(7)




 見たことのない番号だし、もう遅い時間で寝る準備も整っているということもあって、この着信には出ないでおこうかと思ったけれど、何となく都倉さんからかもしれないという予感がして、少し迷いながらも通話ボタンをタップした。


『咲葵、私だ。分かるか?』


 思った通りの相手だということにほっとして返事をする。いつも使っているスマートフォンが壊れてしまったそうで、これは仕事用のものだということを説明してくれた。でも都倉さんの声が何だかいつもより沈んでいるように思えて、私はそちらの方が気になって仕方なかった。


「どうしたんですか、こんな時間に」

『さっきラインをくれただろう。内容を確認できなかったから、電話で聞いておこうと思ったんだ』


 たぶんいつもは私からメッセージを送ることがないから、何か緊急事態かと思って心配してくれたんだろう。せめてもっと中身のある話題でも提供出来ていたら良かったのだけれど、ベッドにもぐって残すはまぶたを閉じるだけ、という体勢をとった後で送る内容なんて限られている。


「ええと……あの、おやすみなさい、と」

『え?』

「お、おやすみなさいと送ったんです……すみません、ものすごくどうでもいい内容で」


 ベッドから体を起こし、恐縮しながらそう言うと、都倉さんはしばらくの沈黙の後で小さく笑い声を上げた。元気がないように感じたのは気のせいだったかもしれないと安堵しつつ、本当につまらないことで時間を使わせてしまって、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。


『ずいぶん遅い時間に寝るんだな。明日も仕事なんじゃないのか?』

「今日は後輩と夕飯に行ってて……あ、浅野くんじゃないですよ? 新人の女の子なんですけど。それでちょっと帰るのが遅くなったから」 

『そうだったか。通りで声が弾んでいるわけだ』


 確かに今日は新鮮で充実した時間を過ごせたから、とてもいい一日だったと感じている。でも、電話越しでも分かってしまうくらいにはしゃいだ口調で話してしまっていただろうかと、ちょっと恥ずかしくなってしまった。


「私、そんなに分かりやすく浮かれてました?」

『浮かれていると言うより、充足感が伝わってきたよ。とにかく、楽しい時間を過ごせたようで何よりだ』


 それから二言三言を交わしたあと、静寂が流れる。

 重要でも緊急でもない、夜更けのちょっとした時間を埋めるような電話だから、切るならこのタイミングだと思った。なんとなくおやすみの挨拶をして、そして声を聞けて良かった、なんて思いながら眠りについて……この後の展開は簡単に予測できたし、実際そうするつもりで口を開いたはずだった。


「あ、あの」


 でも、もう少しだけ。あと一分で構わないから、こうして繋がっていたい。そんな気持ちを抑えきれなくて、気付けば電話の向こうの都倉さんを引き留めるような声を上げてしまっていた。


『どうした?』

「あ、えっと……」


 何を言えばいいのか。後に続ける言葉を用意していなかったことに焦りつつ、頭を巡らせる。結果、脳裏に浮かんだのは、今日渡利さんと一緒に行ったお店で食べた料理のことだった。


『パエリアか』

「はい。今日食べに行ったお店のがすごくおいしかったんですけど、普段なかなか行けなくて。だから自分で作れるようになれば、食べたいときに食べられるんじゃないかなと」


 私としては、ごく普通の提案をしたつもりだった。これまで通りの関係を続けてくれるのなら、お料理を教えてもらうという約束も有効なままのはず、そう思っていたのだけれど。


「あ……でも、すぐにというわけじゃないんです。今はオーベルジュが忙しいと思うし、時間ができた時で構わないので、いつか教えてもらえれば」


 不自然なかたちで流れた沈黙。それを堰き止めるつもりで補足した言葉にも、返事はない。

 あの日気持ちを打ち明けてから、思いが完全になくなったわけじゃないけれど、私としてはいつも通りに戻った感覚でいた。メッセージでのやり取りではよそよそしい雰囲気になることはなかったし、今もこうして前と変わらない様子で話もできている。だからお互い同じような心境なんだろうと思い込んでいたけれど、もしかしたら都倉さんは私に辛い思いをさせまいと配慮してくれていただけで、実はそこまで気持ちの切り替えはできていなかったのかもしれない。

 そういう可能性があることに目を向けられず、結果的に配慮に欠けた言動をしてしまった自分がほとほと嫌になった。思わず吐き出しそうになったため息は何とか飲み込んだけれど、気持ちの急降下はどうしても止められなくて、私はがっくりとうなだれた。


