三話
「ね、桐香。あたしにも煙草ちょーだい」
「……どうしたの、急に」
あたしと桐香はいつも通り、放課後に廃ビルの屋上へとやって来ていた。
煙草を喫う桐香を見ていて、ふと興味が湧いた為の要求だった。
「どんな感じなのかな、って気になっちゃって」
「まあ、いいけど」
煙草の箱から一本渡してくれる。
どっちから喫うんだろ、と戸惑っていたら、彼女が手に取ってくわえさせてくれた。火までつけてくれる。至れり尽くせりだ。
そうして、あたしは軽い気持ちで出てくる煙をスッと吸い込んだ。
瞬間、生温い煙がぐわっとあたしの喉から肺へと入りこんできて、蹂躙し始める。猛烈にむせて咳き込んだ。
「ごほごほっ……うー、桐香ぁ」
涙目で恨めしげに桐香を見ると、彼女は肩をすくめていた。
こうなることを予期していた様子だ。
「別に肺に入れなくたっていいのよ。ニコチンが欲しい人は肺に入れた方がいいけど」
「え、じゃあどうして喫うの? ニコチンが欲しいから喫うもんじゃないの?」
「前にした紙の本の話と似たようなものね。私は煙草を喫う時間や空間そのものが好きなの。他のことは何もせず、ただぼんやりと空を眺めたりして、そんな瞬間がとても愛おしく思える」
「なるほど……」
今度は煙を口元に留めて、宙に吐き出してみる。
確かに、これならむせる心配はなさそうだ。
あたし達は煙草を喫いながらまったりと穏やかな時間を過ごす。
夕焼けは徐々に薄らいでいて、夜の帳が下りるまでもうすぐだろう。
安堵感がそうさせたのか、あたしは心の奥底にあるものを掬い上げるように、ポツリポツリと言葉を紡ぎ始める。
桐香に聞いて欲しいと思った。本当のあたしを。
「……あたし、昔からどうしても自分に自信が持てないんだ。自分で何かを選ぶことが凄く怖い」
これで良いのだろうか。間違っているのではないか。
そう思うと、何も言い出せなかった。
いつも大人達は困った顔であたしを見た。
困らせてしまう自分がまた嫌になった。
「誰かに頼られると安心したよ。こんなあたしでも役に立てるんだ、これでいいんだ、って。いつしか誰かの言葉があたしを動かすようになってた」
相手が喜んでくれることだけを考えるようになった。
積極的に困った人の助けをした。必死に頑張った。
特に、優れた運動能力を活かせる場は多かった。
部活の助っ人は重宝してもらえた。
自分で何かを決めなくていい。誰かの言葉や想いに従っていればいい。
それは紛れもなく楽だった。自分で自分を追いつめて苦しまずにいれた。
「でもね、そうやってたら、いつからか自分自身が何をしたいのか、良く分からなくなっちゃったんだ。この社会はあたしを正しいって言ってくれる。皆も偉いね、ありがとうって言ってくれる。だけど、それは本当のあたしなのかな……」
紅葉真奈という器を満たすのは他人の言葉や想いばかりだった。
そこには誰もが宿すはずの自分の意思はなかった。どこまでも虚ろな存在だ。
「だから、桐香を初めて見た時、凛々しくてかっこいいって思った。他人を拒絶して、この社会を否定して、懸命に生きるその姿が。こんな風になれたらな、って憧れた。空っぽなあたしを照らしてくれる光みたいに思えたんだよ」
あたしは恥ずかしい自分語りを終える。
曝け出した弱さと本音、そして今の自分を突き動かす感情。
桐香は黙って最後まで聞いてくれていた。程なくして、彼女は口を開く。
「私は、別に真奈が思うようなかっこいい人間じゃない。どこまでも中途半端で情けなくて醜い社会不適合者。いつだって独りでいることに苦しんで、だけど誰かと共にいることも出来なくて、どこにも行けずに堂々巡りしてるだけ。……それでも、そんな私でもいいなら、一緒にいて欲しいって、そう思う、かも」
それは彼女なりの返事だった。最後はなぜか曖昧だったが。
桐香は赤面していた。といっても、あたしも多分似たようなものだ。
この時、確かに二人の想いは通じ合ったのだと思う。
「約束するよ。あたしは桐香を独りにしない」
「真奈……ありがとう。私、あなたと出会えたことが嬉しい」
