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 ゆっくりめのスピードに設定したランニングマシーンでジョギングをして、器具を使った初心者向けの筋トレで苦しんだ後のとどめのエクササイズ。今日だけで過去数年分を合わせたより運動をしたんじゃないか、そんなことを考えながら、私はジェットバスの縁に体重を預けてゆっくり伸びをした。

 普段体を動かさない人向けの、負荷の軽いメニューだと私たちについてくれたジムトレーナーは言っていたけれど、少なくとも私の方は明日確実に全身が大変なことになっているだろう。自分の腕がもうこんなにも重く感じるし、何なら足の方はうっすら筋肉痛が始まっている気さえしている。


「何だかんだで最近来られなかったからなー。ホント、久々に体動かしたから筋肉痛間違いなしだわ」


 隣で私と同じようにリラックスした様子の芹香が、しみじみと呟いた。

 芹香でそれなら、私はベッドから起き上がれるかどうかすら怪しいかもしれない。疲れて頭が回らないせいもあり、私は言葉ではなく力ない笑顔を芹香に向けると、ペットボトルの底に残ったミネラルウォーターを一気に飲み干した。


「あ、そう言えば……昨日の渡利さんの歓迎会、どうだった?」


 思い出したようにそう聞かれ、つつがなく進行し閉会したことを伝えると、芹香はおかしそうに笑った。


「なーんか目に浮かぶわぁ、咲葵が居心地悪そーにしながら早く帰りたがってる姿が」

「……」


 ぴったり言い当てられている。芹香の想像通りの行動を取ってしまっていたというのがなんとなく悔しくて、私は後頭部をバスタブのヘッドレストに載せてまぶたを下ろし、その呟きには反応せずにおいた。


「図星ですな。どうせその後の二次会も参加しなかったんでしょ」

「あ、それはちょっとハズレ。新山部長とお茶したから」

「えっ!」


 ジェットから出るものとは違う波が水面を走った感覚に、目を開けてそちらの方へ視線をやると、芹香が体を起こし、驚いた表情を浮かべて私を凝視していた。


「新山部長とって……二人きりで?」

「うん、まあ。ちょっと話があるからって」

「ええー……。咲葵、何をやらかしたのよ」


 おどけた口調でそう言われ、苦笑を返す。

 当然と言えば当然だけれど、都倉さんのことを話すつもりも、遠回しに相談を持ち掛ける気もない。だけどゆうべ部長と差し向かいで話した内容の中で、芹香にはきちんと伝えたいことがあった。


「芹香、その……ホントごめんね」

「ちょっと、何なの急に」

「部長から聞いたよ。芹香が私のためにいろいろと動いてくれてたこと」


 私の言葉に、笑みが貼り付いた状態で芹香の表情が固まった。

 ちょっと視点を動かせば見えたはずのものに気づかず、結果的に芹香の身動きをとれなくしてしまったこと。それはちゃんと謝っておきたかったのと、もう一つ、言っておきたい大事なことがあった。


「こないだ、丸岡さんと少しだけ話す機会があってね。そこで……何て言うのかな、突破口が見えたと言うか」

「……」

「自分の落ち度が分かったんだ。そこを直せばどうこうできるって単純なものじゃないかもしれないけど、でも、初めの一歩は踏み出せそうだって思ってる」

「……そっ、か」

「だから……ありがとう。自分でこうやってちゃんと答えを出せたのは、芹香のおかげだよ」

 

 今まで何度も芹香にごめんやありがとうを言ってきたけれど、その言葉にはどこか後ろめたい気持ちを含んでしまっていて、いつもうつむき加減でしか伝えられなかった。

 でも、今日は違う。ちゃんとこうやってまっすぐ芹香に顔を向けられている。それに、体裁を繕うためじゃない、前向きなビジョンのある言葉っていうのは、相手の心にちゃんと質量を持って浸透してくれるんだということは、芹香がそれ以上私に何も聞かなかったことや、その嬉しそうな表情を見て感じ取ることができた。


「何度も言うようだけどさ。咲葵、ホントに変わったね」

「そう……かもしれない」

「あはは! そこを否定しないのも前と全然違うわぁ。やっぱり好きな人の影響って大きいんだねぇ」


 私に好きな人がいるというのは、芹香の中ではすでに確定事項だったようだ。私も私で、もう以前のように反論することはない。ただ、その好きな人を失いかけている現実をふと思い出してしまい、思わず視線を下に落とした。


「辛い恋なら、逃げてもいいんじゃない? 拓己ならまるごと受け止めてくれるだろうし」


 私の表情が曇ったことを察してか、芹香が優しくそう言った。


「前にも言ったけど、私にそういうのは無理だよ。浅野くんは真剣に思ってくれてるのに、ただの避難場所みたいに扱うなんて」

「そこからどう発展させるかだと思うけどなあ。100点満点の答えじゃなくてもさ、その後の身の振り方次第では100点以上のものになる可能性だってあるんだから」

「……」

「きっと咲葵ならいい方向に持って行けるって。悩みすぎて機を逃す方がよっぽど悪手なんだし、思い切って飛び込んじゃいなよ」


 浅野くんとの未来に目を向けるよう促すつもりだったんだろう、芹香のそのその言葉は、違った形で私の暗く淀んでいた心に一筋の光のように差し込んだ。

 未来は誰にも分からなくて、何がどう転ぶかなんて予想できるものじゃない。

たとえ100人中100人の人が選ばない道でも、自分の歩き方次第で未来はどんな風にもカスタマイズできる。大事なのはどっちを選ぶかということじゃなく、その後にどうするか、ってことなんだ。

