二話

 次の日、登校したあたしは窓際で本を読む西條さんを見る。


 彼女は身体を動かさずに、けれど視線だけはこちらに向けてくれたように思えた。なので、ニコッと全身全霊の笑顔を向ける。同じように返してはくれなかった、残念。でも、その口元が僅かに緩んだように見えたので、良しとしよう。


 あたしは既に来ていた檸檬と英美里に近寄った。


「やほー、檸檬、英美里」

「あ、まーちん、おはおは~」


 英美里はにこやかに返してくれるが、檸檬はネットを見ているようで、こちらに目を向けることもなく。


「おはよ、ゴリラ」

「おい」


 あたしは思わずドスを効かせた声になる。昨日のことで気分が良くなければ、首根っこをひっ掴んでいるところだ。しかし、それを予期していたらしい檸檬も不審に思ったようで。


「あれ、手を出さないなんて真奈らしくないな。もしかして、中身がゴリラじゃなくなった……!?」


 前言撤回、やっぱり首根っこ掴みます。


「二ゴリラということはなかなかの上機嫌だ。健康そうで何より」


 首根っこを掴まれ慣れた檸檬は慌てる様子なく、「うんうん」と頷いて見せる。あたしは彼女をゆっくり下ろして、苦言を呈す。


「もう~、やめようよ、人をゴリラ呼ばわりするのさぁ」

「だって、考えてみなよ。あんなこと出来るのゴリラじゃなきゃ何? ね、英美里」


「まあ、確かにねー。こないだのあれは……うん、とても人間業じゃなかったよ!」

「うぐぅ……」


 何も言い返せなかった。


 ちなみに『こないだのあれ』とは、体育でソフトボールのピッチャーをやった時、僅か数球投げた段階で、指に力を入れ過ぎてボールを潰してしまった出来事を意味する。


 皆が唖然とした。あたしも唖然とした。

 存在がインチキだと言われてピッチャー禁止になった。

 バッターの時は片手で打てと言われた。ホームランを打った。


 あたしは今でもあれはボールが劣化していただけだと信じている。

 何だか自分が恐ろしくなるので試しはしないけど。


「ゴリラじゃなきゃオランウータンだ。どっちにしろ人外の身体能力」

「まーちんは世界を目指すべきだよ!」

「……考えておきます、はい」


 まあ、あたしも別に怒ってはいない。檸檬とは長い仲だ。

 お互いどこまで言っても大丈夫かは十分に把握している。


「で、何があったのー?」


 英美里は何の気なしに上機嫌な理由を問いかけてきた。

 しかし、あたしは言葉に詰まってしまう。


 いくら檸檬達と言えど、西條さんのことを話すのは気が引けた。

 二人共、怒るに違いない。どうして通報しないんだ、って。


 そんなこちらの態度を訝しんだ二人はこそこそと喋る。


「……こいつは怪しいですな、れみー隊長」

「……怪しいな、英美里隊員」

「……恋かな、れみー隊長」

「……恋だな、英美里隊員」


 二人は互いに頷き合って、こちらを向いた。


「あはっ! お話聞けるの楽しみにしてるねっ!」

「うん、楽しみだ。まるで我が子が嫁に行ってしまう気分」


 英美里は愉快そうに、檸檬はしみじみと語る。


「二人して何か勘違いしてるでしょ絶対っ!」



♦ ♦ ♦



 いつも放課後になると、あたしと西條さんは廃ビルの屋上で巡り合う。

 それはまるで夕日射すこの時間にしか出会えない二人であるかのようだった。


 基本的に西條さんの方が先に着いているので、あたしが扉を開けると、大抵は煙草を喫っている姿か本を読んでいる姿が目に入った。


 本を読む西條さんの横に座ったあたしは、ふと気になったことを聞いてみる。


「どうして紙の本なの? 今時、紙で読んでる人なんていなくない?」

「そうね。高いし重くてかさばるし指先はかさつくし保存に場所は取るし」


 あたしは「うんうん」と頷くが、彼女は「でも」と続けた。


「それがいいのよ。それも含めて本だって私は思う。そんな非合理的な部分にこそ価値があるんじゃないかって。確かな重みがあって、触れる感覚があって、匂いがあって、音があって、それらを愛おしいと思うこの気持ちに」