『咲葵、その……一つ言っておきたい、と言うか、聞きたいことがあるのだが』


 そんな気にはなれないとはっきりと心境を打ち明けられるのか、それとも今は時間が取れないとやんわり遠ざけられるのか。どっちにしても、行き当たりばったりなこの思い付きは断られるんだろう。でも、落ち込んだ様子を見せて都倉さんに更に気を遣わせてしまうのだけは絶対に避けなければ。

 そう思って、明るい声と前向きな言葉での返答をシミュレーションしながら、都倉さんの言葉を待った。


『君は今、幸せか?』


 それは、思いもよらない質問だった――はずなのに、舌の奥で準備させていた答えを押しのけて飛び出してきたのは、


「はい!」


 場の空気にも遅い時間帯にも全くそぐわない、元気なお返事で。


『……そう、か』

「す、すみません……なんか、バカみたいにおっきな声出しちゃって」


 恥ずかしさでいたたまれなくなって、消え入りそうな声でそう呟く。

 質問の意味はちゃんと理解しているし、答え自体も間違ったとは思わない。今もう一度同じことを聞かれても、きっと私は胸を張って同じ答えを返すだろう。でも都倉さんの微妙な反応からも分かる通り、あんなに声を張り上げることはなかっ……


「都倉さん……笑ってます?」


 私がそう尋ねた直後、今度はさっきよりも大きな笑い声が電話の向こうから響き始めた。


『いや、すまない。笑うことではないとは分かっているんだが……まさかそんなテンションで即答してくれるとは思っていなかった』


 笑いを含みながら話しているせいか、その声は少し上ずっているように感じる。そんな都倉さんにつられてこみ上げた可笑しさを私も抑えることができず、私たちは少しの間、二人で声を合わせて笑った。


『仁哉が望んだとおりの人生を、歩めているんだな』


 しみじみとそう言われ、言葉にはせず小さくうなずく。

 仕草が伝わるわけはないはずなのに、都倉さんはまるで私の動きを見ていたかのように、良かった、と呟いたので、なんだか気持ちが通い合っているように感じて心がふわりと温かくなった。


「都倉さんのおかげですよ」

『え……』

「都倉さんと出会ってから私、自分が幸せ者だってことに気付いたんです」


 都倉さんは、私を新しい世界に連れ出してくれた。傷つかないように、怖がらないようにと手を取りながら導いてくれて、おそるおそる踏み出した一歩をおおげさに褒めてくれたりして……。そんな優しさにうんと甘やかされている内に、人が向けてくれる思いやりは、素直に受け取っていいんだということを教わったように思う。

 そうして顔を上げてみたら、私をちゃんと見てくれている人がいることに気付いた。数は決して多くない、でもその一人ひとりは私を思い、私のために手を差し伸べてくれている。群衆の波をかたどる一部と見過ごされずに一人の人間として向き合ってもらえるのは、本当に有難くて温かくて、幸せなことなんだと感じた。


「まだ時々うつむいてしまいそうになるけど。でも都倉さんがいてくれるから私、前を向こう、顔を上げようって思えるんです。だから――」







――だから、なんて言うか……これからも今まで通り、仲良くしてもらえるとうれしいなあ、なんて


 電話を切った後、玲はしばらくベッドに体を横たえたまま天井を見つめ、咲葵の言葉を思い返していた。

 求める者の血の供給を受けられずに自我を失ったヴァンパイアは、CROの手によって死と同等、あるいはそれより更に残酷ともいえる処置を受けることになる。仁哉と留美が望んだ咲葵の幸せを守るためならと、玲はそんな人生の結末を辿るつもりでいた。

 玲が何を思いどんな覚悟を決めたのか、咲葵は知る由もない。だからあの言葉にも他意はなく、ただ純粋に友愛の気持ちを伝えてくれただけに過ぎないのだ。頭では分かっているのに、玲は彼女に全てを見透かされ、引き留められたように感じていた。


「……」


 目を強く閉じ、湧き上がりそうになる感覚を必死で抑えつけながら、玲はチェストに手を伸ばした。引き出しの中に転がっていた小さなビンから幾つかの錠剤を取り出し、数を確認することもなくそのまま口に放り込む。

