(12)※




 鍵を開け、玄関を入ってすぐの明かりをつける。その時、三和土に見覚えのある黒い革靴が並んでいることに気が付いた。


「これ、都倉さんの……」


 小さくそう呟いてから視線だけをそっと上げると、暗い廊下の奥へと意識を集中させた。

 雨音に混じってかすかに響く雷鳴、車の走行音、クラクション。耳に届くのは外からの雑音ばかりで、室内で人が立てるような物音はまったく聞こえてこない。そもそも誰かいるのなら、私がここに慌ただしく入ってきた時点で何か反応があるはずだ。それがないということは、今この別宅は無人なんだろう。ここに都倉さんの靴が置かれている理由はよく分からないけれど……。

 何となく高まった緊張から解かれて小さく息を吐き出すと、抱えていたカバンを三和土の隅に置いてファスナーを開けた。防水素材でできたものを選んだお陰か、中身は雨の影響を受けずに済んだみたいだ。奥に押し込まれてぺちゃんこになっていた予備のタオルを探り出し、服の上から体を拭きながら、さてこの後どうしようかと頭を巡らせた。

 心配症の悪い癖というか、汗をかきすぎて途中着替えるかもしれないと思って下着はもう一組持ってきてはいたけれど、服の予備までは用意しなかった。とりあえず乾燥機で服を乾かして、その間は前にベッドルームで見かけたバスローブを少しだけ借りることにしよう。この土砂降りがいつまで続くかは分からないけれど、少しでもおさまったタイミングでマンションを出ればいい。傘が必要そうなら、ここからもう少し駅の方に行ったところにあるコンビニまで走って……と、帰宅するための手順を考えながら部屋を行き来した。

 濡れた服と下着を乾燥機にかけ、冷えた体をシャワーで少し温めてから、下着だけは新しいものに着替えてバスローブを身に纏う。そして服が乾くのを待つ為に、今度はリビングの方へと向かった。

 ドアを開けてすぐ、私はびくりと肩を上げて一歩後ろへ下がってしまった。フロアランプがぼんやりと薄い光を放っていて、その光がソファに横たわっている人の影を照らし出していたのだ。

 それが都倉さんであることはこの位置からでもちゃんと分かった。さっき人の気配を感じなかったのは、誰もいなかったからではなく眠っていたからのようで、都倉さんは私が不躾に開けたドアの音に何の反応も見せなかった。

 薄暗い部屋を見渡してみる。奥のキッチンはもちろん、上の書斎も明かりはついていないし、さっきバスローブを取りに入ったベッドルームにも人はいなかったから、ここに来ているのはどうやら都倉さんだけらしい。新山部長からは危険な状態だと聞かされていたけれど、こんなところで一人で寝ていて大丈夫なんだろうかという不安が頭をもたげた。


「……ちょっと待って、まさか」


 急に思いついた可能性に背筋を凍らせながら、私は小さく呟いた。仮眠をとっているんだとばかり思っていたけれど、もしかしたらまた前みたいに倒れてしまったんじゃないか。とりあえず体を休めようとあそこに寝転んだまま意識を失って、それで……。

 シルエットで誰かは判別できたとはいえ、フロアランプの光は弱々しくて、表情や息をしているかどうかまでははっきり分からない。渇望期の発作が起きている時は近づくな、という都倉さんの言葉が頭をよぎったけれど、私は意を決してソファのそばに寄り、その場に膝をついてそっと顔を覗き込んだ。

 穏やかな寝息と同じリズムで、都倉さんの胸元がわずかに上下している。苦しそうな様子には見えないし、本当にただ眠っているだけのようだ。私はほっと胸をなで下ろし、改めて都倉さんの寝顔に目を落とした。

 柔らかい光に照らされた長いまつげが、白い頬に影を落としている。赤みの強い唇はその肌の白さに映えていて、男の人に対する表現としてはおかしいかもしれないけれど、白雪姫が実在するならきっとこんな感じなんだろうと思った。それなら、その寝顔を見つめる私は王子様? いやいや、どっちかと言うと七人の小人たちの内の一人だろう。


