(4)




 浅煎りのコーヒーと一緒に都倉さんが出してくれたのは、駅前のカフェで売られているアップルパイだった。以前私が清水くんのキャッチセールスに捕まった時に入ったお店のもので、あそこはガトーショコラだけでなく、季節ごとにフルーツを変えて作られるパイも評判なのだ。


「ところで……さっきの話の続きだが」


 都倉さんが神妙な顔つきでそう切り出す。その意味ありげな雰囲気に、フォークでパイのサクサク感を楽しんでいた私は手を止め、向かいに座る都倉さんを見つめた。


「本当に、あの男と付き合っているわけではないのか」

「……」


 さっきの話って、そっち?

 父のことについて話すのかと思って身構えていた私は、すっかり脱力して肩をがっくりと落とした。


「私は浅野くんとは付き合っていないし、そんな関係になりたいとも思っていません。浅野くんの方だって……」


 そこまで言いかけて、あっちは私を好きだと豪語していたことを思い出す。


「と、とにかく、浅野くんとは本当になんでもないですから」


 私はケーキプレートに目を移し、さっき切り取ったアップルパイの一片にフォークをしっかり差し込むと、それを口へと運んだ。香ばしいパイ生地に、酸味が強めのアップルプレザーブとカスタードクリームのフィリング、かすかなシナモンの香りが舌の上でハーモニーを奏でる。本当にシンプルな作りなのに、次の一口を誘うこの不思議な魅力は一体何なんだろう。

そんな風にスイーツ評論家気取りでアップルパイを楽しんでいると、黙って私を見つめていた都倉さんが小さく息を吐いて、なるほど、と呟いた。


「どうやらあちらは、君とそんな関係になりたいと思っているようだ」

「……!」

「それにあの日は確か、同僚と夕飯を食べに行ったんだったな。浅野くんとは偶然帰りが一緒になったと言っていたが、本当にそうなのか?」


 驚きと動揺から思わず咳込み、慌ててコーヒーを流し込む。


「だっ、だから、さっき電話でそう話したじゃ」

「……」

「ない、ですか……」


 私が隠し事が下手なのか、都倉さんの勘が鋭すぎるのか。どちらかは分からないけれど、とにかく私が秘密にしようとしたこと全ては見透かされているようだ。洗いざらいを話せ、と言外にプレッシャーを与えられた私は、小さく身を縮めながら、ぽつりぽつりと何もかもを打ち明けた。

 あの日一緒に夕飯を食べに行った同僚の中に浅野くんが含まれていたこと、浅野くんが清水くんの部屋に泊まったのは、私をマンションまで送ることになったからだということ……。話が進むにつれて都倉さんの表情が少しずつ険しくなっていったのは、私がさっき電話で言ったこととは違う事実があるせいなのだろうと思いながらも、これ以上の嘘は自分の首を絞めることになるのは明らかだったので一切を包み隠さず話した。


「君が浅野くんと付き合っていないことは、とりあえず信じるとして、だ」


 とりあえず、という前置きアリでしか信じてもらえなかったことに落胆しそうになったけれど、せめてまっすぐ向き合おうとする姿勢をとることで誠意だけでも見せようと顔を上げる。

 都倉さんは言葉を選んでいるのか、少し考える様子を見せてから意を決したように口を開いた。


「なぜ君は今日、私と会うのを避けようとしたんだ」

「え……」


 問い掛けに、心臓が一つ嫌な音を立てる。

 それは、決して思いがけない角度から投げ込まれた疑問ではなかった。避けている、と気付かせてしまうことがそもそも間違いなのに、私は自分の気持ちをなんとか踏みとどまらせることに必死になって、そんな私の態度が都倉さんに不信感を与えるかもしれないなんて考えようともしなかった。

 額にはうっすらと汗がにじみ、その代わりであるかのように唇の水分は失われていく。うつむいた視線の先では、膝に乗せた手が不自然なほど固く握りしめられていて、自分が今すごく緊張しているのが痛いくらいに分かった。


