ」


 あたしは首をゆっくり横に振って、そう告げた。

 桐香は愕然とした表情で問いかけてくる。


「……どうして、どうして今になってそんなことを言うの? 私達はあんなにも分かり合って、一緒にどこまでも行けるって、約束したじゃない」

「あたしは友達や家族がいるこの世界ばしょがいい。他のところになんて行きたくはない。結局、あたしは桐香のことを何も理解なんて出来てないんだよ。あたし達はこれっぽっちも分かり合えてない」


「そんな……」

「ごめん、約束破って」


 あたしはこれが最善だと思った。


 一緒にいれば彼女はどこまでも行けてしまう。

 だから、一緒にはいられない。いてはいけない。それが二人の為だ。


 彼女に背を向ける。それは決別の意思の表れ。


 その場を立ち去ろうとすると、背後から声が届いた。

 深い地の底より響いてきたように重く憎しみのこもった声。


「……裏切り者。絶対に許さない」


 最近の倦怠感や頭痛とは別の要因で、胸が激しく痛んで動悸がしてくる。


 こんな風になるなんて、少し前には思ってもいなかった。

 二人だけの世界。聖域。そんな時間が間違いなくあった。

 だけど、いつだって世界は残酷で。

 あたしと彼女が二人でいることを許してくれなくて。


 あたしは今度こそ自分の意思で選んだ、はずだ。

 二人が共にいないことで、二人は救われるはずだって。


 けれど、本当にこれで良かったんだろうか。

 もしかして、何か違う道があったんじゃないか。

 本当に、あたしはこの結末を望んだのだろうか。


 帰宅してもそんな思いが晴れることはなかった。



♦ ♦ ♦



 次の日、あたしが教室に入ると桐香は本を読んでいたが、僅かに違和を覚える。何かが変に思えた。しかし、もはや自分が彼女と関わるわけにもいかない。


 あたしはすぐに視線を切って彼女を見ないようにした。

 桐香と仲良くなる前のように、いやあの時のように眺めることすら許されず、あたしは檸檬や英美里、他のクラスメイト達との一日を過ごしていく。


 ――そんな中、休み時間にそれは起きた。


 あたしは桐香が自席から姿を消していることに気が付いた。トイレだろうか。

 ついつい彼女のことを気にしてしまう。

 この想いを振り切らなければいけないのに。


 そうして、休み時間もそろそろ終わろうかという時――突如として廊下の側から男女入り混じった悲鳴の嵐が舞い込んできた。それは異常な事態が発生したことを容易に想像させた。


 あたしは即座に確信する。桐香だ。彼女が何かしたのだ、と。


 慌てて廊下に飛び出した。すると、そこには血、血、血。

 床に壁に天井と飛び散った大量の血が視界に入った。


 その中心に立つのは、桐香。手に持つのは血塗れの包丁。

 白い制服は返り血で赤黒く染まっている。


 彼女の足元や背後には数人の生徒が倒れていた。

 呻き声を上げ、地を這いずっている。


 他の生徒達は遠巻きに桐香を見ていた。

 誰も彼女を止めようとはしていなかった。


「流石の社会評価も自分の命には代えがたいのね」


 彼女は侮蔑するように呟き、そして。


「ふ、ふふふ、あは、あはははははははッ!」


 妖しく嗤う。顔にも血の雫がいくつも飛んでおり、それは一層、彼女の狂気を引き立てていた。


「桐香……」


 あたしは周りの生徒達から一歩、前に出る。彼女もこちらを見た。


「真奈。あなたのお蔭でやっと分かったわ」


 彼女の瞳孔は開き切っていた。あのクスリを使っているのだろう。


「やっぱりこんな世界に生きる価値はない、って。誰にも私の気持ちなんて分からない、って。だから、最後に嫌がらせをすることに決めたの。この社会では虫けらみたいでいないも同然な私だけど、一矢報いるくらいはしたいじゃない?」


