(8)
会社近くにある、我が社御用達の居酒屋。その二階の広間を貸し切りにして行われた渡利さんの歓迎会には、総務部だけでなく他部署の面々も参加していた。来月のイベント内容の最終調整で忙しい販促課は残念ながら社に居残りとなってしまったけれど、その分を差し引いても参加した人数は多いように思えた。
「渡利ちゃん、お酒全くダメなんだ?」
「はい~。皆さんからお酌頂いてるんですけど……。ほんとごめんなさい、ぜんぜん飲めなくって」
「いいのいいの、気にしないで! 代わりに俺が飲んどいてあげるからさ」
そう言って渡利さんのグラスを取り上げ、一気に飲み干している男性社員の様子を、私は少し窮屈な気持ちを抱えながら眺めていた。
歓迎会が始まってから既に一時間以上過ぎているのに、こうして渡利さんに構ってもらおうと奮闘する人は後を絶たない。今日は新山部長というお目付け役がいるせいか、そこまで暴走する輩はいないけれど、それとなく私たちを引き合いに出して渡利さんの可愛らしさを褒めそやしたり、意地悪しないで優しく指導するんだぞ、なんてお姫様を守るナイト気取りで私たちに忠告してきたりする人もいて、何となく居心地の悪さを感じていた。
「仲村さん、ちょっとお手洗いに行ってきます」
隣でビールを呷っていた仲村さんに小声でそう伝える。仲村さんが小さく何度もうなずいてオッケーのサインを出してくれたので、密かにカバンを手にし、そのまま帰宅できる準備を整えてから席を立とうとした。
「戻ってくるよね?」
「あ、当たり前じゃないですか」
思わずどもりながらそう答えると、仲村さんはニヤニヤ笑みを浮かべて、行ってらっしゃい、と手を振った。
あと三十分もすれば歓迎会はお開きになる。それまで外の空気でも吸ってやりすごそうとしていたのだけれど、今の反応を見る限りでは仲村さんにはその魂胆がバレてしまったのだろう。
何となく後ろめたさを感じながらも、座敷の上がり框の所にあるお店のサンダルではなく、靴箱から自分の靴を取り出して履き、静かに階段の方へ向かう。明日は月に一度の土曜休みの日だからか、背後から聞こえる酒盛りの喧騒は一段とにぎやかなもののように思えた。
「ほーだかさんっ」
間延びした、甘い声で名前を呼ばれ、思わず肩を震わせる。
「わ、渡利さん」
「どこに行くんですか? もしかして、もう帰っちゃうとか」
「あ、いや……ちょっと頭がぼんやりしてきたから、外の空気を吸おうと思って」
これは決して嘘じゃない。ただお開きの合図までは戻らない、という言葉を添えなかっただけだ。そんな言い訳を心の中で繰り返しつつも、何となく手に提げたカバンを体の後ろに隠した。
「じゃあ、私もお供しちゃおっかな~」
渡利さんは私の不自然な体の動きには目もくれず、私と同じように自分のパンプスを履いて廊下に出てきた。
「……主役がいないと場が締まらないから、五分だけね」
「分かってますよぅ」
並んで階段を降りていく。お店の人にすぐ戻ることを伝えて外に出ると、すぐに二人して大きく深呼吸をし始めたので、動きがシンクロしたことが何だか可笑しくて顔を見合わせて笑った。
「ちょっと寒いですね。上着、持って来れば良かったかな」
そう言いながら、渡利さんは私の腕にしがみつくように自分の腕を深く絡ませ、体を密着させてきた。パーソナルスペースに踏み込むどころか完全にゼロ距離での触れ合いを平気で繰り出してくる渡利さんに、不快感はないまでも、私はちょっとだけ戸惑いを感じていた。
おととい一緒にご飯を食べた時も私に遠慮なく触れてきたから、もともと人との距離感が近いタイプの子なんだと思っていた。でもさっきの飲み会の席ではあんなに楽しそうに親し気に談笑していたにも関わらず、一切相手には触れないし、何なら距離を詰めようとすれば同じだけ下がる、といった感じで一定の空間を保っていたようにも見えたのだ。
普段あまり交流のない、しかも男性相手だからそういう対応をしたんだろうか。でも……こんな言い方をすると人を色眼鏡で見ているようでちょっとアレかもしれないけれど、異性に対してかなりフレンドリーなやり取りができる人というのは、もっとボディランゲージを多用するものだと思っていたから、彼女の相手に対する態度と距離感はずいぶんちぐはぐだという印象を受けていた。
「そう言えば、このあと二次会行こうって誘われてるんですよ。帆高さんも来ますよね?」
「あー……」
渡利さんの隣に座っていた私の方にも漏れ聞こえてきた話を思い出しながら、私は苦い顔をした。
その件については、私自身にはお声は掛かっていない。誘われなければ断らなくて済むのでスルーしてくれて有難い、くらいの気持ちだったし、歓迎会が終わったら何も知らない
「……私はパス、かな」
申し訳程度に迷うフリはしたけれど、答えは一択しかなかった。
「ええ~! 私、帆高さんは絶対来てくれると思ってオッケーしたのに~」
どうせこの後も明日以降も予定はないだろうと当て込んだのか、とひねくれた考えが自然と浮かんでしまうようなことを言いながら、渡利さんは私を覗き込んで不機嫌そうな表情をしてみせた。
「終電まではまだまだ時間があるんだし、行きましょうよぉ」
「ごめん、でも明日は朝からちょっと用事があるから」
用事と言っても外に出て誰かに会うとかではなく、家に引きこもって母が遺した証拠品を探そうと考えていただけのことだ。でも私にとってこれはとても重要で、ここ数日ずっとその計画を立ててはなんとなくお流れになっていたから、明日こそは絶対にやり遂げるんだと強く心に決めていた。