 最悪の運命を辿るのか、最高の結末を掴み取るのか。それは自分の力でどうにでもできるという可能性に目を向けた瞬間、二手に分かれていた道の片方は、まるで蜃気楼だったかのように立ち消えた。


「……ありがとう、芹香。今ので視界が開けた気がする」


 ぽつりとそう呟くと、芹香が目を丸くして私を見つめた。


「芹香の言う通り、思い切って飛び込んでみるよ」

「えっ、それじゃ……!」

「やっぱり私、諦めたくないから。苦しくても、茨の道でも……どれだけ時間が掛かっても、こっちを選んで良かったって思えるように頑張ってみる」


 都倉さんが私に答えを委ねたのは、私ならどれを選択しても幸せな未来を切り開いていけると信じてくれたからだ。それなら私も、都倉さんが信じた私を信じよう。こんなに強力な後ろ盾があれば、何があっても大丈夫に違いない。


「結局そっち行っちゃうの? あたしやっと拓己と付き合う覚悟決めたのかと思って期待したのに」


 決意も新たな私の言葉に、芹香は唇を尖らせてつまらなそうにしながらそう言う。たぶんその選択肢に進むことはないと思う、という言葉を飲み込みつつ、私は何も言わずに苦笑いだけを芹香に向けた。







 体を動かした後はおいしいご飯、の予定だったけれど。


「咲葵、ホントに帰っちゃうの?」

「うん。清水くんと二人きりの方が、いろいろと話も進むでしょ」


 仕事が終わったから夕飯でも、というお誘いメッセージが清水くんから来たらしい。一緒に行こうという芹香の言葉に乗っかっても良かったのかもしれないけれど、そのメッセージを見た時の芹香の表情が、ただ高校時代の後輩に誘われた、というだけじゃない、特別な何かを感じているように見えたから、その申し出は辞退することにした。


「ねえ待って待って、なんか勘違いしてない? あたし、ミナトとはそういうんじゃ」

「そういう、って、どういうの?」


 無邪気さを隠れ蓑にして意地悪な質問をしてみる。額に手を当てて深くため息をつく芹香を見て、前にもこんな感じで仕返しをした気がする、と思いながら小さく笑いを零した。


「まあまあ、私も今日は疲れたし、清水くんのテンションには付いていけそうにないからさ」

「そう言わずに! あいつめっちゃ飲むから、ついそのペースに乗せられちゃうんだよね。咲葵がいてくれたら、ちょうどいいブレーキになってくれると思うんだ」


 それなら今日のところは断っても良かっただろうに、そうしないってことはやっぱり清水くんは芹香にとって特別な存在なんだろう。そう思いついて、口元が自然と緩んでしまう。私がニヤニヤしているのに気付いた芹香は、眉間にしわを寄せて私の額にデコピンをした。


「まーた変なこと考えてるでしょ」

「考えてないよ。芹香も大概分かりやすいなあって思っただけ」

「あーもー!」


 芹香は乱暴に髪をかき上げて唸り声を上げた。その頬が何となく紅潮して見えたことを指摘すれば、つぎ芹香のターンになった時に追及が厳しくなってしまうかもしれない。調子に乗りすぎると自分の首を絞めることになると判断して、これ以上からかうのはやめておくことにした。


「じゃ、また。月曜日にね」

「咲葵、気を付けて帰りなよ。電車で居眠りして乗り過ごさないようにね」

「はいはーい」


 ひらひらと手を振って、芹香に背を向ける。

 夜8時を過ぎるとこの辺りはずいぶんにぎやかに、華やかになる。電飾に縁どられた看板や、店名をかたどるネオンサインが、オフィスビルから出てきたサラリーマンたちを店内へ誘い込もうと鮮やかにきらきらと輝きだすのだ。見慣れたその風景をなんとなく目の端に捉えながら、駅へ向かう人の波に紛れてしばらく歩いていると、ぽつり、と頬に冷たい雫が当たった。


「雨……?」


 見上げると、いつもならビルの上階を飲み込んでいる真っ黒な夜空が、鈍く厚い雲によって遮られて見えなくなっていた。

 今日は洗濯日和だとお天気のお姉さんが言っていたのを信じて、雨具は何も持ってきていない。とにかく、まだ小降りの内に駅までたどり着ければ、あとは何とか――。


「ええっ、うそっ!?」


 歩く速度を上げようとした瞬間、水の入ったバケツを上からひっくり返されたんじゃないかというくらいに雨が激しく降り出した。

 駅まではまだそれなりに距離がある。走って行ったとしても、着いた頃にはそのまま電車に乗るのをためらうくらいにびしょ濡れになっているだろう。と言うか、もう既にびしょ濡れだ。