 血を求める衝動は日を重ねるごとに耐えがたいものになっていて、そのせいで一回に服用する薬の量も、その回数も増え続けていた。薬を提供してくれた人物からは、このビンが空になる頃にはほとんど効かなくなる、という忠告を受けていたが、そのリミットもそろそろ近づいてしまっており、玲は自分に残された時間がもうそれほどないということをひしひしと感じていた。

 本当は、無責任に全てを放り出す真似などしたくなかった。仁哉のことを解決し、咲葵が幸せになる姿を見届けたい、そう思っていた。しかしそれはもう叶えられそうにないというところまで追い詰められて初めて、玲は生に対する執着を覚えた。

 これまで、親しい人間が老いて死にゆく背中を独りで見送ってきた玲。それが今度は、愛する者を置いて行かなければならない。その現実は受け入れたはずだったのに、それしか選択肢はないと分かっているのに。


「……どうしたらいいんだ」


 袋小路に迷い込んだ末、不意にこぼれたその言葉は、行き場を失い静かに消えていくかと思われた。


「分からないのなら、考えるのをやめてみてはどうですか」


 低く穏やかな声が、玲の独り言を拾い上げる。

 玲は目元を覆うように載せていた腕を少し動かし、視界を開けた。その瞳には、開いたままのドアの傍でたたずむ紫藤の姿が映っていた。


「……お前、店は」

「スタッフに任せてきました。もう私がいなくても、皆がちゃんと回してくれますから」


 紫藤はそう言いながら、床に散乱している書類をよけつつ部屋に入ると、手に提げていたビニル袋をそっとデスクに置いた。


「どうせまた何も口にしていないのでしょう。店のまかないを持ってきたので、ちゃんと食べてください」

「私はヴァンパイアだ。食べなくとも問題はない」

「人間らしく生きるためにはきちんと三食摂るべきだと言ったのは、あなたではないですか」


 荒れた状態の部屋を見渡し、呆れたように微笑む紫藤。玲は不機嫌そうにため息をつくと、ゆっくりと体を起こした。


「そんな節介を言いにわざわざここまで来たのか」

「ええ、まあ。そんなところです」


 素直に認める紫藤の様子が気に食わないのか、玲は表情をますます険しくして紫藤を睨みつける。理不尽な態度ではあるが、今はどんな受け答えをしようが全て否定的に取られるのは承知の上だと言わんばかりに、紫藤は涼し気な表情を崩さなかった。


「鈴音から、現状を報告するという連絡が入った」


 ベッドから足を下ろし、腰掛けるような体勢を取りながら玲が言う。

 紫藤は足元に散らばる紙束をいくつか拾い上げてから、ちらりと玲に目をやった。


「このままだと近い内に咲葵の耳にも情報が入ってしまうだろう。そうなる前に、何とか手を打ってほしい」


 紫藤は黙ったまま、どこかの企業から送られてきた提案書や重要そうな契約書をまとめ、レタートレイに片付けていく。それを何度か繰り返して露わになり始めた床材と、無言で手を動かす紫藤の様子を憮然とした表情で見比べていた玲だが、やがて焦れたように短くため息をついた。


「おい、聞いているのか」

「申し訳ありませんが、それはできません」

「……何?」

「あなたの現状を咲葵さんに伝えるのは、私も必要なことと判断しておりますので」


 紫藤の返答に、玲はさっと顔色を変えた。


「……自分が何を言っているのか分かっているのか」

「そのつもりですが」

「だとしたら、お前はよほど冷酷か、察しの悪い人間らしいな」


 苛立ちを載せた玲の声音が、空気を張りつめさせる。たとえもっと強く脅しつけたとしても紫藤が怯むはずがないことは分かっていたが、むしゃくしゃした気持ちをぶつけずにはいられなかった。


「友人を亡くし、愛する者も失って……その上、が自分より歳を重ねていくのを、お前は一体どんな気持ちで見てきたんだ。いつかその死を見届けなければならないということの辛さは、お前が一番よく分かっているはずだろう」


 紫藤の表情はやはり変わらない。しかし、一瞬だけ片側の頬がピクリとひきつったように動いたのを、玲は見逃さなかった。


「自分の立場に置き換えてみろ。課せられた呪いに自らを食いつぶさせるか、大事な者にそんな辛い人生を歩ませるか。残される痛みを知っているお前なら、どちらを選ぶ?」

「それを聞いて何になりますか。私が意見をたがえれば、あなたは考えを改めるとでも?」

「いいから答えろ、訊いているのは私の方だ!」


 室内に響き渡る怒声。

 八つ当たりをしたところで何も変わらないと分かっていながらも、激しく波打つ感情を抑えきれない。額に手を当て首を振りながらうなだれる玲のその姿は、現実を儚んでいるだけでなく、自分自身を制御できないことにも失望しているかのようだった。


