(3)




 都倉さんの別宅からの帰宅途中、通勤でも使っているいつもの駅に着いたところで、スマートフォンが着信を知らせて震え始めた。調査資料を見たことを報告したメッセージに対して、都倉さんから返信が届いたようだ。やっぱり都倉さんは私のことを心配してくれていた。内容はあれだけど、こうしてやり取りをするのは本当に久しぶりのような気がして、私は口元を少し緩ませながらどう返事を送ろうか考えた。


”大丈夫です。思い切って踏み込んでみたら、意外と平気でした。スッキリできた部分もあったので、見ておいて良かったです”


 いい感じに文章ができたことに満足して返信しようとしたところで、私はふと手を止めた。


「これじゃダメだな……都倉さん、またいろいろとほっぽり出して会いに来ちゃいそう」


 駅のベンチに腰掛け、作った文章を読み返す。

 意外と平気だったのも、スッキリしたところがあるのも事実なのだけれど、ちょっとダークサイドを削り落としすぎたせいで、敵を知った後の心境にしては軽すぎる気がした。都倉さんは私の言葉を深読みして気を回してしまうから、8:2くらいの割合で暗黒面を混ぜておいた方がいいかもしれない。


”けどやっぱり今日は気持ちが落ち込んでいるので、家に帰って一人ゆっくりしたいと思います”


 沈んではいるけど一人で持ち直すことはできる、という心の状態を的確にあらわした、完璧な仕上がりだ。これなら都倉さんを暴走させることもないだろう。

 なかなか賢い判断ができたと思いながら、今度こそちゃんと送信ボタンを押す。画面に私のメッセージが表示され、すぐに既読がついたのを確認してからスマートフォンをカバンにしまうと、ベンチに座ったまま思い切り伸びをした。

 今夜は夕飯を作る気にはなれないから、駅前のチェーン店でパスタを食べて帰ろうか。それともコンビニで買って帰る? 微妙な時間帯だけど、食べずに早めに寝るという選択肢もある。

 どっちにしても、帰ったら湯船にお湯を張ってゆっくり体を温めよう。こないだ買った、ちょっとお高めのバスボムを入れるのもいいかもしれない。

 そんなことを考えていると、スマートフォンが再び振動を始めた。画面には”都倉さん”という文字が並んでいる。少し迷ったけれど、出なかったらまた余計な心配をかけるのは明らかなので、ここは素直に通話ボタンを押した。


「もしもし」

『良かった、電話に出ないかと思ったよ』

「え、どうして――、あー……」


 開口一番のそのセリフに、咄嗟にメッセージを既読スルーした上に着信にも応えないという失態を犯したことを思い出した私は、改めて謝罪の言葉を口にした。


『この間のことを言ったわけではないんだ。今はそういう心境になれない状態かもしれないと思っていたから、もしそうなら君のマンションに直接様子を見に行こうかと』

「なんだ。そういうことでしたら、大丈夫ですよ。少しはしょんぼりしましたけど、一晩ゆっくり寝れば気持ちも落ち着くと思うので」


 やっぱり電話に出て良かったと密かに胸をなで下ろしながら、なるべく明るい雰囲気を演出しようと、少し声を高くしてそう答えた。


『そうか。では、今から会おう』

「……えっ?」


 なぜそういう結論になってしまうのか理解できず、私は一拍置いてから聞き返した。


「あの、ですから私、そこまで気落ちしてるわけじゃないんです。詳しい状況もつかめたし、ラインでも言いましたけど、どちらかと言うとスッキリしたっていう気持ちの方が大きかったりして」

『それは分かっている。だから、私と会うのも問題はないということだろう?』

「……」


 しまった、と思った。都倉さんが会おうと言ったのは、本当に言葉通り、ただ単に”今から会う”という約束を取り付けようとしていただけなのだ。都倉さんが会いに来るとすれば、私が不安にさせたときだけだと勝手に思い込んでいたけれど、そんなわけがないということは、よく考えれば気付けたはずだったのに。