 荷物をなるべく濡らさないようにと体の前でぎゅっと抱きしめながら、いちおう小走りで駅に向かう。近くの店に駆け込んで急場をしのごうとする人の様子が目に入り、ふと思いついた私は、チカチカと点滅を始めた青信号を一瞬見上げてから今来た道を戻った。そして、つい数秒前に通り過ぎたマンションのエントランス前のひさしの下に入ると、壁際に身を寄せて大きく息をついた。

 ここは都倉さんの別宅があるマンションだ。住人です、と胸を張って言える立場じゃないけれど、それなりに関係者だし、雨宿りするくらいなら問題ないだろう。

 髪の先からしたたり落ちる水滴を振り払い、そっと空を覗き込む。ただの通り雨ならすぐに止むだろうから、ここで時間をつぶしてもいいかもしれない。そう思って、取り出したスマートフォンで天気予報を確認する。今の時間帯は曇りの予報になっているけれど、その後はずっと雨のマークがついていて、どうやらこの雨は夜中を過ぎるまで続くようだった。

 ずっとこんな土砂降りだとは限らない。だけど冷たい雨に打たれた上に、急に気温が下がり始めたせいで、フィットネスジムでしっかり温めたはずの体はどんどん冷たくなっていく。このままここで突っ立っていたら風邪をひくかもしれない、そう思った私は、抱えていた荷物からパスケースを取り出した。







 お天気お姉さんの言う通り、大きめの傘を持ってきておいて良かったと思いながら、拓己はオフィスビルから一歩を踏み出した。お気に入りの定食屋で夕飯を食べるために、駅とは反対の方へ向かって悠然と歩いていく。土砂降りの中を慌てて走るサラリーマンたちに何となく優越感を覚えて、拓己はゆるく口角を上げた。

 芹香同様、拓己も今日は休日出勤だった。芹香よりも数時間遅れての退社になったのは、片付けておきたい雑用があった為だ。どうしても今日、というものではなく、何なら来週に回しても問題なかったが、できることは先に済ませてその分月曜日はなるべく早く帰ろうと考えてのことだった。ここ数日残業続きで咲葵とのコミュニケーションが全く取れていないことにフラストレーションを感じていた拓己は、断られるのは覚悟の上で咲葵を夕食に誘おうと計画していた。そのやり取りだけでもできれば御の字、という辺りに少し侘しさを感じてはいたが、咲葵にはこれ位のペースがちょうどいいのだと自分に言い聞かせていた。

 どこに誘おうか、今回はできれば二人きりで行きたい、などと色々と妄想しながら歩いていると、大粒の雨でけぶる視界に見覚えのある後ろ姿が飛び込んできた。

 道路を挟んだ向こうの通りにいるあの女性が、なぜ咲葵であると判断できたのかは分からない。背格好や歩き方の特徴を見極められるようになったか、それともオーラを見分けるという特殊能力が開花したのか。拓己は色々なことを頭の片隅で考えながらも、休日でなおかつこの時間帯に、こんなところで出会えたことに運命を感じていた。

 咲葵はどうやら傘を持ってきていないらしく、大きなマンションのエントランス前で雨宿りを始めた。この雨の中をどれだけ歩いたのかは分からないが、だいぶ濡れているようにも見える。雨をやり過ごす口実としてなら、二人きりの夕飯の誘いにも応じてくれるかもしれない、そう考えた拓己は、青く光る歩行者用信号をチラリと見上げてから、横断歩道を渡ろうとした。

 咲葵の住んでいるところは、拓己もよく知っている。だから、彼女があそこにいるのはただ雨宿りをするためで、中に入る術も、その理由もないはずだった。それなのに。


「え……」


 咲葵がエントランス横の壁に貼り付く機械に向かって操作をした直後、自動ドアが開いたのが見えた。中へと入っていくその様子に迷いはなく、手慣れているような雰囲気さえ感じられ、拓己は嫌な予感を覚えてその場に立ち尽くした。

 自分で開けたのか、インターホンから住人を呼び出して開けてもらったのかは分からない。しかしどちらにせよ、咲葵はあのマンションに住む誰かと懇意にしているらしい。

 拓己は思わずスマートフォンを取り出した。咲葵にメッセージを送ろうとアプリを立ち上げ、彼女の名前が書かれたアイコンをタップしたところで、指の動きはストップした。


「何をどう聞くつもりなんだよ、俺……」


 考えなしに突撃しそうになった自分を戒めるように、拓己は小さく呟く。

 咲葵をあのマンションに引き入れたのは一体誰なのか。咲葵の周辺の人間を思い浮かべても全く見当はつかなかったが、ただ何となく、友人や親戚といった類の人物ではないような気がしていた。

 土砂降りの雨が傘を乱暴にたたく音のはるか向こうから、雷の轟音が聞こえ始める。青信号は点滅し、赤へと変わった。拓己は横断歩道を渡ることはなく、そのまま踵を返して駅の方へ向かった。






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