(6)
「帆高さ~ん!」
終業後。総務部の部屋を出てエレベーターの到着を待っていたところで、声を掛けられた。振り返ると、ふわふわの髪を揺らしてスカートを翻しながら渡利さんがこちらに駆けてくる姿が目に入った。
「今日はもう、まっすぐお帰りですかぁ?」
「はい、まっすぐお帰りです。それより渡利さん、オフィス内は歩いてくださいね」
私がやんわりそう促すと、渡利さんはあっと小さく声を上げて口元に手を当てると、恥ずかしそうに頬を赤らめて肩をすくめた。
「小っちゃい子みたいで、みっともないですよね……。ごめんなさい」
「まあ、誰がどこで見ているか分からないですし、ぶつかったりするかもしれないですからね」
渡利さんはしょんぼりしながら例の間延びした返事をすると、小さくため息をついた。
「私、せっかちなのかなあ? ついつい走って移動しちゃうんです。気を付けようと思ってるんですけど」
「その内、自然とできるようになりますよ。……ところで、何か用事があったんじゃ」
少し脱線しかけた話を元に戻す。すると渡利さんは少し慎重な面持ちで辺りを見回し、一歩私の方へ近づいた。
「良かったらこの後、一緒にご飯行きません?」
「え……」
急なお誘いの意図を測りかねて答えをすぐに返せず、私は首を傾げて渡利さんを見つめた。
「金曜日に歓迎会をしてもらうってことは分かってるんですけど、その前に二人っきりでゆっくり話したいんです。お仕事を教えてもらってるし、私、帆高さんとちょっとでも早く仲良しになりたくて」
今日は帰って遺品を引っ張り出そうと思っていたけれど、せっかくこうして声を掛けてくれたんだし、自分次第でどうとでもできる予定を優先することはない。仲良くなりたいと思ってくれている気持ちに応えたいし、私は彼女の提案を受け入れることにした。
「あのぅ……誘っておいて何なんですけど、私この辺のお店あまり詳しくなくて。だから、帆高さんの好きなトコに連れて行って欲しいです!」
「私の好きなところかぁ……」
真っ先に頭に浮かんだのは、会社近くのスペインバルだった。
そこは販促課の女性陣がよく仕事上がりに使うお店だったりする。芹香と一緒に夕食に行ける時は高確率で彼女たちはそのお店利用するし、かと言って販促課が忙しい時を狙って一人で入るのは少し勇気がいる雰囲気だったりするので、なかなか行くことができないでいた。
でも今日は、販促課は来月のイベントの練り直しでバタバタしているし、渡利さんという同伴者もいる。
「よし、じゃあ……行きましょうか」
「はい!」
ちょうどいいタイミングでエレベーターの扉が開く。私たちは連れ立ってそれに乗り込んだ。
◇
「素敵なお店~。帆高さん、いつもこんなおしゃれなお店でディナーしてるんですね!」
注文を終え、従業員の中でも特にイケメンと評判のウェイターがその場を離れてから、渡利さんがニコニコしながらそう言った。
「あー……実は一回来たことがあるだけなんです。アーティチョークとパプリカの入ったパエリアがすごくおいしくて、本当は週一で通ってしまいたいくらいだったんですけど」
販促課の人たちと鉢合わせたくて来られなかった、とは言えず、曖昧に語尾を誤魔化しておく。渡利さんは私のそんな様子を気にすることもなく、ふうん、と小さく呟きながら店内を見回した。
「そう言えば……渡利さん、お酒は?」
さっきの注文で私がウーロン茶をまず頼んでしまったから、渡利さんは遠慮してしまったかもしれない。そう思って尋ねると、渡利さんは顔をしかめて首を横に振った。
「私、一滴も飲めないんです。ハタチ過ぎてから一度試しに飲んでみたんですけど、ワイン一口でフラフラになっちゃって」
せっかく大人になったのにな~、と眉を寄せて少し拗ねたように呟く渡利さんの可愛らしい表情に、ふわっと心が浮き上がる。彼女とは同性だし、完全一致とは程遠いかもしれないけれど、渡利さんに会いにわざわざ総務部の部屋まで来たり、高級プリンを贈って気を引こうとしたりする男の人の気持ちが何となく分かった気がした。
「じゃあ、私と一緒ですね」
「えっ、帆高さんもなんですか?」