『今、どこにいるんだ』

「えっ」


 黙り込んだところでため息交じりにそう聞かれ、思わず辺りを見回す。

 正直に別宅の最寄り駅にいると言った方がいいのか、それとも……いや、迷っている暇はない。これ以上言い淀んでしまうと、都倉さんのペースを崩せなくなってしまう。


「もうすぐ家です! 今帰っている途中なんですよ」


 一人で家でゆっくりしたいというメッセージを送ったから、こう言っておけば都倉さんもそっとしておいてくれるかもしれない、そう考えて答えた瞬間だった。

 電車が到着するというアナウンスが、次の停車駅名と共に構内に響き渡ったのだ。その音声は当然、電話越しに都倉さんの耳に入ってしまったわけで。


『……なぜ嘘をついた?』

「う、嘘じゃないですもん! 帰っている途中っていうのは本当だし、ここから家に着くまではそんなに時間はかからないし」

『馬鹿だな、君は。焦っているのが丸わかりだ』

「ば、馬鹿って……」


 はっきりと悪口を言われて、思わずむっとして口をつぐむ。


『とりあえず、別宅に戻って待っていなさい。今からそちらに向かうから』

「またお店を抜け出すんですか? それなら私、暮野さんに告げ口しますからね」

『好きにするといい。今日は鈴音すずねに許可を得ているし、既に出先だから無駄だと思うが』


 オーナーからの許可アリとか、そんな強すぎる切り札を出されたらどうしようもない。都倉さんを止める唯一とも言える手段を失った私は、押し黙るしかなかった。


『何を頑なになっているんだ。自分以外の男に会うなとあいつに言われているのか?』

「へっ?」


 急に思いもよらない追及を受けた私の頭は一瞬真っ白になり、口から気の抜けた感嘆詞がこぼれ落ちた。


「あの、あいつって」

『とぼけなくていい。以前、君が会社の同僚らしき男と一緒にマンションに入っていくのを見かけたんだ』

「同僚……? あっ、まさかあの時……!」


 記憶を掘り起こすまでもない。都倉さんは、私が浅野くんに送ってもらった時のことを言っているのだ。あれを見られていたということは、あの日都倉さんは私のマンションまで来ていたのだろう。

 電話もくれていたのに、なぜ来たことを教えてくれなかったのか、と考えて、都倉さんが私と浅野くんの関係を勘違いしていることに気付き、一気に頬の温度が上がったのを感じた。


「ちっ、違うんです! 浅野くんは……」

『浅野というのか。覚えておこう』

「いやもうほんとに違うんですってば! 私の隣に住んでるのが浅野くんの親戚で!……そう言えばほら、都倉さんも知っている人ですよ。オーベルジュの試泊モニターの勧誘をしていた、清水くんっていう」

『モニター募集の件は紫藤に任せていたから、私は……いや、その話はいい』


 どさくさに紛れて話を違う方向に持って行けないかと思ったけれど、都倉さんが誤魔化されてくれるはずもない。私は頭を抱えながら、なんとか波風の立たない返答を求めて考えを巡らせた。


「だから、その……浅野くん、次の日早い時間から仕事なのに帰りが遅くなってしまったから、自宅より会社に近いその清水くんの家に泊めてもらうことになってたらしくて、帰り道が偶然一緒になっただけなんです」


 この言い方だと、浅野くんは元々清水くんに泊めてもらう予定だったことになってしまう。でも、その日実は一緒に居酒屋に行っていて、なんてところから説明するとさらに拗れてしまいそうだったし、とにかく私の部屋に連れ込んだのではないことを分かってもらえばいいので、その辺の細かい部分は伏せておくことにした。


『まあいい。ところで咲葵、夕食はもう済ませたのか』

「いえ……、まだですけど」

『ちょうど良かった。実は今日、仕入れ先との商談の為に出ていて試食用にと鶏肉をもらったんだ。味を見て感想を聞かせてもらえると助かるんだが』


 そう言われた瞬間、お腹が盛大な音を立てて空腹を知らせる。こんな時でも間違えることなくしっかり反応をしてしまう自分が情けなく、私は項垂れてため息をついた。


「食べ物で釣るなんて、ずるくないですか……」

『釣られる君が悪い。10分もすれば着くから、詳しい話はその時に聞かせてもらうとしよう』

「えっ、詳しい話って……ちょっと待っ」


 これ以上詳しく話すことなんてない、という私の主張を聞かずに、都倉さんは電話を切ってしまった。


「やだもう……。何でこんなことに」

 

 スマートフォンの画面に目を落としながら呟く。

 自分が原因でお店に迷惑を掛けたくないとか、私なんかの為に無駄な時間を使ってほしくないとか、そんなのは建前だ。こんな弱った心を抱えた時に都倉さんに会いたくない理由なんて、一つしかない。

 それでもこの状況をひっくり返せるような天啓が都合よく降りてくるはずもなく、私は抗うことを諦めて、さっき降りてきたばかりの駅の階段へと重い足取りで向かった。







「どうだ?」

「うぅ……おいしいです」


 塩と胡椒で味付けしただけのバターソテーと、玉ねぎと一緒にブイヨンで軽く煮込んだスープ。それに添えられた簡単なサラダも含め全ての料理に舌鼓を打ちながらも、自分の立ち回りを何手も先読みされた悔しさが頭から離れず、私は複雑な表情でそう答えた。