「なーんか私も行く気なくしちゃったな~」
「まあ……無理に二次会まで参加しなくてもいいんじゃないかな。どうせみんな、理由を付けて飲みたいだけだろうから」
その場に可愛い子がいれば尚良し、みたいなところもあるだろう。そんな思惑に乗ることはないと思っての助言に、渡利さんはすっかりトーンダウンしてしまったようで、私の腕から手を離し、ですよね、と呟きながら店の壁にもたれかかった。
「……ね、帆高さん」
「ん?」
「いっそ、このままこっそり抜け出しちゃいません?」
いたずらっぽく微笑みながら、上目づかいで私に視線を送る。そのまなざしの色っぽさに思わずドキリとしたけれど、慌てて気を取り直して首を横に振った。
「何言ってるの、勝手に帰るのはだめだよ」
「でも、このまま戻ったってつまんないんだもん。皆からえっちな目で見られるのも、なんかヤだし」
「……」
そりゃ、そういう視線を送る男性社員たちが悪い。悪いんだろうけれど。
だけど今日は歓迎会で酒席に付くことは分かっているんだから、オフショルダーのチュニックに片膝が見える形のアシンメトリーなマーメイドスカート、なんていでたちではなく、もっと防御力高めの服装にしてみるとか、色々と自衛方法はあったんじゃないだろうかとも思うのだ。
「ねーえー、帆高さぁん。今の時間ならまだ私のお気に入りのカフェ、開いてるんです。だから」
「だめったらだめです」
「ちょっとだけ! 一時間、ううん、三十分でもいいから~!」
再び腕にしがみつかれ、お願い、だめの押し問答を繰り返す。
後輩から慕われるのは嬉しいし、力になってあげたいとも思うけれど、こんなにべったり甘えられると正直気持ちが引いてしまう。とりあえずこの場から抜け出すのが最善だと思った私は、しがみつく渡利さんをぶら下げたまま、腕時計で時間を確認した。
「ほら、もう五分経ったよ。そろそろお店に戻らないと」
「ヤダ! 帆高さんがこの後私とデートするって言ってくれるまで、ぜえったいに戻らない!」
「デ……デートって」
芹香もたまにふざけてこういう事を言ったりするけれど、何と言うか、ノリが違う。もともと密着度の高い女子同士の付き合いが苦手なせいもあるんだろうけれど、抱き着かんばかりの勢いで言われてしまうとこんなにも受け止めきれないものかと思うくらいに拒絶反応がすごくて、つい言葉を失ってしまった。
「渡利さん、帆高さん」
とりあえずこの体勢から逃れようと、渡利さんの手を振りほどきかけた時、いきなりお店の引き戸が開いて声を掛けられた。
現れたのは新山部長で、女同士で腕を組んでいる私たちを見て怪訝そうに首を傾げている。
「あ、いやあのこれは」
「そろそろお開きにするから、上の座敷に戻ってちょうだい」
何か勘繰られているんじゃないかと、焦って状況を説明しようとした私の言葉を遮るように、新山部長はいつもの調子でそう言った。
「え、もう終わるんですか? 時間までまだ少しあるんじゃ」
「取締役から連絡が入ったの。渡利さんのお父様が心配なさっているそうだから、早めに切り上げてくれって」
その言葉に、渡利さんがうちに入社したのは取締役のツテだったことを思い出した。安易に彼女の誘いに乗っていたら、娘を連れまわすなと取締役を介してお叱りを受けていたかもしれない。押し切られずに踏みとどまれて良かったと思いながら、まだ腕に絡みついたままの渡利さんをふと見下ろした。
「……?」
渡利さんは、なぜか青ざめて表情を強張らせている。私の訝し気な視線に気付いて慌てて腕を離したその手が、かすかに震えていたのを見逃さなかった。
「……渡利さん、大丈夫?」
「えっ……何が、ですか?」
平静を装っているようだけれど、声も上ずって何だか不自然だ。急に様子が変わったことに戸惑い、新山部長の方に目を向けようとした時だった。
「あ、えっと……じゃあ私、中に戻りますね! 皆さんにご挨拶して回らなくっちゃ~」
渡利さんはわざとらしく弾んだ口調でそう言うと、店に入って行ってしまった。
「……何か、様子がおかしかったわよね」
スキップを踏むような軽やかな足取りで階段を上がる渡利さんを見送りながら、新山部長が呟いた。
「そう、ですね。お父さんが厳しい方なんでしょうか」
何となくの予感で彼女が豹変した原因の可能性を挙げてみたけれど、父親に叱られるかもしれないというだけであんなに怯えたりするだろうか。
でもまあ、世の中にはいろんな家庭があって、それぞれに事情があったりする。そこに首を突っ込むべきではないだろうと、これ以上の詮索はやめておくことにして、私も渡利さんの後を追うように店内に入ろうとした。
「帆高さん」
動きを制するように、新山部長が私の肩に手を置く。部長はそのまま店の外に出ると、引き戸を閉めた。
「今日はこの後、何か予定はある?」
「え……」
その質問の意味を測りかねて、首を傾げる。部長は腕時計で時間を確認してから、辺りを見回した。
「こんな時間だけど、ちょっとゆっくり話したいのよ。できれば二人きりになれるところで」
渡利さんのお誘いは断ったけれど、直属の上司からのお声がけには真摯に応えた方がいいかもしれない。新人の指導に難があるのかもしれないし、それ以外の不手際があったりして……なんて考えてしまうのは、私が立派な社畜だからだろうか。会社に勤める者の悲しい性と言うか、その言葉に首を横に振ることができなかった私は、また予定を先延ばしにしないといけないな、とぼんやり思った。
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