(10)




「色々知りたいことはあるかもしれないけれど、それはまた追々説明するわ。だから、今はとりあえず聞いてほしい」


 何かしらを尋ねようとした雰囲気を感じ取ったのか、部長は先手を打つようにそう言って私の口を閉じさせた。


「実は……玲は今、無供給性虚血というヴァンパイア特有の症状に陥っているの」

「無供給性……虚血?」

「ええ。検査結果を見る限りではかなり進行していたわ」


 何が原因で起こり、どういう状態になることを意味するのかは、その言葉を聞いただけではよく分からない。ただここ最近の都倉さんの様子は少しおかしかったし、私の目の前で倒れたこともあったから、もしかしてあれはその症状の一つだったのかもしれないと漠然と思った。


「それじゃこの間都倉さんが飲んでいた薬は、それを抑えるためのものだったんでしょうか」

「……あなたも見たのね」


 部長はそう言ってため息をつき、表情を曇らせた。


「あれはいわゆる違法ドラッグってやつよ。一定期間自分をごまかすことはできても根本的な解決にはならないし、どんな副作用があるかも分からないから使うなと何度も言ったんだけど」


 心の内を、じわじわと恐怖が侵食し始める。それに呼応するかのように脳内には最悪の未来が鮮明に描き出されていき、私はうつむいて唇をかみしめた。

 前向きな解決策はきっとあるはずと信じたい。でも都倉さんが違法な薬に手を出したのは、そうする他に手がなかったからで……つまり、有効な治療法は今のところないんだということは、全てを把握していない私でも分かった。


「都倉さん、どうなってしまうんですか。治す方法はないんでしょうか」


 何とか顔を上げながらも震える声で恐るおそる尋ねる。部長は私が状況を悟ったことに気付いたようで、スマートフォンを置き、気遣うような視線を私に向けながらもゆっくり首を横に振った。


「身体的な衰弱や心神耗弱といった症状は、日々顕著になっているわ。たぶんこのまま放っておけば玲は人の心を失って、ただひたすら人間の血を求めてさまよう怪物になってしまうでしょうね」

「えっ……」


 聞き覚えのあるその末路に、私は思わず息を呑んだ。


「それって、人の血を摂取していないヴァンパイアが陥る症状なんじゃ」

「その通り。だから……紫藤ではもう、だめだということよ」


 ヴァンパイアがドナーの血を受け付けなくなるのは心境の変化が原因の主だ、というのは、暮野さんから聞いたことがある。吸血対象者を選び出す基準というのが恋愛感情だから、誰か別の人間に心を奪われてしまえば、体もそれに反応してしまうのだそうだ。でも、都倉さんはそんな感情とは無縁のところから暮野さんを選び取っていて、だから恋人ができてもその相手に吸血欲求を感じたことはないのだと言っていた。


「どうして今になってそんな……。暮野さんは百年以上も都倉さんのドナーで、ずっと何の問題もなかったのに」

「玲はこれまで、”前段階”の状態が続いていただけなのかもしれないと私は考えているわ」


 思わずこぼした疑問に、部長はそう答えを返してくれた。


「赤瞳の催眠効果が弱かったり、恋愛感情が吸血衝動に繋がらなかったりしたのも、完全にヴァンパイアとして目覚めていなかったからと思えばしっくりくるのよ。混血種の正確な生態ははっきりと分かっていないから、断言はできないけれど」


 仮に部長が考える説が正しいとして、そのせいで暮野さんの血を受け付けなくなったのなら、都倉さんは吸血衝動に繋がる恋愛感情を誰かに抱いたということになる。その相手がドナーになってくれれば全てが丸く収まるはずなのに、都倉さんは薬を使う選択をしてしまっている、ということは、相手が受け入れてくれなかったのか、それとももっと別の事情があって言い出せずにいるのか……。


