(13)




 あれから三十分ほどして、私たちはまだ賑わう店を後にした。そこまで深い時間帯でもなく終電までは余裕があったので、二件目に行きたいと浅野くんはごねていたけれど、明日も出社予定だということを理由に今日はこれでお開きとなった。


「拓己、咲葵をマンションまで送っていってあげなよ」

「えっ!?」


 電車内、次の駅で降りるという時になって、芹香が突然そんな提案をした。


「それなりに遅い時間だし、咲葵、今日は自転車パンクして駅から歩きなんでしょ?」

「いやでも、浅野くん明日も出勤だって」

「俺は大丈夫ですよ。ミナトん家に転がり込みますから」


 浅野くんはそう言うと、スマートフォンを取り出して操作を始めた。どうやらメッセージを送っているようだ。

 でも転がり込むったって、清水くんにもいろいろとあるはず。そんな急に言って泊まらせてもらえるとは――


「オッケーだそうです」

「え、返信早くない?」

「それだけヒマしてるってことですよ、きっと」


 それを聞いた芹香は、これで断る理由はないだろう、と言わんばかりにさわやかな、かつその奥に黒い何かを感じさせる笑みを浮かべて私を見つめた。芹香の思惑通りに事が運ぶのはなんだか癪だけれど、用心に越したことはない。私はそう気持ちを切り替えて、浅野くんに送ってもらうことにした。

 芹香の乗った電車を見送った後、二人で駅を出る。帰る道すがら、私と浅野くんはとりとめのない会話を交わしていた。自分から発信するのが苦手な私に、浅野くんはポンポンと話題を提供してくれて、さっきあんなにたくさん話したのに会話を尽きさせないのはすごいと思った。


「そういや、ミナトはどうです? 何か迷惑掛けたりとかしてないですか」

「……」


 浅野くんに尋ねられ、つい言葉に詰まる。この間、清水くんが間違えて私の部屋のドアを開けようとしていたことを思い出したのだ。


「あー……すみません。あれだったら、俺からきつく言っときますんで」


 返事が遅れたことを”何かあった”と受け取ったらしい浅野くんは、恐縮しながら頭を下げた。

 何か実害を被ったわけではないし、そもそも私が直接その現場を見ていないこともあって、話を聞いた時も不快感はなかった。ただでさえ浅野くんは清水くんを気にかけているようだし、無駄に心配をさせることもないだろう。

 そう考えた私は、あのことは浅野くんには伏せておくことにした。


「特にそういうのはないよ。ただ……昼間に酔っ払っていたのを、マンションの人が見たって言ってたのを思い出して」

「酔っ払うって、ミナトが?」


 私がうなずくと、浅野くんは少し考えてから、それはないと言わんばかりに首を横に振った。


「いや有り得ないっすよ。あいつめちゃくちゃ酒に強くて、しょっちゅう一緒に飲みに行く俺ですら酔ってるとこ見たことないんですから」

「えっ、そうなの?」

「一晩飲み明かしてもケロッとしてるし、ビールと炭酸飲料の違いがよく分からんとか言うような奴ですよ。それが日中ちょっと飲んだくらいで酔うなんて……」


 あの日、玄関から顔を出した清水くんの様子を頭に浮かべる。確かに受け答えははっきりとできていたし、奥さんの話を聞いていない状態で、かつ、お酒の匂いがしていなければ酔っ払っていたようには思わなかったかもしれない。

 体調悪いのに無理に飲んだのかも、なんて浅野くんは笑っていたけれど、私の思考回路は何となく良くない方へと向かっていた。

 私の部屋のドアを開けようとしたのは間違いなんかではなく、何かしらの意図があったのだとしたら。平日昼間の私が出勤している時間帯を狙って、何かをしようとしていたのだとしたら……。


(いや……さすがにそれは考えすぎ、だよねぇ)


 とつぜん浮き上がってきた不穏な可能性を打ち消すように首を振り、自嘲する。いくら何でもこの考えは、昨夜見たスパイ映画のDVDの余韻に浸りすぎているんじゃないかってくらいにバカげている。

 あの時だって思ったことだけれど、芹香や浅野くんの関係者にそんなことをする人間がいるとは信じられないし、そもそも清水くんが私の部屋を開けようとする意図なんて、何も思いつかない。例えば、本当に例えばの話、泥棒に入るにしたってこんな独り暮らしのOLなんかじゃなく、もっとお金とか貴金属を置いていそうな世帯を狙うはずで――


「帆高さん、危ない!」


 浅野くんに腕を掴まれ、引き戻された私の目に入ったのは、何台かの車が走っていく様子だった。どうやら私は、清水くんの行動に考えを没頭させすぎて、横断歩道の歩行者信号が赤く光っていることに気付いていなかったらしい。