「……おいしいと感じているようには見えないのだが」

「さっきも言ったけど、食べ物で釣るなんて卑怯です。でもこの鶏肉はおいしいです」

「君の心の内はややこしいことになっているようだな」


 都倉さんは呆れたように笑っている。私は眉間にしわを寄せた険しい顔つきのまま、料理を食べ進めた。


「どちらの調理法がおいしく感じる?」


 どっちもずっと食べていられるくらいおいしいけれど、都倉さんが求めているのはたぶんそういう答えじゃない。私はお皿を見比べてから、ソテーの方にフォークを伸ばした。


「こっち、ですかね。好みの問題かもしれないんですけど……こう、弾力のある食感がすごくクセになりそうな感じで」


 パリッと焼かれた皮の香ばしさと、程よくはじき返す肉の歯ごたえ。あふれる肉汁はバターの濃い風味と絡んでも、全くしつこさを感じない。

 スープはスープでしっかり鶏のうま味も感じるし、ほどけるように柔らかい肉の食感もいいと思うけれど、なんだか物足りないというか、ちょっと優しすぎる気がする。

 私が感じたことを素直に伝えると、都倉さんも二つの料理を食べ比べながら、納得したように小さく何度もうなずいた。


「確かに、鶏自体の肉質から考えても、煮込むより焼きの方が歯ざわりも楽しめていいかもしれないな……。ありがとう、参考になったよ。おかげでいい食材の使い方を思いついた」

「お役に立てたのなら、良かったです」


 顔を上げて微笑んでくれた都倉さんに、私も微笑みで返す。まあ、私はただおいしく食べて、ただ感想を言っただけなんだけれど。それでも私の言葉が都倉さんに少しでも影響を与えることができたのが、何だかちょっと嬉しかった。

 お皿に残ったものを全て平らげてからテーブルの上を片付ける。私が食器を洗う隣で、都倉さんは食後のコーヒーを淹れる準備をしていた。


「仁哉の件、どう思った?」


 ふとそう聞かれた私は、作業する手元を見下ろしながら、さっき見た資料の内容を思い出していた。


「……母は、犯人の目星をつけていたように感じました」

「剣崎……いや、結城次官のことだな。留美が亡くなってから奴がとんとん拍子で出世できたのは、組織の人事に口出しできる人間の手先として動いた見返りだと考えれば、仁哉に手を掛けた張本人だと見てもおかしくはないだろう」


 そう言った後、ミルにコーヒー豆を入れてから、都倉さんはふと視線を遠くへと向けた。


「しかしそれは留美の死後に加わった要素だ。あの僅かな証言だけで、なぜ留美がああもはっきりと結城に目を付けたのかがよく分からない。他にも疑わしい人物はいたはずなのに」


 それは、私にも分からなかった。都倉さんの言う通り、あの資料を見る限りでは怪しい人間は何人かいたし、私が結城を犯人だと断定した根拠というのも、母の葬儀で見かけた時の様子から、という主観的であまりに小さく弱いものだ。

 母も私と同じように、結城に対して何か漠然としたものを感じた可能性もあるけれど、料理以外ではどちらかというと論理的なタイプである母が、そんな根拠とも言えない根拠を基に調査を進めるとは思えない。


「母は他にもまだ、情報を握っていたんでしょうか」

「一か所に情報を固めておくよりも、いくつかに分けておいた方が安全だからな。遺志を託した相手が私だけではない可能性も考えたが……留美がそこまで信頼を置きそうな人物は本当にわずかで、有力視している元エージェントは行方が分からなくなっているんだ」


 都倉さんは、その行方不明の人が何かを知っていると睨んで探しているのだと言った。でも”元”がつくとは言え、エージェントに関する情報を組織外部から集めるのは本当に難しくて、その人物の消息が分かる手がかりすら掴めていない状態らしい。


「……誰にも託していないかもしれない」


 顔を上げ、何気なく思いついたことをポツリとこぼす。都倉さんは、目を見開いて私を見つめた。


「それは、つまり……」

「まだ家にあるのかもしれません」


 都倉さんはしばらく考え込むようにしていたけれど、やがて頭を振って、それはない、と呟いた。


「君は当時、CROが公に関われない立場だった。奴らに見られたくないものを隠すにはうってつけの人間だったのは確かだ。しかしたとえそうだとしても、留美が君の元にそんな危険な情報を置いていくとは思えないのだが」

「わざと置いておいたのではなく、持ち出せる状態になかった、ということは考えられないですか?」


 母は亡くなる一か月前から、風邪をきっかけに肺炎を起こしたりしていて、一度ふらりといなくなった時――たぶん、都倉さんに会いに行った時を除いて一切外出しなかった。体調を崩す以前に誰かに渡していたかもしれないし、直接会わずにやり取りをしたかもしれない。でも私が信じている通りの母なら、もしかしたら……。


「とにかく私、一度探してみます。遺品は手つかずの状態で保管しているから、何か見つかるかもしれません」

「……分かった。それに関しては君に任せよう。ただし」


 都倉さんは厳しい表情をして、語調を強めた。


「見つけたら必ず私に連絡するんだ。間違っても一人で確認するなよ」

「はい、分かりました」


 素直に返事をしたのに、都倉さんはまだ疑うような視線を私に向けている。きっと今日、私が事前の相談もせず資料を単独で見たから、勝手な行動をするんじゃないかと心配しているんだろう。

 また一つ、都倉さんの中に私に対する不信感を積みあげてしまった気がして、私は小さくため息をついた。






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