(9)




 新山部長に連れられてやって来たのは、有名ホテルのティーラウンジだった。そこで通された個室は、たぶん少人数での打ち合わせなんかに使われるんだろう、ビジネス色の強い四角いテーブル一台と、シンプル過ぎていっそそっけないくらいの一人掛けソファが四脚、部屋の真ん中に鎮座しているだけで、それ以外の余計な装飾はほとんどない。

 部長は到着時間を前もってこのラウンジに連絡しておいてくれたらしく、席についてすぐにコーヒーとハイティースタンドに載せられたスイーツが運ばれてきた。


「食後すぐだし時間も時間だから、無理に食べなくていいわよ。コーヒーだけっていうのも味気ないと思って用意してもらっただけだから」


 そうは言われたものの、焼き菓子やケーキの甘やかな香りは、それなりに満足したはずのお腹に刺激を与えている。

 空腹じゃないけど食べたい、という体からの厄介な要求をごまかすつもりでコーヒーを口にしたら、なんだか余計に食欲を増長させてしまったようで。


「……いただきます」


 素朴な見た目からは想像つかないほど、暴力的なカロリーを内に秘めていると噂のフィナンシェをケーキプレートに載せてしまっていた。

 新山部長は、コーヒーとは別に運ばれてきたサングリアのピッチャーを手に取り、色々なフルーツの入ったそれをグラスに注ぎながら、迷いなくフィナンシェを口に運ぶ私を見て苦笑を漏らした。


「帆高さん、社では置き菓子にもあまり手を出さないから食が細いのかと思っていたけれど、意外と食べる方なのね」


 そう言われ、実は食べることはすごく好きだと答えると、部長は意外だと言わんばかりに目を丸くした。

 確かに、学生時代はそこまで食べることに興味はなかった。でも社会人になってストレスのはけ口を食へと向ける内に、その楽しさや喜びに目覚めてしまったのだ。そして残念ながら、摂ったカロリーはきっちり体にあらわれるタイプだということも同時に分かってしまった。

 だから普段はひっそり食事制限をして、こういう歓迎会なんかがある時を好きなだけ食べてもいい日に設定していたりする。ただ今週は既にいわゆるチートデイを渡利さんとの夕食で消費してしまったから、今日は控えめにしておかなきゃいけないと思っていたんだけれど……。


「すごい。私があなたくらいの年齢の時は、そんなこと考えもしなかったのに」

「すごくはないですよ。体型が変わると服を買い替えないといけないからっていう、貧乏思考のなせる業というか……」

「そんなことない、そういう生活を若いうちから習慣にするのは賢いと思うわ。暴飲暴食が当たり前の生活を続けていると、なかなかそこから抜け出すのって難しいのよ」


 昔は何もしなくても大丈夫だったのに、と渋い顔をして呟く部長。手足はすらっとしていて、どちらかというと引き締まった健康的な体に見えるけれど、それは日々の筋トレや運動を欠かさずしているからこそ、なのだそう。


「今はしっかりめに管理しないとあっという間に贅肉がついちゃうのは分かっているのよ。でも我慢し慣れていないせいか、食事制限は辛さが体に沁みちゃって続けられないのよね……」


 体を動かすのは得意じゃないし、簡単なジョギングやウォーキングすらも続いたことなんてこれまで一度もなかったから、私からすればトレーニングを何年も続けられている部長の方がすごいと思った。私なんて、食べる分でコントロールするしかなかった、というちょっと情けない理由でこの食生活を続けているだけなんだし……。

それから私たちは、体型を維持するためにやっていることや、食べすぎた時にどう落とし前をつけるか、なんて話でしばらく盛り上がった。部長とは仕事上でしか関わることがなかったから、プライベートなことをこうして語り合うのはとても新鮮で楽しく、ここに来る前は何を言われてしまうのかと緊張気味だったのが嘘のように、気づけばすっかり和やかなムードになっていた。


「とは言っても……たまにこうやってガス抜きするのも、大事なことだと思うのよね」


 部長はそう言いながら、ハイティースタンドから生ハムを巻いたチーズを選び取り、口へと運んだ。


「分かります。こういう楽しみがあるからこそ、日々頑張れるというか」

「本当、その通りだわ」


 部長は感慨深げにうなずくと、サングリアを注ぎ足したグラスに口を付け、ゆっくりと流し込んだ。


「ねえ、帆高さん」

「はい」

「体と同じように心にもガス抜きが必要だってことは、この間有給休暇を取ったことで実感したはずよね?」

「え、と……」


 そう聞かれた意図が分からず、あいまいにうなずく。新山部長は何度か瞬きをしてから、小さく息をついた。


「あなた、販促課の女子社員から嫌がらせを受けているでしょう」

「……!」


 心臓が跳ね上がった気がした。

 薄々勘付かれていたのは、これまで部長から受けた注意や気遣いの言葉から察してはいたけれど、こうしてはっきりと真正面から指摘されたことはなかったからだ。

 自力で解決する、と言ったくせに何も進展しない現状をネガティブに捉えられたのか、それとも上長として見過ごすわけにはいかない域に達してしまったのか。何にせよ、部長が私と二人きりで話したいと言ったのは、この現状を確認するためだったんだろう。