「そういうもんなんだ……」


 あたしは本を読む習慣も持たない人間なので、ただ納得するしかない。


「この社会が社会にとっての合理性を尊ぶからこそ、余計にそう思うわ」

「社会にとっての合理性?」


「例えば、紅葉さんは――」

「あ、ちょっと待って」


 西條さんが何か言おうとしたところを遮る。彼女は不思議そうに首を傾げた。


「名前で呼んで」


 理由なんてない。ただ『紅葉さん』と呼ばれるのが気になっただけ。

 あたしもこれからは彼女のことを名前で呼ぼう。桐香。桐香。桐香。よし。


 そうして、桐香の目をジッと見つめる。彼女はこちらから逸らそうとするけど、逃がさない。


「桐香」


 すると、彼女は観念した様子で、恥ずかしそうに顔を赤らめながらも、呟く。


「真奈」


 彼女に自分の名前を呼ばれた時、何だか胸がじわぁっと温かくなった気がした。あたしは満足して彼女に続きを促す。


「ごめんね、話を止めて。それであたしが何?」

「……もみ――真奈は」


 桐香はまた名字で呼ぼうとしたので、ジトッと睨んだら、ちゃんと言い直してくれた。

 彼女は一度言葉を区切り、強調するように言う。


「誰かを殺したいって思ったことはある?」

「ない、けど」


「じゃあ、誰かを殺すことは悪いって思う?」

「う、うん」


「それはどうして?」

「そりゃ、何ていうか、理由なんてなくても悪いことだから……」


「もし人を殺すことが普遍的に悪いことだとすれば、どうして昔の人は戦争なんてしたの? もっと遡れば、人が人を殺すなんて日常茶飯事のように起きていた時代だっていくらでもある。それなのに、なぜ悪いことだと断言できるの?」


 桐香は言葉を奔流のようにぶつけてくる。


「何が言いたいかっていうと、人が人を殺してはいけないってルールがないと社会に悪影響を与える、社会がそもそも成立しないかも知れない、だから、人類は古代いにしえから現代いまに至るまで長い時間を掛けて、社会的におよび本能的に擦り込んできた認識でしかないのよ。つまり、あなたが人殺しを何となく悪だと認識するのも、社会的情報ミーム遺伝的情報ジーンが混ざり合った結果に過ぎないの」


 そこまで言い切って、彼女はハッとした表情をする。


「……ごめんなさい、少し熱くなったわ」

「な、何となくは分かったよ、たぶん」


 分からない言葉もあったけど、自分なりに解釈してまとめてみる。


「あたし達の善悪は社会に規定されている、って感じだよね」

「そう。特にこの現代はね。昔は人殺しってそれなりにあったわけだけど、社会評価制度が取り入れられてから、犯罪自体が急激に減少した。誰もが社会の示す善だけを基準に行動するようになったのよ。それが社会にとっての合理性を尊ぶということ」


 彼女は忌々しそうに口にする。それを見て、あたしは思った。


「桐香は、この社会が嫌いなんだね」

「ええ、大っ嫌い。欺瞞だらけで吐き気がするわ」


 それは桐香の心の底から湧き上がる怨嗟の声のようだった。

 社会に満ちた欺瞞こそ、彼女が他者を拒絶する理由。


 けれど、それは同時に彼女がこの社会で孤独であることも意味している。

 胸がチクリと痛んだ。

 あたしはきっと、彼女が非難するような、ただ流されて生きてきた人間だから。


 そう気づいた時、あたしは焦ったのだ。

 このままでは彼女と一緒にいることは出来ないと思えた。


 停滞をやめなければならない。

 これ以上、同じ場所で立ち止まってはいられない。

 だって、あたしは桐香という光に狂おしいほど恋い焦がれたのだから。



♦ ♦ ♦



「え、もう助っ人出来ないってマジ?」

「ごめんね、ちょっと色々あってさ」

「そっかぁ……まあ、しゃあないね」


 部活の助っ人を頼みに来た彼女は嫌な顔もせずに去って行った。

 廊下から教室に戻ったあたしに、英美里が問いかけてくる。


「また部活の助っ人?」

「うん。でも、断ったよ」


 あたしがさらりと答えたら、檸檬と英美里は一拍遅れて「え」と驚きの声を上げた。


「あんだけ片っ端から引き受けてたのに、どういう風の吹き回しだよ」

「もう、そういうのはやめようかな、って思ってさ」


「…………」


 檸檬と英美里は互いに目を見合わせる。

 そんなにおかしなことを言っただろうか。


「これが恋の為せる業か……」

「恋する乙女は強い!」

「いやいやいや、何を言っているのかな、お二人さん」


 あたしは慌てふためく。けれど、二人は笑みを深めるばかりで。


「だって、そういうことだろ?」

「ねー」


 そう言って、ちらりと桐香の方を一瞥し、あたしの顔と見比べる。

 彼女達にはあたしの変化のきっかけを見透かされてるようだった。


「はい、おっしゃる通りです……」


 頭を垂れて降参した。もはや言い逃れは出来ない。

 顔が熱くなっていた。赤くなっていそうだ。


「となると、ちゃんと勉強しような。教えてやらないこともないから」

「だねー。平均点目指そう」


 桐香とのことを追及されると思ったが、そうではなかった。

 それよりも彼女達はあたしの社評の心配をしてくれていた。

 実際、これから減少していくことは容易に想像出来る。

 それを阻止するには勉強は不可欠だと言えるだろう。


「頑張る!」


 あたしは両手を握りしめて、そう宣言した。

 英美里はパチパチと拍手してくれたが、檸檬は憂慮することでもあるように述べる。


「ま、程々にな。真奈は頑張り過ぎるタイプだから」


 しかし、檸檬の心配があたしに届くことはない。

 彼女がなぜそのように言ったのか、これっぽっちも理解してはいなかったのだから。

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