「それはあたしもだよ。桐香に出会えたことが嬉しい」
日が完全に暮れて、夜空に星が満ちていく。普段なら帰る時間だ。
桐香は煙草の処理をすると、頭上に煌めく星々へと手を伸ばしながら、呟いた。
「私ね、昔からここじゃないどこかへ行きたいってずっと思ってた。でも、ちっぽけな子供にはそんなこと出来なくて……どうしようもないって諦めてた」
彼女は星からこちらに視線を移す。
「今なら、真奈と一緒なら、行けると思う。独りじゃ怖かったけど、二人ならって」
そう言って彼女が差し出してきたのは極彩色の錠剤だった。二錠分ある。
「これは……?」
「私にいつも煙草を売ってくれる人がいるんだけど、他にも色々と売ってるものがあって、その中にこれがあるの」
それは煙草と同じで現代ではすっかり排除されてしまったはずの代物。
クスリ。
知識として違法だということは知っていても、それ以上のことは良く知らない。
「ねえ、真奈。私と一緒に行って欲しい、ここじゃないどこかに。そこはきっと楽しくて、嬉しくて、面白くて、たくさんの
あたしは桐香の手から錠剤を一つ受け取る。迷いはなかった。
だって、それを彼女が望んでいるのだから。
「うん、どこまでも一緒に行こう、桐香」
あたしと桐香は頷き合って、それを口に含み、呑みこんだ。
その後、お互いの手を握る。
彼女の細くしなやかで冷たい指があたしの指と絡んだ。
それは二人が傍にいることを強く感じさせてくれた。
程なくして、効果が表れ始める。
目の辺りに違和を覚えた。心臓が激しく脈打つ。身体が熱い。
しかし、それらはどれも始まりに過ぎなかった。
世界の見え方が、
「真奈! ほら、見て!」
突然、桐香が頭上を指差して叫んだ。その目は瞳孔が開き切っていた。
見上げると、星空が落ちてきた。いや、落ちて来たわけじゃない。
こちらの身体が浮き上がっているのだ。
あたし達はあっという間に大気圏を抜けて、キラキラと輝くお星様の海に飛び込んだ。
「桐香! ほら、お星様がこんなにも近くにあるよ! まるで金平糖みたい! 手に取って、転がして、食べちゃえる!」
「ええ、食べちゃいましょう! そしたら、私達も星になれるかも!」
「星になってどうしようか!?」
「どこまでも飛んで行きましょう、流れ星のように! 天の川、
「そうだね! 飛んで、回って、踊ろう! あははははっ!」
あたしと桐香は互いの手を握って、宇宙を舞い踊り巡っていく。
我流の無茶苦茶な踊りだが、楽しくて仕方がなかった。
この瞬間、あたし達は紛れもなく世界の中心だった。
そこは二人だけの世界。誰も侵すことの出来ない聖域だ。
未だかつて味わったことのない幸福感に包まれていた。
だから、あたしは心の底から願う。
こんな瞬間がいつまでも続けばいいのに、って。
♦ ♦ ♦
「……ここは」
気が付くと、あたしと桐香は屋上に仰向けで転がっていた。
片手を強く握ったままで、彼女が起きてくれないと外せそうにない。
今は何時だろう。時間の感覚がない。
薄らと残る先の体験が一瞬のようにも永遠のようにも思えた。
自分の身体を見ると、あちこち擦り傷だらけだ。制服も随分と汚れている。
クリーニングで済めば良いけど、買い替えることになるかも知れない。
と、そこであたしは僅かに空が白んでいることに気が付いた。
日が上り始めている。つまりは朝だ。
あたしは慌てて桐香を起こしにかかる。
「桐香! 早く起きて、朝だよっ!」
「…………朝っ!?」
彼女はがばっと勢いよく起き上がった。
いつもサラサラで綺麗な彼女の髪がくしゃっとなっていた。
「桐香、髪が酷いことになってるよ」
「……真奈だって」
「えっ」
あたしは自分の髪に手を当てて確認。
癖毛が縦横無尽に飛び跳ねているように感じられた。
互いの顔を見合わすと、ぷっと噴き出した。
ようやく握っていた手を離し、これからどうするかを話し合う。
「お互いの家に泊まってたことにしよっか」
「そうね。あまり早朝すぎると怪しまれるし、ちょうどいい時間になったら出ましょう」