恥ずかしながら入社してすぐの歓迎会で卒倒した経験があるということを伝えると、渡利さんはぱっと顔を綻ばせて、テーブルに無造作に置いていた私の手をそっと握った。
「なんか、すっごく嬉しいです~! 今まで、分かってくれる人になかなか出会えなかったから」
突然のスキンシップに驚きはしたけれど、女同士ということもあってかそこまで警戒感も嫌悪感も湧いては来ない。それに今日は、今後いっしょに仕事をしていくにあたってお互いを知って仲良くなろうという目的もある。
「ああ、うん、ええと……それは良かったです」
少しくらいは彼女のペースに合わせてあげた方がいい。そう思い、多少距離感のおかしなところは目をつぶって受け入れることにして、微笑みを返すだけにとどめた。
久しぶりに食べたパエリアの安定のおいしさに癒されながら、私たちはのんびりと色んな話をした。学校は違えど同じような女子短大に通っていたせいか、学生の頃の空気感を思い出して懐かしい気持ちになったり、芹香と一緒に過ごすのとはまた違った楽しさを感じられたりして、私にしてはかなりのスピードで彼女に心を開き始めていた。
それを渡利さんの方も感じてくれたのか、話題はいつしか、心の内にある他人にはちょっと知られたくない領域まで広がっていた。
「私、前の会社でちょっといじめられてたんですよね~」
食後のデザートにと頼んだタルタ・デ・サンティアゴというアーモンドケーキを食べながら、渡利さんがぽつりとそう言った。
「なんか、私の態度が気に食わないって。男に媚びてるとか、上司にだけいい顔してるとか……」
渡利さんは、卒業後すぐに就職した先で嫌がらせを受けてしまい、一か月もしない内に退職してしまったらしい。父親のすすめで今の会社に入ったけれど、初日は不安で仕方なかったことも打ち明けてくれた。自分が同性から嫌われるタイプであることは自覚していて、それについても少し悩んでいるようだった。
「どこにもそういう人っているよね。気に入らなければ関わらなければいいのに、やたらと突っかかってきたりして」
しんみりした空気の中、私もつい本音をこぼしてしまう。渡利さんはぱちぱちと目を瞬かせ、しばらく私を見つめた。
「帆高さん、そのー……。もしかして、私と同じような目に遭ってたりします?」
遠慮がちな問いかけに苦笑いをしてうなずくと、渡利さんは驚いたように目を見開いた。
「自分にも原因はあるとは思ってるんだ。もっと上手に人と関われていたら、こんな事にはならなかっただろうから」
「それはいくら何でもいい人過ぎると思うんですけど……。でも帆高さん、ここで長く勤めてますよね。人間関係が良くないのって辛くなかったですか?」
「私のことを理解してくれる人がいたからね。独りだったらきっと、とっくに辞めてたと思う」
「ああ、そっかぁ……」
そう呟き、渡利さんは少し悲しそうに視線を落とした。
「私にもそんな人がいたら、ちゃんと続けられたのかなあ」
言葉が胸に刺さる。
私と違って味方が誰一人いない中で仕事をするのも、せっかく入った会社をすぐに辞めざるを得ないことになったのも、本当につらかっただろう。
「……もし渡利さんに何かあった時は、全力で支えます」
「え」
「だから、ここでは心配しなくていいよ。私だけじゃなく、周りにもちゃんと分かってくれる人はいるから」
丸岡さんの話では、一部の女性社員からは既に悪意を持った目で見られてしまっているし、このままだと渡利さんはまた以前と同じ状況に陥ってしまう可能性がある。でもせっかく縁あってこの会社に来てくれたんだし、できるなら長く、いい環境の下で一緒に仕事をしたい。そう思って私が伝えた言葉は、渡利さんに想像以上に響いたようだった。
「……ご、ごめんなさい。そんな風に言ってもらえるなんて、私思ってなくて」
声を震わせてそう言いながら慌てて目元を拭うと、渡利さんはほう、と一つ息を吐いた。
「前の会社が続けられなかったこと、ずっと後悔してたけど……でも、ここで帆高さんに会えたんだもん、辞めて良かったです」
その言葉と笑顔に、私もついこみ上げてくるものを感じてしまい、誤魔化すように鼻をすすって微笑んだ。