 桐香は「ふふ」と愉し気に微笑む。背筋がゾクリとした。恐れ慄いた。

 彼女をこうしてしまったのは自分だとまざまざ見せつけられているようだった。


 あたしは桐香と関わった。仲良くなった。

 なのに、それをなかったことにしようとして、逃げ出して。


 覆水は盆には返らない。あたしと関わる前の桐香に戻るなんてありえない。

 だからこそ、これはあたしの過ち。


 紛れもなくあたしが生み出した『公共の敵パブリック・エネミー』だった。


「でも、それもこの辺りが潮時ね」


 彼女は周囲を見回してそう呟くと、手に持った包丁を自分の首元に当てた。


「さよなら、真奈……一緒に死にたかった」


 ニコリと微笑む桐香の頬を一筋の涙が伝う。


 ふざけるな。


 そう思った瞬間、身体が勝手に動いていた。

 理性は「やめろ」と言う。「想像を絶する痛みだ」と言う。「今度こそ全てを失うかも知れないぞ」と言う。


 けれど、どうしようもないくらいに感情が叫んでいた。

 社会が固めた理性なんて振り解け。迸る裸の想いが求めるままに突き進め。


 あたしはこれまで散々振り回されたその想いを、肯定する。受け入れる。選ぶ。それがこれまでとの違い。あたしは誰でもないあたしの望みを叶えるのだ。

 きっと、本当の意味での選択とはそういうことなのだろう。


 だから、さあ――全力でその手を伸ばせ。


「なっ……!?」


 耳元で桐香の驚く声がする。

 あたしの手は包丁の刃先を掴んでいた。血が地面へと滴り落ちる。

 あまり痛くはなかった。ジジジと痺れるような感じ。


「ねえ、桐香」


 今度こそ間違わない。彼女と関わることを逃げたりしない。

 真っ直ぐ向き合う。


「桐香は一緒に死にたかったって言ったよね。あたしも君の望みなら何でも叶えたいって思ってたよ。でも、それはやっぱり違うんだ。あたし自身の望みとは相容れない」


 自分の欲望。求めているもの。

 これまで誰にもぶつけようとはしてこなかったもの。

 それを今ようやく言葉にする。


「あたしは、桐香に生きて欲しい! これからも桐香と共に生きていきたい!」


 彼女が我欲をあたしにぶつけてくるのなら、あたしだって彼女に我欲をぶつけよう。傷つけ合っても構わない。

 傷つけ合いながらお互いが納得できる場所を探し続ける。


 だって、好きだから。大切だから。何よりも愛おしいから。


 それがあたしなりの答えだ。


「桐香が一緒に死にたいっていうならそれで構わない! でも、これがあたしのありのままの気持ち! 剥き出しの欲望! だから、絶対に死なせてたまるものかッ!」


 あたしは掴んだ包丁の刃先に力を入れて、桐香の手から奪い取った。

 それは壁にぶつかって床に落ちる。


 背後からボソリと「流石ゴリラ……」と檸檬の声がしたが、今は放っておく。後でお説教。


「何で、死なせてくれないの。こんなにも生きるのは辛いのに……それでも、それでも生きろって言うの!?」

「うん。言う。辛くても生きて」


「……我儘。自分勝手。馬鹿。最低」

「そんなのお互い様だよ。桐香は自分らしくいてくれればいい。全部受け止めるから。その上で、あたしもちゃんと自分の望みを口にする。自分らしくいる。いつかきっと、幸せに生きたいって思わせてみせるよ」


 あたしは桐香を強く抱き締めた。もう離さない。そう伝えるように。


「真奈……私……ごめん、なさい」


 彼女は既に自死への気力を失っているようだった。


 程なくして職員がやって来た。桐香は拘束され連れて行かれた。

 あたしはひとまず治療の為に保健室へ。その後は病院だろう。

 後になって掌がジンジンと痛み出して泣きそうだった。


 これからどうなるのかは分からない。

 だけど、何が待っていてもあたしは桐香の味方でいようと思う。

 それは揺らぐことのない決意だった。

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