「うん、分かった」
あたしはその場に立ち上がって伸びをする。
晴れ晴れしい気分だ。まだあの幸福感が続いているように思えた。
♦ ♦ ♦
あれ以来、あたしは学校でぼんやりしていることが増えた。
何だか身体が妙に怠い。授業が始まってもまるで頭に入って来なかった。
気が付くと、寝ていることもあった。不真面目だ。
あたしの社評は着実に下がり続けている。
「まーちん、顔色悪いよ? 保健室行こ」
「大丈夫大丈夫……」
机に突っ伏しているあたしを檸檬と英美里や他のクラスメイトも心配してくれるが、何とか笑顔を作って誤魔化した。
やがて、放課後になると身体を引きずるようにして廃ビルに向かう。
そこにはいつだって桐香がいた。
彼女を見れば、襲い来る倦怠感も楽になった。
あたし達は二人でどこまでも墜ちていく。
それこそ桐香の望むことだったから。
もはやその行き着く先を想像することは容易い。
けれど、あたしは本当にそれを望んでいるのだろうか。
そんなことを考える気力はとうに失われていた。
♦ ♦ ♦
「真奈」
放課後、いつものようにあたしが教室をさっさと出て行こうとすると、檸檬に引き留められた。英美里も一緒だ。
「……何、どうかした?」
身体の倦怠感は増す一方だ。激しい頭痛までしている。
どうしても笑顔は作れなかった。
「一緒に帰らないか。英美里も今日は真っ直ぐ帰るらしいから」
「せっかくだし、まーちんも一緒に、ね?」
廃ビルで待つ桐香のもとに直接向かう以上、一緒に帰るわけにはいかない。
方向が少し違うし、到着が遅くなってしまう。
「ごめん、ちょっと用事があって、急いでるんだ」
あたしはそれだけ言い残して二人に背を向ける。
しかし、檸檬は逃がしてくれない。
「そんな身体でどこに行くっていうんだよ。病院か? 違うよな。ずっとそんな状態なんだから。いや、むしろ悪化してるように見えるよ」
「別に、今はちょっと忙しくてさ」
今日に限ってどうして檸檬はこんなにも絡んでくるのか。
あたしは沸々と怒りが湧き上がって来るのを感じた。
これまで彼女のことをこんな風に思ったことはなかった。
今度こそ話を断ち切って出て行こうとする。
「それじゃ――」
「西條と会ってるんだろ? 一体、二人で何してるんだよ」
しかし、檸檬の核心を突いた言葉が遮った。
彼女は初めからそれを問い質そうとしていたのだろう。
あたしは勘繰られているようで我慢ならなかった。
口をついて出た言葉は確かな苛立ちを伴っていた。
「何しててもいいじゃん、あたしの勝手だよね? 檸檬に何か関係ある?」
「関係ってそんなの……」
檸檬は言葉を詰まらせていた。その目に薄らと涙が浮かんだように見えたが、すぐに英美里が間に入って来たので分からない。
「ごめんね、引き留めて。急いでるんだったら行っていいよー」
英美里は普段と変わりない様子でそう言った。
けれど、その後に続いた言葉はどこまでも無機質に感じられた。
「でもさ、一つだけ言わせて欲しいけど、前のまーちんは嘘ついたり、れみーに酷いことを言うようなことはしなかったよ」
あたしは黙って教室を出た。英美里が檸檬を慰める様子が視界の端に入る。
見ない振りをした。そうしなければ、心の動揺を抑えることが出来なかった。
何も変わったつもりなんてない。だけど、もう良く分からなかった。
感情が抑えきれなかった。情緒に異常を来たしていた。
今はただ早く桐香に会いたい。その一心で歩き続けた。
「桐香」
廃ビルに辿り着くと、彼女も何だか体調が悪そうだった。
元より青白い肌が一層淡く見えた。
「真奈」
あたし達は他愛もない話をする。煙草を喫う。あのクスリを口にする。
二人だけの世界で幸福感に満たされる。
聖域。そう、この場所はあたし達の聖域だ。誰にも侵すことは出来ない。
そんな風にあたしは考えていた。
けれど、思い込みが崩れ去るのはほんの一瞬で。
願いは泡沫のように儚いものでしかなかった。
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