「単刀直入に言うわね。いま玲は、あなたの血を欲しているの」


 思いもよらないその言葉。何を言われたのか理解が追い付かず、私は口をぽかんと開けて部長を見つめ返した。


「だけど……あなたを求めていながらも、あなたをドナーにすることは望んでいないわ」

「え……」

「玲の望みは、あなたが幸せになること。私が言えるのは、それだけよ」


 部長はそう言うと、テーブルに置いていたスマートフォンを取り上げ、画面を操作してからバッグにしまった。


「あ、あの」

「どんな答えをあなたが出したとしても、受け入れる態勢は整えておく。だから、玲のドナーになるかならないか、心が決まったら連絡をちょうだい」


 帰り支度を整えて立ち上がった部長に倣って、私も慌てて席を立つ。

 聞きたいことはたくさんあった。でも、頭の中に浮かんだいくつもの質問は結局言葉という形を成すことはなくて。


「今夜はもう遅いし、タクシーで帰りなさい。手配はもう済ませているから」


 そう言い残して部屋から出る部長の後ろ姿を、ただ見送ることしかできなかった。







 きちんと閉めたはずのカーテンの隙間から、少し鈍い色の光が差し込み始めている。普段のルーティンを崩したくなくて無理やりベッドに潜りこんだけれど、やっぱりまとまらない考えを抱えたままでは一睡もできず、いつもより長く感じた夜は静かに明けようとしていた。

 今日は会社は休みだから今から眠っても問題はない、というわけで、とりあえずふとんを頭までかぶって目を閉じてみる。昨夜、久しぶりの飲み会に参加したこともあって体は疲れて睡眠を求めているはずなのに、冴えわたる頭が休むことを許してくれない。眠気はなかなか訪れなくて、私はあきらめて体を起こし、ベッドから足を下ろして立ち上がった。

 遮光カーテンを開けて太陽の光を部屋に入れる。薄いレース越しに差し込む光はいつもより強く感じられて、その眩しさに思わず私は目を閉じた。


 ――玲はいま、あなたの血を必要としているの


 新山部長の言葉がリフレインする。思いがけない話だったけれど、それだけならきっと私はドナーになることをあの場で受け入れていた。でも都倉さんが求めていたのは、そんな答えじゃなかった。

 私を必要としていながら、私をドナーにすることを望んでいない。それはつまり、都倉さんはこれ以上生きることを望んでいないということだ。

 都倉さんがこれまで抱えてきた苦しみは深く冷たくて、私なんかでは理解できないほどのものだったに違いない。だからたとえ残酷で醜い最後を迎えることになったとしても、このまま心を失ってしまいたいと都倉さんが願っているのなら、それを受け入れてあげるのが一番なんだろう。

 母の遺志を継いで解決しようとしていた父の死についてのこと、何があっても私を守るという言葉。採算が取れないと分かっていてもオーベルジュを始めたのは、かなえたい思いがあったからのはず。それでも、都倉さんはその何もかもを捨ててしまおうと……。


「――ちがう」


 洗面所の鏡に映る自分が、そうポツリと呟いた。

 都倉さんと出会ってまだそれほど長くはないけれど、短いなりに一緒に過ごした時間の中で何となく感じるものはあった。それは形状のアウトラインを指先できっちりなぞっていけるようなものではなく、ぼやけた輪郭がふわふわと視界の端に浮遊しているような、漠然とした感覚でしかない。それでもその曖昧な何かが感じ取っている”都倉さんらしくない”という違和感は、簡単に結論付けるなと私に訴えかけてくるようだった。

 果たせない思いが残っていたとしても苦しみから解放させるべきか、果てしない苦しみを一緒に背負う覚悟で、そしてそれはいつか乗り越えられると信じて死を回避させるべきか。

 都倉さんを助けたいという思いは確かなものだ。でも、どちらが都倉さんにとっての本当の救いになるのか、私には分からなかった。

 白いケトルを火にかけ、マグカップとインスタントコーヒーの入った瓶を棚から取り出してキッチンカウンターに置く。シュガーポットもその隣に並べてから、リビングのテレビをつけた。

 土曜日の番組は平日とは違ったラインナップで、いつもの見ているチャンネルではニュースはやっておらず、朝っぱらから頭が痛くなりそうなバカ騒ぎを放送している。洗濯物の事情もあるから今日の天気を確認しておこうと、しばらく繰り返していたザッピングを情報番組らしき画面になったところで止めて、再びキッチンの方へと戻った。


「なんか……食欲出ないな」 


 朝ごはんを準備しようと開けた冷蔵庫を覗き込みながら、ため息交じりに呟いたその時だった。テーブルに置いたスマートフォンからメッセージの着信を知らせる小さな一音が鳴ったのだ。

 今日は誰とも交流したくない、そんな気分だったけれど、休みのこんな朝早い時間に連絡してくるということは、緊急性が高い可能性もある。私は冷蔵庫の扉を閉めると、スマートフォンを取り上げて画面に目を落とした。