「きれいだなぁ……」


 心の声を言葉にしてこぼした途端、都倉さんが軽く身じろぎした。私の呟きに反応したわけではないようで、起きる様子はなさそうだ。ただ、動いたせいで流れた前髪が、都倉さんの目元を覆ってしまっているのがどうしても気になる。もう少しだけちゃんと寝顔を見ていたい、そう思った私は髪をそっと取り除けた。

 再び露わになった長いまつげが、私の指先をくすぐる。そのまま手を下ろせばよかったのに、私はなぜかその流れで頬へと指を滑らせていた。何度か往復させて、少し冷たくなめらかな肌の感触を味わってから、親指でそっと唇をなでる。こんなにきれいな人の無防備な姿を前にして、触れずにはいられなかった王子様の気持ちが、しがない小人の私にも分かった気がした。

 自分が今、具体的に何を思ってこんなことをしているのかはよく理解できていなかった。ただこうやって都倉さんに触れることを心地よく感じていて、都倉さんが死の淵にいることや、ドナーになるならないで悩んでいたことなんかも忘れ、恍惚に完全に身も心も預けていた。そのせいなのだろうか、都倉さんが瞼を開いたことに気付くのにすっかり遅れてしまって――。


「――咲葵」


 掠れた声で名を呼ばれ、はっと我に返った私は慌てて手を引っ込めた。と同時に、今自分がどんな恰好をしているのかを思い出してしまい、心臓は走った直後のような激しい拍動を打ち始め、それに合わせて頬の温度は急上昇していった。


「すまないが……水をもらえないか」

「へっ?」


 思わず気の抜けた声を上げてしまった。今していたこと、そしてこの恰好について何か言われるかもしれない、そう思って身構えていたところに全く関係のないことを頼まれたせいで、理解が追い付かなかったのだ。


「喉が渇いたんだ。そこに水差しがあるから、ついでほしいのだが」


 どうやら都倉さんは私が触れていたことも、バスローブを羽織っただけの姿であることにも気付いていないらしい。乱心したと思われてもおかしくない自分の行動がバレずに済んだことにほっとしつつうなずくと、コーヒーテーブルに置かれたガラスの水差しを取り上げた。グラスに水を移して、体を起こした都倉さんに渡す。都倉さんは、足はソファの上に伸ばしたまま、背中をひじ掛けにあてて体重を預ける体勢を取ると、一気にそれを飲み干した。


「おかわり、いりますか」

「頼む」


 返されたグラスを受け取り、再び水を入れる。

 これを渡したら、部屋の明かりを都倉さんが点けてしまう前に適当な理由を付けてベッドルームにでも向かおう。何か聞かれたら正直に答えるつもりではいるけれど、とにかくこの姿を見られないようにしなくては。

 そんなことを考えながらグラスを手渡そうとした、その次の瞬間。


「ここに何しに来たんだ」


 グラスの水がちゃぷん、と音を立てて揺れる。その勢いで飛び出した水は私の手と、私の手首を掴む都倉さんの指を伝ってソファにぽとりぽとりと雫を落とした。


「私がいることに気付いたなら、なぜ帰らなかった? 私がどういう状態にあるか、君は既に知っているはずだろう」


 いつもより低く高圧的に響くその声に気圧され、私は息を呑んだ。ランプの明かりが逆光になり、都倉さんの表情はよく見えない。だけどその口調の厳しさから、私は都倉さんを怒らせてしまったんだと思った。


「ご、ごめんなさい。その、雨が急に降ってきて……服が乾くまでここで待たせてもらおうと」

「それならそれで別室に行くべきだったな。渇望期のヴァンパイアには近づくなとあれ程きつく言っておいたのに、そんな身なりで無防備に触れるとは……」


 都倉さんは、私のこの恰好もこっそり触れていたことにも気付いていたらしい。恥ずかしさと焦りでいっぱいになった私は、慌てて都倉さんから離れようとしたけれど、都倉さんは掴んだ私の手首を解放しようとはしてくれない。それどころか更に力を込められ、そのまま強引に引き寄せられてしまった。