 私は視線をうろうろと落ち着きなく動かして、どう答えるのがベストなのかと考えた。


「当人が望まないのに押しつけがましく手出しをするつもりはないわ。でも、一人で抱え込まずに誰かの手を借りるのも一つの道だと思うのよ」


 今までより深く踏み込まれたことに動揺する私の心境を察したのか、部長はそう言って一定の距離を取りつつも、いつでも私からのSOSを受け取る準備があることを示してくれたけれど、私はその有難い申し出に小さくうなずいて応えることしかできなかった。

 丸岡さんからの厳しい一言のおかげで打開策も見え始めたところだし、何より、彼女たちとまっすぐ向き合おうという前向きな気持ちが湧き上がったところでもある。少し時間はかかるかも知れないけれど、自力で乗り越えたいという思いはやっぱり変わらなくて……。


「水留課長ね、頭を下げに来たのよ」

「えっ……」

「あなたが休んだ初日だったかしら。部下を制御できない自分の力不足のせいでこんなことになって申し訳ないって」


 私は、口元に手を当てて息を呑んだ。


「彼女、ずっとあなたを心配していたわ。私のところにも何度か相談に来たりして……あなたに、自分でどうにかするからそっとしておいてほしいと言われて、当人たちに大っぴらに注意もできなくて悩んでいたみたいよ」


 何も言えなかった。誰にも迷惑を掛けたくない、その思いから口をつぐんでいたのに、それが芹香を更に思い悩ませてしまっていたなんて。自分が悪者になって丸く収まるならそれでいい、身を縮めていればいつか嵐は過ぎ去るんだと、そんな考えしか頭になかった。


(ああ、そうか。だから……)


 以前、芹香と二人で夕食に行った時のことを思い出して、私はようやく合点がいった気がした。オーベルジュの宿泊日を前倒しするために、芹香が新山部長に有給休暇の申し出をしてくれたけれど、ずいぶん手際がいいというか、何だかあまりにスムーズに事が運んだように感じていたのだ。

 あの時もう既に、芹香も新山部長も私の窮状を把握していて、だからこそ芹香は私が会社を休めるようにお膳立てをしてくれた。それを部長が即座に受け入れてくれたのも、私を心配してのことだったのはもちろん、芹香の思いも汲んでくれたからなんだろう。


「責めているわけではないの、帆高さんに非はないのだから。でもね、仕事に影響を及ぼすくらいに追い詰められているのなら、もうそれはあなただけの問題では済まされないのよ」

「……はい」


 こみ上げる思いを押さえつけながら答えたせいで、声が詰まってしまう。そのことに気付いてか、部長は更に気遣うように表情を和らげながら、小さく何度もうなずいた。


「分かってくれたならいいの。この件はもう、私に預けてくれるわね」


 私ではどうにもできないという判断が上司から下されたのなら、従うよりほかはない。今の時点でほとんど状況を変えられていないのは事実だし、部長だけでなく、芹香にもこれ以上の心労は掛けられない。

 今後は大事にならないように気を付けよう、倒れてしまうギリギリの所まで我慢せず、きちんと相談するようにしよう――今までの私なら、そんな風に考えていただろう。


「もう少し……もう少しだけ、私に任せてもらえませんか」


 新山部長の表情がゆっくりと厳しいものに変わり、鋭く光る瞳が私をまっすぐ射抜く。つまらない虚勢であればすぐに見透かされてしまいそうな、研ぎ澄まされた刃のような視線に、私は思わず体を強張らせた。


「それは、どういうつもりで言っているのかしら」

「総務部内で私が開けた穴を埋めるために、部長だけでなく皆さんが忙しい中フォローしてくださったことは分かっています。他部署の課長にまで手を煩わせてしまったりして、本当に申し訳ないことをしました」


 手をぎゅっと握りしめる。

 迷惑を掛けないように、悪いかたちで人の目に留まらないように。これまでずっと色々なものをやり過ごし、諦めてきた。自分の為に行動するなんて有り得なくて、何をするにも、ひとがどう思うかが基準で。

 だけど今は違う。せっかく踏み出そうとした足を簡単に下がらせたくない。自力で見つけ出した解決の糸口、見出した可能性を自分から手放してしまうのは、もう嫌だと思った。


「丸岡さんと話して、私たちの間に足りなかったのはコミュニケーションだったんだってことが分かったんです。まだ具体的にどうするかってことははっきり説明できないんですけど……。でも、まだできることがあると分かっているのに諦めたくありません」