「……芹香?」


 考えていた相手ではないことに安堵を覚えつつも、ちょっと意外だったこともあって小さく首を傾げる。最近はあまりなかったけれど、もしかしたらまた酔っ払った勢いで何か意味不明の文を送ってきたのかもしれない。それならそのまま放置してやろうと心に決め、内容を確認した。


――最悪! イベントがお流れになりそうな予感……。やっと最終調整までこぎつけたのに、あんまりだわぁ


 絵文字交じりなせいかあまり深刻そうに見えないけれど、ここ数週間残業続きだったことを考えれば、この結果はかなり辛いに違いない。なんとか励ましてあげたいと、自分のことはとりあえず置いておいて慰めの言葉をいろいろと考えていると、再び画面に新しいメッセージが表示された。


――既読つけんの早っ! とりあえずそんなわけだから、夕方ちょっと憂さ晴らしに付き合ってよ~ 


 私が慰めるまでもなく、芹香は気持ちの切り替え方法をちゃんと見つけていたみたいだ。私は苦笑いしながらOKのスタンプを押した。

 と、その次の瞬間、今度はメッセージではなく通話の着信が入った。


「もしもし」

『咲葵、おはよ! 今日あたしえらく早起きだと思わない!?』

「ちゃんと寝たの?」

『寝た寝た、めっちゃ寝た! 昨夜はもーホント腹立って、寝て忘れちゃえーって早めに熟睡してやったのよ。そしたらこんな時間に目が覚めちゃって』


 そこから芹香は、早朝のものとは思えないテンションで愚痴を放出し始めた。口調は明るいけれど何だかいつもと違う雰囲気も感じられて、やっぱり参っているんだということがよく分かった。


『水留課長はまだお若いから、なんて言われてさぁ。若いからなんだっての? 信頼できない? 若さとか性別とか、そんなん言い訳にして自分の不手際をこっちに擦り付けないでほしいわ!』

「相手の人、ベテランだって言ってなかったっけ」

『これまでの対応とか見る限りじゃ全然そうは思えないけどね! なぁにが、持ち帰って検討してみますけどー、よ! マジで前の担当さん戻ってきてほしいわぁ……』


 電話越しにうんうんうなずきながら芹香のストレス発散に付き合っていると、ケトルの注ぎ口から白い湯気が激しく噴き出しているのが目に入った。慌てて火を止め、マグカップにお湯を注いでいく。肩と耳でスマートフォンを挟む形で両手を空にしてから、インスタントコーヒーの入った瓶のふたを開け、スプーンを差し込んだ。


『とにかく、あたしこんな状況だからさあ、今日の休日出勤終わりに会社近くのジムに行ってパーッと発散しようと思ってんの。咲葵も一緒に体動かして汗流そーよ!』

「分かった分かった。何時くらい?」

『6時3分に下のロビーで待ってて。今日はぜっっったい定時に帰るって決めてるから』


 時間の細かさだったり、”絶対”という言葉への力の入れ具合だったりがおかしくて思わず笑いをこぼすと、それにつられたかのように芹香も小さく笑った。

 マグカップから立ち上る湯気の香りが、コーヒーのそれに変わっていく。私は密かにその香りを胸いっぱいに吸い込みながら、続く芹香の話に相槌を打ち、ちらっとテレビ画面に目をやった。


――日中はカラッと晴れますので、絶好の洗濯日和となります。気温も例年よりやや高めになりそうですから、調節しやすい服装でお出かけください


 さっきの情報番組では、お天気コーナーが始まっていた。今日は洗濯物を干しても大丈夫そうだな、なんて考えながら、電話の向こうから聞こえる芹香の声の方に意識を戻す。


『そう言えば咲葵、ジムって行ったことあんの?』

「ないです。動きやすい服も全然ないんだけど」

『スウェットパンツとTシャツくらい持ってるでしょ』

「あー……探せば高校時代の体操服があるかも」

『え、やめてやめて。そんな恰好の人と一緒にいるあたしの方が恥ずかしい』

「いや、分かってるよ……そんなの私だって恥ずかしいから」


 本気で着ると思われたことに憮然としつつそう答えると、芹香は、アンタはやりかねない、と笑い声を上げた。


『まあ最悪、手ぶらで来てもお金があれば大丈夫だよ。大体のものはジムでも買えるし』

「でもそういうとこで買うのって高かったりしない?」

『それはあるねぇ。あ、じゃあさ、あたしがウェア貸したげるから――』


――ただ今夜は、広い範囲で季節外れの激しい雷雨になりそうです。降り出しが早まる可能性もありますので、夕方以降のお帰りになる予定の方は大きめの傘を持って……






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