「私のこんな状態を知れば、咲葵はドナーになることを受け入れるだろう。私の気が変わるまで、彼女は永遠に私に縛り付けられることになる。……お前と、同じ運命をたどるんだ」

「……」

「私は……あの子が自力で掴んだ今の平穏な幸せを手放させたくない。仁哉が

望んだ人生をちゃんと全うしてほしい、そう願っている。だから――」


 苦悩に満ちたその言葉。玲は今もなお紫藤をドナーにしたこと、そして気まぐれに手放そうとしていることに強い後悔と罪悪感を覚えていた。

 もう二度と、同じ過ちを繰り返したくない。自分の都合で誰かの人生を左右してしまいたくない。

 玲が頑なに咲葵をドナーにすることを拒んだのは、彼女の幸せを願ってのことだけでなく、生きていれば恐らく永遠に常に付きまとうであろう、この後ろ暗い感情からも逃れたかったからだった。


「……分かりました」


 小さく息をつき、紫藤がポツリと言った。


「永らくあなたの傍にいた身ですから、僅かな一端に過ぎないかもしれませんが、その苦しみは理解できているつもりです」

「……なら、咲葵には伏せておいてくれるか」

「いいえ、咲葵さんに現状は伝えさせます。あなたが”死”を強く望んでいることも、その理由も」


 真意を測りかねた玲は、怪訝そうに眉根を寄せて紫藤を見つめ返す。

 紫藤は、それまで張りつめていた空気を払うようにまなじりをかすかに下げ、穏やかな表情を浮かべた。

 

「咲葵さんにとってあなたは、ただひと時を過ごしただけの軽い存在ではないはずです。既にご両親という大事な人を亡くした経験がある上で、更にあなたまで何も知らされないまま失えば……おそらく、立ち直るまでに計り知れないほどの時間を要するでしょう」


 密かに懸念していたことを的確に突かれてしまい、思わず視線を反らすようにしてうつむく玲。そんな心境を見透かしたのか、紫藤は気遣うように玲を見つめて一旦口をつぐんだが、少し迷いながらも再び言葉を続けた。


「あなたが何を望んでいるかはきちんと話します。その上で、せめて彼女には選択肢を与えてほしいのです」

「選択肢……?」

「咲葵さんが何を以って幸せとするのか、それは本人が決めること。あなたが本当に自分を犠牲にしても幸せになってほしいと願うのなら、彼女の思いを聞き入れるべきではないですか」


 紫藤にそう言われ、玲は弾かれたように顔を上げた。


――何が幸せかは本人が決めることであって、僕がどうこうするもんじゃない。

――でも、それを選び取れる人生であってほしいよね。


 仁哉と二人、肩を並べて歩きながら咲葵の幸せを願ったあの夜。星空を仰ぎ見て呟く仁哉の傍らで、自分はなんと答えたか。


「それが咲葵の為になるなら、私は……」


 あの時自身が出した答えを噛みしめるように、玲は掠れた声でぽつりとそう言った。

 重く垂れこめた鈍色の雲が、さっと晴れていくような感覚。不明瞭で雑然としていた玲の思考はすっきりと整い、飾り気のないシンプルなものになっていった。


「難しい選択かもしれませんが、咲葵さんは賢い人です。きっと間違えたりはしませんよ」


 紫藤の言葉に、玲は小さくうなずいた。

 自分が描いたシナリオ通りに事は運ばないかもしれない。それでも、仁哉の望んだ人生を歩んでいる、そうはっきり答えた彼女の選んだ道なら信じられる。

 玲は、自分の心が数日ぶりに穏やかに凪いでいくのを感じながら、ベッドから腰を上げた。


「こんな時間だが、まかないを食べよう。何を持ってきた?」

「キッシュです」

「アパレイユに余計なものは入れていないだろうな」

「ロレーヌ風を意識したと、今日の厨房担当は言っていましたよ」


 とりとめのない会話を紫藤と交わしつつ、寝室を後にする。その足取りは、つい数時間前にこの部屋に入った時と比べると、ずいぶんと軽快なものになっていた。






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