あなたまでの距離

(1)




 都倉さんと会う約束がお流れになってから一週間。また後日予定を組もう、と言っていた都倉さんからの連絡はあの日以降来ておらず、朝晩のあいさつと共に送ってくれていた何気ないメッセージもぱたりと止んでしまっている。

 今までと違って、きっと都倉さんは私に構っていられないほど多忙を極めているんだろう。そんな風に理解を示しながらも、お得意のマイナス思考が織りなす別の不安の方が心の大部分を支配していて、ここのところよく眠れなくなっていた。


「帆高さん、水留課長が」


 隣の席の仲村さんに肩をつつかれ、部屋の入口を振り返る。そこには芹香が立っていて、私に向かって小さく手招きをしていた。


「ごめん、咲葵。今日の夕飯の約束、延期にしてくれない?」


 廊下に出た私に、芹香は声のトーンを落としながらそう言って目の前で手を合わせた。


「どうしたの、何かトラブル?」

「来月あたまに予定してたイベントなんだけど、内容をかなり変更しないといけなくなっちゃって……また今日から残業続きになりそうなんだよね」


 腕を組んで深くため息をつきながら嘆く芹香。私もそれにつられて吐息をこぼしそうになったけれど、ぐっとこらえた。ドタキャン続きで落ち込むのは仕方ないとして、それを申し出た本人の前でしょんぼりしてしまったら、何も悪くないはずの芹香に気を遣わせてしまう。

 私は芹香をねぎらうべく、肩をポンと叩いて微笑んだ。


「まあ、仕方ないよ。無事終わったら、パッと打ち上げしよう」

「うん……ホント、急にごめんね」

「いいのいいの。それより、わざわざこっちまで来なくてもLINEか何かで連絡くれれば良かったのに」


 私がそう言うと、芹香は少し考えるように首を傾げた。


「ちゃんと顔見て伝えようと思って。咲葵、近頃なんだか元気がなくて、ちょっと心配だったから」

「え……」


 ぎくりとして口元を引き結び、視線を落とす。

 同じ室内で一緒に仕事をしている総務部のメンバーからは特に何か言われたことはないから、ニュートラルな気持ちを保っていつも通りに振舞えているつもりでいたけれど、どうも芹香の目にはそんな風には映っていなかったようだ。


「私、そんなに落ち込んでるように見える?」


 恐るおそる尋ねてみると、芹香は間髪入れずに大きくうなずいた。


「お肌の調子も良くないみたいだし、目の下のクマが寝不足を物語ってるから。明らかにいつもとは様子が違うよ」

「う、うそ」


 そんなところで私の心のコンディションを見抜かれるなんて……。遠慮のない芹香に指摘に、私は思わず手で頬を覆い隠した。


「いつも言ってるけど、どうしてもダメなら一人で抱えずにちゃんと相談してよね。どんだけ忙しいったって、LINEでやり取りする時間なら作れるんだしさ」

「……うん」

「とりあえず、今日はさっさと帰ってゆっくり寝なさい。寝不足はマイナス思考に拍車掛けるから、絶対に禁物だよ」


 芹香はそう言うと、まるで小さな子供相手にするかのように私の頭を撫でてから、フロアを後にした。


「水留課長、なんだった? また新しい案件?」

「あー……いえ」


 席に戻るや否や仲村さんから必死の形相で尋ねられ、首を横に振る。


「今日ちょっと約束してたんですけど、無理になったって」

「なんだ、良かったぁ。今ややこしい書類と戦ってるから、せめて今日だけはお仕事が増えませんようにってお祈りしたとこだったんだよね」


 新しく人を入れることを条件に、契約関係の仕事は全て総務部で引き受けることになってから、仲村さんはずっとこんな調子だ。今のところ総務部内でリーガルチェックができるのは新山部長と仲村さんだけなこともあって、二人の机にはチェック待ち、整理待ちの契約書類が積まれている。私は簡単な補助しかできないから、仲村さんが今までやっていた仕事を代わりに引き受けているのだけれど、これがまたいろいろと複雑で、改めて仲村さんのスキルの高さを思い知らされていた。


「私も、もう少しお手伝いできたらいいんですけど……」


 積まれた書類に目をやりながらそう言うと、仲村さんは爽やかな笑顔を私に向けた。


「いいのいいの。私、前の会社ではこういう仕事してたし、何より基本給上げてもらえたんだからこれくらい余裕よ」

「……でも仲村さん、いつも言ってますよね。今日は仕事増えませんようにって」

「仕事は少なく、給料は多く! それが私の追い求める理想ですから~」


 仲村さんは鼻歌を歌いながら契約書のページをめくり、作業を再開した。私もパソコンに向かい、途中だったデータ入力の続きを始める。そうしながらも思い返していたのは、さっきの芹香の言葉だった。

 忙しくても、やり取りをする時間は作れる。確かにそうだと思った。例えば寝る前、おやすみ、という一言を送るだけならそこまで時間はかからない。

 都倉さんはそんな暇すらないほど忙しいんだろうと、これまで自分に言い聞かせてきた。自分に向けた建前の裏側で、もしかしたら故意に私と距離を置こうとしているのかもしれない、という不安がけっこうな勢いで渦巻いている気配を感じながらも、絶対にそこは直視しないようにしていた。でも、これ以上見ないふりをするのはもう無理だ。

