(5)
失恋、と呼んでいいものかどうかは分からないけれど、とにかく傷ついた心を癒すには泣くのが一番だと考えていた。だけど、今夜は存分に泣こうと意気込んだのがいけなかったのだろうか。家に帰ったあとお風呂に入って、少しのんびりして。タイミングはあったはずなのに、涙の一滴どころか、その予兆である感情の昂ぶりすら一向に訪れる気配を見せなかった。
その日の夜遅くに、体調は持ち直したというメッセージが都倉さんから届いた時も、ふられた相手からのアクションなんて直視できない、なんてことにはならず素直にほっとできたし、何ならその後とりとめのない話題でのやり取りだってした。
思いを断ち切られたという実感が湧けばもしかしたら、とも思ったけれど、よくよく考えてみれば私と都倉さんの関係はゼロになったのではなく、今まで通りに続いているのだ。これまでと何も変わらないものを悲しむ、というのはどうしたって無理がある。
そういうわけで、数日が経った今もまだ私は泣けていないし、ご飯が喉を通らなくなっていないし、夜眠れなくなったりしていない。
他に考えるべき、やるべきことを抱えているというのもあると思う。母が遺したかもしれない、都倉さんの持つものとは違う情報を探さなくてはいけないし、総務部に入る新人さんへ仕事の引き継ぎもしなくちゃいけない。落ち込んでいる暇はない、というやつだ。
とにかく、泣く、という行為は思ったよりもセンシティブなもので、あらかじめ予定を立ててするものじゃないと思った。
多少忙しいことを除けば平穏な日々が続いていて、それもすでに週半ばを過ぎようとしていた。普段ならこの辺りになると、社内の空気は何となく停滞してマンネリ感が充満し始める。けれど今週は新しい風が吹き込んだせいか、特に男性社員はどこか浮足立っているように感じた。
「すいません、模造紙を頂きたいんですけど~」
総務部の入口近くのカウンターで声がしてそちらを振り返ると、広報部の男性社員が立っていた。いつもは内線で私たちに頼んで持ってこさせるのに、わざわざこうして総務部まで来たのは別の目的があるからだということは、ここにいる全員が何となく察していた。
「はーい、少しお待ちください!」
私の隣で元気よく返事をしたのは、月曜日に入社した新人の
「えっとー……帆高さん、備品室の鍵ってどこでしたっけ?」
「部長のデスクの後ろのキャビネットです。上から二段目の棚ね」
「ありがとうございまぁす」
渡利さんは、ぴょこんという効果音が聞こえてきそうな弾んだお辞儀をすると、私が指示した方へと駆け足で向かって行った。急ぐものでもないだろうし、できればオフィス内は歩いて移動してもらいたいと思いながらも、とりあえずその背中を見送る。
「色々と感情がまぜこぜになっててうまく説明できないけど、すっごいイライラするのはどうしてなんだろうね」
そう言って男性社員に嫌悪の視線を送るのは、契約書類を整理していた仲村さんだ。
タンブラーのコーヒーを啜るその表情は言葉通りにとても複雑なもので、私は思わず苦笑を漏らした。
「もう渡利さんのぶりっ子はいいとしてさぁ。若い子に構いたーい構ってほしー! っていう下心がモロ顔に出ちゃってるあたり、ホント見てらんないんだよね~」
渡利さんに、お待たせしました~、と高く甘い声を掛けられて鼻の下を伸ばしているあの表情が、仲村さんはどうも許せないらしい。
自分のあからさまな態度が話題になっているとはつゆ知らず、その男性社員は渡利さんの後について出入口に向かいながらこちらに会釈し、私たちもそれに応えてにこやかに頭を軽く下げた。
「まあ……仕方ないですよ。可愛いものに癒されたいと思うのは人間の性ですから」
「だったら猫動画でも見てろって話よ。社内にエロやかな空気を持ち込まないで頂きたいわぁ」
仲村さんはため息交じりにそう言うと、急に表情を引き締めて何事もなかったかのように目の前の書類と向き合い始めた。新山部長の視線が、さっきからこちらにチラチラと向かっていることに気付いたのだろう。