辛いことはたくさんあったけれど、私は本当に人に恵まれている。そう、幸せを感じた瞬間だった。
◇
その日の夜遅く。玲はオーベルジュや別宅のマンションではなく、珍しく自宅にいた。ベッドに体を横たえたまま、スマートフォンを耳に当てて話をしている。その内容はあまり芳しくないもので、玲の眉間に寄せられたしわは話が進むにつれて深く刻まれていった。
『何をもって大丈夫だと言っているの? 持ち直すどころか薬の量も増えているじゃない』
「それは……」
『悪いけれど、この件は
電話の相手である鈴音に強い口調でそう言われた玲は、弾かれたように体を起こした。
「おい、やめろ! 余計な口出しは無用だと何度も言っているだろう」
『こっちはあなたの体を心配しているの。それに、私を止めようったってもう手遅れよ』
「な……お前、まさか」
『今、メールを姉さんに送信中。……ああ、今完了したわ』
玲は誰もいないはずの空間を、まるでそこに鈴音が存在するかのように睨みつけた。
『姉さんはどんな判断をするかしらね。多分、私と同じ見解を示すでしょうけど』
「……」
『ま、せいぜい彼女があなたを拒絶することを祈ってなさいな』
そう冷たく言い放たれた玲は、それ以上何も答えることなく一方的に電話を切ると、スマートフォンを思い切り床に叩きつけた。鋭い音を上げたそれは表面に大きく亀裂が走り、おそらくまともに使える状態ではなくなっただろうことが見て取れた。
「くそ……」
低い声で呟き、唇をかみしめる。固く握りしめられた手は、ままならない現実に対する怒りによって小さく震えていた。
先日咲葵と会った時に表れた、渇望期の症状。あれは”疑似的な発作”などではなく、咲葵に対する吸血欲求が高まったせいで起きたものだ。発作を抑える薬というのもCROを通した正規のものではない、別のルートから手に入れたいわゆる違法薬剤だった。
実はここ数日、咲葵への吸血欲求は、咲葵に恋人ができたと誤認したことと交流を控えたことによって治まりを見せていた。もちろん薬のおかげでもあったが、それ以上に心の内を占める咲葵の割合が減ったことは大きく影響していたようだった。
だからあの日、玲は咲葵と会う約束を取り付けた。父親の仇を知った彼女を一人にはしておけないという心配もあったが、咲葵が吸血対象から外れたかどうかを確認し、一刻も早く安心を得たかったのだ。声を聞き、顔を見て、もう大丈夫だとほっとしたのも束の間だった。
―ー私、都倉さんのことを一人の男の人として意識してしまっていて……
あの告白を受けた時、玲の心に咄嗟に湧きあがった思い。これまで抱えてきた切なる欲望が受け入れられるかもしれないという、自分本位な期待感は、消えかけたはずの咲葵への吸血欲求を取り返しのつかないところまで加速させてしまった。
そうなると、もう抑える手立てはない。本来のドナーである紫藤の血を取り込んでも今までのように満たされることはなく、玲はどんどん自分が干からびていくような感覚に陥っていた。
紫藤も鈴音も玲の状態は把握しており、特に鈴音からは、咲葵に現状を打ち明けるようにと何度も諭されていたが、玲はそれを拒否し続けていた。
もし話してしまえば咲葵はドナーになることを受け入れてしまうに違いないし、そうなったら絶対に彼女を手放さないだろうと確信していたからだ。
自由な意思の下で何かに縛られることなく、それこそ死ぬ直前まで自分らしく生きてほしい。仁哉が、そしておそらく留美も同じように娘に願ったたった一つの幸せを、玲はどうしても守りたかった。
永遠に彼女を縛りつけ、ひたすら奪い取るばかりで死すら与えない。そんな人生など、果たして幸せだと呼べるのだろうか。
咲葵を巻き込みたくはない。それならいっそ――。
「……」
スマートフォンから歪んだ着信音が響く。玲はのろのろと立ち上がってそれを拾い上げると、ひび割れた画面に目をやった。どうやら咲葵からメッセージが届いたらしいが、画面に触れても反応しないので内容は確認できない。
玲はため息をつき、サイドテーブルの引き出しを開けた。
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