 以前、都倉さんからのメッセージを、既読を付けた状態にも関わらず返信を忘れてしまったのがいけなかったのだろうか。あの日都倉さんから連絡をくれた時に何度も謝ったけれど、それじゃ足りなかったのかもしれない。それとももっと何か別の、実は密かにずっと我慢していた私の態度や言動があって、それが積もり積もって許容量を超えて爆発しちゃったとか……。


(ああもう……なんかやだなあ、この感じ)


 私は椅子の背もたれに体重を預けて天を仰ぎ、思い切り伸びをした。ついでにあくびをしている振りで口元に手を当て、目の端に滲みそうになったものを誤魔化す。

 これまであったものがなくなると、それが楽しかったり嬉しかったり心にプラスの影響を与えてくれていたものであればあるほど、ものすごい喪失感に襲われるのは当然のことだ。そして、できればもう一度あの時の充実した日々を取り戻したいと願うのもごく自然なことだろう。

 相手からのアクションもなく、意図もつかめない。それでも状況を変えたいと望むなら自分が動くしかない。だけど、例えば自分から何かメッセージを送ったとして、それに返事がなかったり、冷たくあしらわれたりしたら、しばらく立ち直れない自信がある。このトンネルから抜けられないのは他でもない、いつまでもぐずぐずと立ち止まっている自分のせいなのだけれど、嫌な結果ばかりが頭をよぎるし、何の脈絡もなくいきなり『何か怒ってますか?』なんて聞く勇気もないしで、どうしても一歩踏み出せないのだ。

 このままじゃいけないことは分かっている。仕事をしていない時は都倉さんのことばかり考えているし、ここ数日に至っては仕事中にまでその思考回路が顔を出し始めているから、このまま放置すれば来週あたりには、私の頭の中は都倉さん一色になって他に何もできなくなってしまうかもしれない。それだけは絶対に避けたいけれど、どう気持ちを切り替えればいいのか……


「帆高さん。広報部から社内報の最終案が来ているから、校正お願いね」


 データ入力の作業がすっかり止まっていたところで新山部長にそう言われ、私ははっと我に返り、慌てて返事をした。


「共有フォルダにデータを入れておいたから、必ずプリントアウトしてからチェックしてちょうだい。そんなにページ数もないし、来週半ばにはいつもの印刷会社に送っておいてほしいんだけど」

「はい、大丈夫です」

「ああ、来週と言えば……週明けに新しい人が総務に入ってくるから、その指導も帆高さんにお願いしようと思っているの」


 その言葉にものすごい反応速度で振り返ったのは、他でもない仲村さんだった。


「……残念ながら、私と仲村さんの仕事量はしばらくこれまで通りよ。帆高さんにこちらの補助に回ってもらうのは、今抱えている仕事を新人さんに完全に任せられるようになってからね」

「帆高さん、超特急でその人仕上げてよ。私、帆高さんのためにいろいろ準備して待ってる」

「……」


 どうやら、都倉さんのことで頭がいっぱいになって仕事が手につかない、なんて状態は強制的に回避できそうだ。私は、新山部長と仲村さんを交互に見比べながら苦笑いを浮かべ、小さくうなずいた。







 終業時間を少し回ったころ会社を出た私は、駅とは逆方向へ向かって歩いていた。芹香との約束はなくなったので、今日は都倉さんから管理を頼まれたあのマンションに行き、父の死に関して母や都倉さんが集めた情報を確認することにしたのだ。都倉さんと一緒に料理をして以来、二度ほど一人で訪れてはいたのだけれど、やっぱりその度に尻込みして見られずじまいだった。

 実は今も、一人で見るのは怖いと感じている。でも都倉さんとはなかなか会えないし、ついに連絡まで途絶えてしまった状態だ。このままだと二階の書斎に入ることがないまま一生を終えてしまうんじゃないかと思えて、そうならないためにも、自分の両親のことと向き合うくらいは手を引いてもらわずに自力でしようと決意した。

 都倉さんはすでに私に道を示し、お膳立てまでしてくれている。これ以上甘えて都倉さんの負担にならないよう、困難も一人で乗り越えるべく心を鍛えなければいけないのだ。


「うぅ、何かちょっと寒いなぁ」


 思わず身震いし、自分の体を抱きしめるようにして二の腕をさすりながら小さく呟いた。今朝からずっといい天気で日中も快適に過ごせていたのに、日が落ちると薄手のブラウスとカーディガンでは心もとなく、一枚羽織る物が欲しくなる。忙しくしている合間にもこうして季節は確実に進んでいるんだなあ、なんてポエミーなことを考えつつ、念のため持ってきていたストールをカバンから取り出した。

 会社からマンションまでは、五分とかからない。本当に目と鼻の先、といった距離にあるので、私は見知った顔がないかを確かめるために辺りを見渡してから、マンションの入口部分にあるオートロック操作盤にICカードをかざした。開いた自動ドアから中へ入り、ロビーを通り抜けてエレベーターの呼び出しボタンを押す。許可をもらっている、むしろ管理を頼まれている立場にあるとは言え、人様の部屋に勝手に入ろうとするのは回数を重ねても何だか落ち着かないし、ハイソサイエティかつブルジョワな雰囲気あふれるこの場所にいることにもなかなか慣れることができない。どうかここの住民と鉢合わせして気まずい空気に苛まれませんように、と心の中で密かに祈りながら、到着したエレベーターに乗り込んだ。






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