月曜日から始まった私の新人指導は、初めに心配していたよりもうまくいっている。取締役の知り合いのお嬢さんだと聞いた時、縁故採用なんて即戦力にはならないかも、と仲村さんは言っていたけれど、その予想を裏切ってかなりのスピードで私の教えることを吸収してくれた。パソコンの扱いに慣れていて、主要ソフトの使い方もよく知っているし、人当たりは良くコミュニケーション能力も高い。私よりもよっぽど総務の仕事に向いているんじゃないかとさえ思える働きぶりに、たった数日で私の中の渡利さんに対する評価は高いものになっていた。
「ただいまです~」
しばらくしてから、渡利さんが戻ってきた。その手には有名菓子店の紙袋が提げられている
「あれ、新山部長は……?」
「小会議室で取締役とお話し中ですよー。ところで、それは何?」
仲村さんが興味津々で渡利さんの手元を覗き込みながらそう聞くと、渡利さんは嬉しそうにそれを差し出して見せた。
「さっき広報部に一緒に模造紙を持って行ったら、部長さんが総務部のみなさんでどうぞーってくれたんですよ」
私と仲村さんは顔を見合わせた。広報部長が総務部に今までこんな差し入れをしてくれたことなんて、一度もなかったからだ。
「ちょっとちょっとー、渡利さん、広報部から無茶ぶりとかされなかった?」
仲村さんが眉をひそめ、声を落としつつ渡利さんに尋ねる。
「無茶ぶり、ですか?」
「ほら、訳の分からない書類を溜め込んでるから整理お願いします、とかさぁ」
「うーん、そういうのはなかったと思うんですけど……あ、でも」
何か思い出したらしい様子に、仲村さんだけでなく私も思わず緊張して渡利さんを見つめた。
「また顔見せに来てー、とは言われました!」
「セクハラだね!」
間髪入れずに仲村さんが反応する。その声は思ったよりも室内によく響いてしまったようで、領収書の仕分けに集中していた経理の二人がぎょっとしてこちらに振り返った。
「な、仲村さん! 滅多なこと言わない方が」
「だーいじょうぶよ、新山部長は席を外してるし。それに私、事実を言ったまでですから」
すまし顔でそう言われ、思わず額に手を当ててため息をつく。仲村さんは以前から広報部長を良く思っていなくて、いつか足元を掬ってやる、と常日頃言っていたから、まさにチャンス到来だといわんばかりに鼻息を荒くしていた。
「渡利さん、その時の状況詳しく聞かせてくれる? コンプライアンス違反の可能性があるから、記憶がある内にしっかり聞き取りしておきたいの」
「でも私、広報部に顔を出すくらいはぜんぜん嫌じゃないですけど……」
「そう言わずにさぁ! ほんの1ミリくらいなら、嫌悪感はあったでしょ?」
仲村さんにそう迫られた渡利さんは、少し困ったように、というよりむしろ引き気味の様子を見せてから、唇に人差し指を当てて考えるポーズを取った。
「そう言えば……、なんか小腹空きません?」
「そうそう、小腹が……え、小腹?」
渡利さんがふわりと笑ってうなずいた。
「もうすぐ三時の休憩だし、もらったお菓子みんなで食べましょうよ~」
その無邪気な言葉に、協力を得られないと察した仲村さんは、すっかり勢いを削がれてしまったようでがっくりとうなだれた。
何とかこの空気感が収まってよかったと安堵しつつ、渡利さんが何をもらってきたのかと、私は紙袋の中をそっと覗き込んだ。
「……ちょっと待って下さい。これって」
箔押し印刷の施された赤い化粧箱を見て、私は驚いて思わず声を上げた。
「たぶんすっごく高いプリンですよ。確か、一個千円くらいの」
「えっ、千円……!? それを人数分くれたってこと!?」
あの広報部長が!? と囁き声で続ける仲村さんに吹き出しそうになるのを堪えつつ、私は空いたままの新山部長の席の方を振り返った。
「渡利さん、これはいったん冷蔵庫にしまっておいて、このお菓子をもらったことをまず新山部長に報告してください」
「ええ~、食べちゃダメですかぁ?」
「ご厚意で下さったんだから返すことはしないと思うけど、一応置いておきましょう。ただの差し入れにしては高価すぎるし、手を付けるのは新山部長から話をしてもらってからの方が、何となく安心できるから」
渡利さんは不満げに唇を尖らせながらも、はーい、と返事をし、給湯室の方へ箱を抱えて向かって行った。
◇
三時休憩の時に食べた高級プリンは、値段という前情報もあったせいですごくおいしく感じた。渡利さんに対する男性陣の浮かれっぷりに眉をひそめていた仲村さんも、この時ばかりは広報部長の見栄っ張りで格好付けなところに感謝していたくらいだ。