「てっきり君には恋人がいて、その相手に遠慮しているか会う人間を制限されているのだと思っていた。しかし、そうではないと言うのなら……」


 都倉さんは言い淀み、視線をわずかに下へ落とした。その表情はさっきよりも曇ったように見えて、自分の浅はかな行動が望まない方向に解釈されてしまっているのだと察した私は、慌てて首を横に振った。

 

「違うんです、都倉さんに会うのが嫌だとか思ったわけじゃないんです。私、ただ――……」

「……」

「ただ、その……」


 気持ちを抑えきれなくなるから会いたくなかった、なんて馬鹿正直に伝えるわけにはいかないと思った。

 だったらどう誤魔化せばいい? 下手な言い訳はすぐに見破られてしまうのは分かっているけれど、都倉さんが私に求める関係性はもっと健やかでプラトニックなものだから、私はそれに応えないといけなくて――。


「咲葵……?」


 声を掛けられ我に返った私の瞳が捉えたのは、都倉さんの怪訝な表情だった。首を小さく傾げて私をじっと見つめ、途切れた言葉のその先を待っている。

 何か答えなくちゃいけない、そんな焦りから渇き切った唇をどうにか動かそうとしたけれど、こんなに頭の中が真っ白な状態ではいい言葉なんて考えつくはずもない。


「……ごめんなさい」


 私は観念してがっくりとうなだれた。

 これ以上取り繕うのは、もう無理だと思った。

 たとえ今をうまく乗り切ったとしても、この先同じような状況になった時、私はまた嘘を重ねなければならない。その度に負い目を感じるだけじゃなく、都倉さんにも嫌な思いをさせることになる。それなら返事の有る無しは気にせずいっそ本当のことを打ち明けて、この感情に未来はないとはっきり断ち切ってもらおう。

 私は、大きく深呼吸をしていったん気持ちを鎮めると、これまで抱えてきた思いを小細工せずにそのまま都倉さんへぶつけることにした。


「私、都倉さんのことを父の友人ではなくて、その……一人の男の人として意識してしまっていて」


 小細工せずに、とは言っても、都倉さんに負担を掛けない気遣いだけはちゃんとしようと、できるだけ軽めの言葉を選び取っていく。

 本当は目を見て伝えるべきなんだろうけれど、都倉さんの反応を逐一確認しながらこんな話ができるほどの度胸は私には備わっていなかった。


「ずっと踏みとどまろうとはしてきたんです、都倉さんが求めてるのはそんな関係じゃないのは分かってたから。でも今日みたいに弱ってるときに会って優しくされたら、私きっと」

「ち、ちょっと待ってくれ」


 まさかこんな急な告白を受けるとは思っていなかったのだろう。都倉さんは焦ったようにそう言って私の言葉を遮った。


「すまない、君が私にそんな感情を抱いている可能性は考えていなかったから……何と言えばいいのか」

「い、いいんです! 何も言わずに聞いてもらえれば、それだけで充分ですから!」


 頭を上げて何とか笑顔を貼り付けながら、深刻さを感じさせないようにとなるべく明るい声で答える。

 それが逆に悲壮感を押し出してしまったのか、都倉さんは少し困ったように眉根を寄せた。そして表情を覆い隠すかのように口元にゆるく握った手を当て、俯き加減の体勢で固まったまま黙り込んでしまった。


「えっと、その……。これ以上嘘をつき通せるとは思えなかったから正直に言っただけで、気持ちに応えてほしいなんていうつもりは全くないんです。だから、あまり気負わないでほしいと言うか」


 このまま沈黙が続くのは、ちょっと辛い。そう思ってこんな展開に持ち込んだ心境なんかを語ってみたけれど、都倉さんの張りつめた様子が変わることはなく、沈んだ空気感は更に重みを増した気さえした。


「なんか……ホントすみません、急にこんな話。気持ちのケリは私が勝手につけておきますから、今まで通りに接してくれたら、それだけですごく有難いなあって」

「――今まで通り?」


 都倉さんが小さく、それでもはっきりとそう言って顔を上げた。何か気に障ることを言ってしまったかと体を強張らせたけれど、その表情に厳しさは感じられない。

 眼差しはどこか熱っぽく煽情的で、自分がひっそりと心の底で眠らせている何かを掬いあげられてしまいそうだと感じながらも、逸らすことができなくて、私はただ黙ってその瞳を見つめ返した。