 私がそう言い終わるか言い終わらないかの時点で、これ以上食い下がることを許さないかのように部長は首を横に振った。


「それが上手くいかなければ、今度こそあなたは潰れてしまうかもしれない。こないだみたいに急に休んだというだけでも、総務部はそれなりに痛手を負ったのよ。休みを取るだけならまだしも、もしそれだけでは済まない位にあなたが追い込まれて……最悪会社にはいられない、なんてことになってしまったら、私や水留課長の立場はどうなると思っているの?」


 痛いところを突かれて、思わず言葉に詰まる。

 確かに、絶対に上手くいく方法が思いつくとは限らない。たとえベストなやり方が都合よく舞い降りてきたとしても、相手次第なところもあるし、もしかしたらもう関係の改善は見込めないほど手遅れだということも考えられる。

 それが原因で、私が部長の言うように潰れてしまったら。芹香に部下を指導する機会を失わせ、そして部長から差し伸べられた手を振り払っておいて、結果会社を辞める事態になってしまったら……。

 芹香はこれまで積み上げてきた信頼を失墜させることになるだろうし、部下をケアすることを怠ったと判断されれば新山部長だってただじゃ済まないかもしれない。それに対する責任なんて、私じゃどうひっくり返っても取れないということは、嫌と言うほど分かっていた。


「お願いです、猶予を下さい。つまらないことに私情を持ち込んで自分勝手なことを言っているのは分かっています。その結果また同じようなご迷惑をかけるかもしれません。ちゃんと分かっているつもりで、だけど……」

「帆高さん……」

「それでも後悔したくない。たとえ失敗してしまっても、自分が選んで必死で足掻いた結果なら受け入れられます。誰かのためじゃなく自分のために、自分の力で解決する努力をしたいんです」


 結果じゃなく過程にこだわりたい、ただそれだけ。建設的なことは何も言えなくて、ひたすら私のわがままを主張しているだけにすぎない。そんな私の頑なな態度に譲歩してくれたのか、それとも物分かりの悪さに呆れたのかは分からないけれど、部長は険しい表情をふっと緩めて、大きく息を吐きだした。


「分かったわ」

「え……」

「この件はもう少しだけ、あなたに任せる。最近は以前に比べて不安定さは感じられないし、それに……何と言えばいいかしら」


 部長はいったん言葉を切り、首を傾げてくうを見つめた。


「今のあなたの言葉なら、信じられる。うまく解決できなくても、きっとちゃんと立ち直って別の道を見つけられるだろうって思えるから」


 その言葉にほっとしたのと同時に、認めてもらえた、信じてもらえた嬉しさを感じて、目の端がじわりと熱くなってしまった。


「ありがとう、ございます」


 震える声でそう呟いてから、カップに手を伸ばし、少し冷めたコーヒーを一口飲み下す。滴がまぶたから零れ落ちてしまわないよう、深く呼吸をしながら天井から吊り下がるペンダントライトを少し見つめた。


「部下としてずっとあなたを見てきたつもりだったけれど、帆高さんここ最近でずいぶん変わったわね」

「そうでしょうか……」

「ああもちろん、いい意味でね。いつも波風を立てないように、自分を抑えて振舞っていたでしょう。無抵抗のまま周りに流されたりしていて、本当に大丈夫なのかと思っていたけれど」


 的確な表現と評価に、何とも言えない気持ちになった私は、額に滲み始めた汗をそっと抑えながら苦笑いを浮かべた。


「さっきはちょっと試すつもりで意地悪を言っちゃったけれど、迷惑は掛けてくれても構わないんだからね。使えるものは何でも、誰でも使って。変に遠慮して自滅するのだけは避けてちょうだい」

「……はい」


 部長の指示を素直に受け入れはしたものの、試す、という言葉に違和感を覚えて小さく首を傾げる。そんな私に、部長は笑顔を向けた。


(あれ……?)


 目尻が優しく下がるその微笑み方をどこかで見たような気がして、考えを巡らせる。そんなに遠い昔じゃない、むしろつい最近あんな風に笑う人に出会ったような……。


「鈴音のことは、知っているわね」

「……!」


 今まさにたどり着いた人物の名をいきなり出され、目を見張る。オーベルジュのオーナーである奥平さんと初めて会った時も既視感のある笑い方だと思っていて、結局思い出せずじまいだったけれど。

 そうだ。あの笑顔、新山部長にすごく似ていたんだ。


「……あ、あの、鈴音って……」

「奥平鈴音。結婚して私と苗字は違うけれど、彼女は私の妹なのよ」


 驚きのあまり言葉が出ない私を尻目に、新山部長はカバンからスマートフォンを取り出して画面に指を滑らせた。


「おとといの夜に連絡が来たの。あなたに、玲の現状を伝えてほしいと言われたわ」


 縁は異なもの、という言葉が頭の中を駆け巡る。私と都倉さんを結ぶ人物は、ずいぶん前から傍にいたらしい。新たにつまびらかにされた事実に思考停止を余儀なくされた私は、とにかくコーヒーカップを取り落としてしまわないよう、それだけに神経を集中させた。






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