おいしいスイーツで英気を養ったあとはしっかり仕事もはかどり、いい気分で一日を終えることができそうなこともあって、今日こそはさっさと帰って、母が隠したかもしれない情報を探し出そうと予定を立てていた。
「失礼します」
預かっていた整理済みの書類を抱え、販促課の部屋に入る。芹香の姿は見当たらず、そこにいたのは私を目の敵にしている面々ばかりで、入室した私に向けられる視線は案の定ものすごく冷たいものだった。
「悪いけどあたしたち忙しいから。総務さんで適当にやっといて」
書類の置き場所をどうするかという私の問いかけに、乱暴な語調でそう答えたのは、いつも先頭に立って私に嫌がらせをしてくる女性社員だ。
「適当に、ですか」
「言われないと分からない? 総務部ってほーんと尻も頭も軽い女ばっかりで嫌になっちゃうわ」
気怠そうに髪をかき上げてそう言われ、思わずむっとして彼女に強めの視線を送る。
「……あの、そういう言い方は」
「あたし、手伝います」
私が一言もの申してやろうと口を開きかけた時、そう言って一歩進み出てくれた人がいた。
「やだ、何言ってるの?
「でも、忙しい最中にいつまでも室内をウロウロされるのもあれですから」
私は戸惑いながら、その志保と呼ばれた彼女を見つめた。その人は、以前私が、総務をお手伝いさん扱いするな、と抗言した相手だったのだ。
「ま、それもそうか……。じゃ、
余計なのはあなたの一言です、と言いかけた口を何とか噤みながら、私は黙って丸岡さんの後について資料室へと入った。
言われた通りに書類を振り分けて、棚に置かれたボックスへと片付けていく。気まずい空気の中でその作業を繰り返している途中、丸岡さんに声を掛けられた私は、手を止めて振り返った。
「総務に入った新しい人ですけど」
「……渡利さんですか」
「
突然の忠告に、言葉を返せずただ首を小さく傾げる。丸岡さんはこちらを見ることなく静かに手を動かしていた。
「どの人が井出さんなのか、ちゃんと分かってないでしょ」
「えっ……いえ、そんなことは」
「じゃ、
「……」
「あなた、うちの課に関しては水留課長にしか興味ないもんね」
そう言われて、指先が冷たく固まっていくのを感じた私は、思わず書類を取り落としてしまった。
「私たちの態度が悪いのを全部あなたのせいにするつもりはないけど、そうやって人を選んで壁を作る癖は直した方がいいと思う。敵ばっかり増えていいことなんて何もないよ、
丸岡さんは微笑むこともなく私が落とした書類を手渡すと、後はお願いします、と言い残して資料室を出て行った。二人で分けてもあんなにたくさんあった書類は、丸岡さんの分はきれいに片付けられていて、残っているのは私に振り分けられた分だけだ。
私は丸岡さんに指摘されたことを何度も頭の中でリフレインさせながら、書類の片づけを続けた。
言われた通りだと思った。この会社の、特に他部署の人たちは私とは住む世界が違っているような気がして、嫌いなわけではないけれど何となく敬遠してしまっていた。仕事上の関係だし無理して仲良くなる必要もない、そんな風に考えていたけれど……。
「私、ホントにダメだな」
自分の思考の浅さや視野の狭さを目の当たりにした私は、本当に情けない気持ちでいっぱいになった。
全て自分が招いた、というわけではないことは分かっている。私が浅野くん絡みのことで販促課の取り巻きにあれだけ攻撃を受けることになったのは、彼女たちが嫉妬心を理不尽な形で私に向けたからに他ならない。でももし私と彼女たちがもっと良好な間柄だったら、状況はこんなにひどいものにならなかったかもしれないと考えると、もっとやれることはあったのではないかと思うのだ。
私は日々平穏を求めておきながら、その為に環境を整えるという努力をしてこなかった。きっと今は、そのツケが自分に返って来ている状態なんだろう。
さっきまで気分よく仕事が終われそうだと弾んでいた心は一気にしぼんでいき、私は深いため息をついて天を仰いだ。
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