「と、都倉さん……?」


 急に縮まった距離感に、全身がぎゅっと強張る。意図せず働いた防衛本能なのか、私は空いている方の手を都倉さんの胸元に当てて力を込め、何とか距離を取ろうと試みた。


「嫌だと言ってももう遅い。私を焚き付けたのは、君の方だぞ」


 相変わらず、表情は確認できないままだ。だけど、都倉さんの瞳がランプのわずかな反射光を吸い込んで一瞬輝いたのを見た気がした。その白い光と、これまで以上に近いところで息遣いを感じた私は、押し返そうとしていた手から力を抜いて目を閉じた。

 何をされるかは、分かっていた。さっき都倉さんに触れた時から――違う、そのずっと前から私は、こうなることを望んでいたから。


「……本当にいいのか、これで」


 唇に降りた柔らかい感触がふと離れた瞬間、都倉さんにそう聞かれ、私はコクリとうなずいた。


「はい。覚悟は、できています」


 その返事を合図にしたかのように、再び優しく口づけられる。ついては離れを何度か繰り返していく内に、無意識に薄く開いた隙間から奥への侵入を許してしまい、私は体を小さくのけぞらせた。


「ん……!」


 慣れない感覚に、思わず声を漏らす。この展開までは予想していなかった私は、何とか顔を背けてその攻撃的なキスから逃れようとしたけれど、後頭部に添えた手がそれを許してはくれなかった。


「だ、だめです。水が」

「いいから、黙って」

「や、ちょっと待っ……」


 合間を見つけて抗議の声を上げたけれど、都倉さんは放してはくれない。為す術もなくされるがままになっていると、いつの間にか都倉さんの手は私の後頭部から首の方へと滑り降りていて、バスローブの襟元から前合わせをくつろげようとしていた。


「なっ、何してるんですか!」

「大人しくしないと、水がこぼれてしまうぞ」


 そう言われて、抵抗しようとしていた動きを思わず止める。都倉さんは私がうまく動けないのをいいことに、片手で締め帯を解いてしまい、あられもない姿にされてしまった。


「……どうしてほしい?」


 耳元でささやかれ、私は唇をかみしめて小さく首を横に振る。都倉さんはくすくすと笑いをこぼしながら、ゆっくりと首筋に唇を這わせた。


「や……っ」

「何が嫌なものか。誘ったのは君だろう」

「ちが……私はそんな」

「そんなつもりはなかったとでも? あんな風に私に触れておいて、よく言えたものだ」


 都倉さんはそう言うと、掴んでいた私の手首を離し、水の入ったグラスを取り上げてテーブルに置いた。


「と、都倉さ」

「玲と呼んでくれないか」

「え……」


 指を絡めるようにして手を握られ、そのままソファの上に引っ張り上げられる。都倉さんにまたがる形で座らされた私は、腰に回された腕によってがっちりと捕まえられた。


「呼んでくれるまでやめないからな」


 首元に顔をうずめられ、今度はそこを舌でなぞられる。耳たぶをついばまれ、瞼に口づけられ、頬から唇、そしてまた――。


「よ、呼びます、呼びますから……!」


 観念してそう声を上げると、都倉さんは私の胸元に唇をあてたまま動きを止めた。


「れ……い、さん」

「”さん”はいらない」

「……れ、玲」


 その響きに何となく懐かしさを感じながらも、やっぱり言い慣れていないぶん気恥ずかしさを覚えて、私は視線を横に滑らせた。


「咲葵」

「は、はい」

「寝室に行こうか」

「えっ!?」


 都倉さんはそう言うと私を横抱きにして抱え上げ、ソファから立ち上がった。


「ちょっ、やだ、呼んだらやめてくれるって」

「そうだな。だから、次は違うことをしよう」

「ひどい、嘘つき!」

「嘘はついていない」


 そう言って楽しそうに笑ってから私を見下ろすと、都倉さんはそっと触れるだけのキスをしてくれた。


「……あの、私」

「大丈夫、何も心配しなくていい」


 私が何を言おうとしたか都倉さんはお見通しのようで、それが余計に恥ずかしさの度合いを高めてしまい、私は顔を赤らめて視線を下に向けた。

 雷の音はさっきよりも近いところで鳴り響き、風にあおられて激しく窓にぶつかる雨音も、緩むどころかますます強くなっている。もしかしたら今夜は家には帰れないかもしれない、都倉さんに抱きかかえられて運ばれながら、私はぼんやりとそう思った。






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