「咲葵、私は」


 何か言いたげに、口を小さく動かしたその瞬間だった。

 都倉さんは急に表情を歪ませて胸元を抑えたかと思うと、そのままダイニングテーブルに載せた自分の腕に顔をうずめて突っ伏してしまったのだ。


「と、都倉さん!?」

「来るな!」


 立ち上がり慌てて駆け寄ろうとしたところを強い口調によって止められ、私はその場に立ちすくんだ。


「すまない……少し、離れていてくれないか」

「でも」

「頼む。いま目を合わせてしまうと、また前のように君を催眠状態にしてしまうかもしれないから」


 それを聞いて、以前ホテルで見た都倉さんの赤い瞳を思い出した。ヴァンパイアの特徴でもあるあのせきどうは、基本的に渇望期になると起こる現象だと聞いている。あの時は自分がヴァンパイアであるという話に信憑性を持たせるために都倉さんが自主的に起こしていたけれど、今はそんな必要はない。そうなると、この現象が起きた原因は一つしか考えられない。


「ま、まさか都倉さん……発作が」


 都倉さんはそれには何も答えず、テーブルに手を付き何とか立ち上がると、私に背を向けて覚束ない足取りでリビングの方へ向かった。


「すぐ暮野さんに連絡します……!」


 体を支えてあげたい気持ちをこらえ、一定の距離を保ってその動向を見守りながら、キッチンカウンターに置いていた自分のカバンを取り上げる。


「……いい、必要ない」

「何言ってるんですか、そんなに苦しそうにしているのに……!」

「大丈夫だ……血の供給なら、今朝受けてきた」


 都倉さんは浅い呼吸の合間を縫うようにそう言うと、リビングのソファに腰を下ろして大きく一息をつき、ジャケットの内ポケットから小さなプラスチックのケースを取り出した。


「渇望期直後は、疑似的な発作が起こることがあってね。だから、それを抑えるための薬を処方してもらっているんだ」

「そうなん、ですか……?」

「君にはまだ、言っていなかったか」


 コーヒーテーブルに置かれた水差しとグラスを引き寄せる都倉さんの手元を見つめながら、私は小さくうなずいた。


「心配はない、だが……疑似的とはいえ、症状は渇望期のそれと遜色ないものだ。私から呼びつけておいて悪いが、今日はもう帰った方がいい」


 渇望期のヴァンパイアは不安定で、理性が保てなくなることもあるという。だからもし今のように発作があった時は、何か間違いが起こる前にすぐその場から離れるよう言い聞かされていた。

 私がここにいたってできることは何もないし、むしろ症状を悪化させる原因にもなりかねない。こんな状態の都倉さんを一人にするのは心配だけれど、今は都倉さんの言う通りにしておくのがベストだろう。


「本当に、暮野さんを呼ばなくて大丈夫ですか」

「心配しなくていいと言っただろう。……症状が落ち着いたら、ちゃんと連絡するから」


 私はうなずき、都倉さんがケースから小さな錠剤を取り出す様子に目をやってから、リビングから廊下へと続くドアのノブに手を掛けた。


「咲葵」


 扉を開け、部屋を出ようとした足を止める。


「君の気持ちは嬉しい。だが……これまでの関係を変えるつもりは、私にはない」

「……はい」

「応えてやれなくて、すまない」

「大丈夫です、分かっていたことですから」 


 受け答えする声はちょっと震えてしまったけれど、情けない顔を見られなかったのは不幸中の幸いだったと思いながら、今度こそ部屋を後にする。

 こんなことでもなければきっと私は、いつまでもズルズルと中途半端な感情を引きずり続けたに違いない。だから、気持ちを伝えて良かった。はっきりと答えを出してもらって、良かったんだ。そう言い聞かせながら、玄関のドアを開けた。


「家に帰ったら、ちょっとだけ泣こう……」


 下りのエレベーターを待ちながら、私は小さく呟いた。






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