「何してるんですか! ちゃんと前見て歩かなきゃ」

「ご、ごめんなさい」

「全く、俺がついてたから良かったものの……」


 浅野くんはちょっと怖い顔をしてそう言うと、掴んでいた腕を離した。


「そうだ。考え事しながら歩きたいなら、手繋ぎましょうか」

「結構です」


 受け入れるはずがない提案を一蹴する。浅野くんは憮然として、即答しなくても、と呟いていたけれど、それほど気にした様子はなかった。


「まあ今日は一緒に夕飯行けたし、こうして並んで歩いて話もしてくれてるし、これ以上先のスキンシップはもうちょっと仲良くなってからですね」

「いや、もうこの先はないと思うよ……」

「よーし、俺がんばる!」


 私の言葉を聞こえないふりで流した浅野くんは、夜空に浮かぶ月に向かってガッツポーズをしていて、私はそれをバカだなあと思って苦笑しながら眺めた。

 信号が青に変わり、横断歩道を渡る。そのすぐ先にあるコンビニに寄って、私は明日の朝食用の食パンを、浅野くんはそこで最低限揃えられるお泊りセットと、清水くんへの”宿泊代”をいろいろと買い込むと、その後はまっすぐマンションへ向かった。


「何か、暗いですね。前からこんなでしたっけ?」


 いつもの児童公園に差し掛かった時、少し不安そうに辺りを見回しながら浅野くんがそう言った。ゆうべ防犯灯が切れたらしく、週明けに電球の交換をするというお知らせがマンションの掲示板に貼り出されていたことを伝えると、浅野くんは腕を組み、わざとらしく渋い顔をした。


「それなら尚更、俺がここまで送って来て良かったですよね。こんなに暗いと不審者が隠れてても気付かないし、そうでなくたって夜の公園はいろいろ危ないですから」

「あー……うん、まあ、そうだね」

「一人が不安なら、いつでも言って下さいよ。俺、喜んで帰り道お供しますんで!」


 嬉々とした様子の浅野くんに、何度追い払っても嬉しそうにしながらついてくる子犬みたいだ、と思い、言葉ではなく呆れた視線を返した。







 月が、ゆっくりと雲に飲まれていく。防犯灯の明かりがないせいで、いつもより深く濃い闇色に染まる景色の中、ぽつりとスマートフォンの画面が光った。

 慣れた手つきでスワイプし、アドレスをめくっていく。その指の動きは、咲葵の名前の上でぴたりと止まった。


『もしもし! ごめんなさい、私、すっかり返信するのを忘れてて……!』


 何度かのコール音が続いた後、挨拶もなしに受話口から響いたのは、咲葵の謝罪の言葉だった。そのタイミングで、マンションの五階、端から二番目の咲葵の部屋の明かりが灯る。


「いや、いいんだ。こちらこそ、何度も繰り返し掛けてしまってすまなかった」


 そう柔らかい声音で答えたのは、玲だ。

 防犯灯の柱に体重を預けながら、穏やかな口調とは裏腹に、睨むように鋭い眼光で咲葵の部屋を見上げていた。

 玲が咲葵の住むマンションまで赴いたのは他でもない、約束の延期を申し出たメッセージに対して彼女から何の返事もなく、更に玲からの電話にも応答がなかったからだ。突然ふらりと訪れた、それでも咲葵との先約を反故にしてまでも対応しなければならなかったとある客との話を済ませ、玲は不安な気持ちを抱えつつ車を急ぎ走らせてここまで来た。


「君の身に何かあったらいけないと思って、念のために電話したんだ。今はどこに?」


 分かっているくせに。馬鹿げた質問に、玲はそう自分で指摘しつつも、咲葵が並べる言葉の向こう側からかすかに聞こえる生活音へと神経を尖らせ、彼女の傍に人の気配がないかを探る。

 玲がここに到着した直後、目にしたのは、咲葵が見知らぬ男と和やかな雰囲気でマンションに入っていく姿だった。会社の同僚か何かだとは思ったが、この時間帯に部屋に連れ込むということは、恐らくそういった関係なのだろうと玲は解釈していた。


「では、特に変わったことはないんだな」

『はい。本当に、心配かけてすみませんでした』

「そのことはいいと言っているだろう。とにかく、何事もなくてよかった」


 穏やかにそう言うと、今日の予定を急にキャンセルしたこと、次の日程は今のところまだ決められる状態でないことを謝罪し、電話を切る。

 スマートフォンをジャケットの内ポケットにしまいながら、しばらく咲葵の部屋を見上げていた玲だが、やがて視線を自分の足元に落とし、乱暴に髪を撫でつけた。

 今日は同僚たちと夕食を食べに行ったせいで、帰るのが遅くなったのだと咲葵は話していた。しかしあの男のことに関しての説明は一切なく、それが余計に苛立ちを煽った。

 玲自身、分かってはいるのだ。自分が咲葵のそういった領域に踏み込んで問いただす立場にはないことを。父親でもなければ恋人でもない、中途半端な関係。この微妙な距離感で接していれば、いつかこうして彼女が誰かと寄り添う姿を見る日がくることは、想像に難くないはずだった。それなのに、現実を目の当たりにした玲の心に湧き上がったのは、彼女が充実した幸せを掴んだことを喜ぶ気持ちではなく、彼女を奪われてしまったという焦燥感、そして嫉妬心だった。

 咲葵の部屋を一瞥し、公園脇に停めていた車に向かう。乗り込むや否や、玲は大きく息を吐き出した。エンジンはかけず、背中を運転席のシートに深く預けて腕を組み、ぼんやりとくうを見つめながら、マンションに入っていった二人の後ろ姿を思い出していた。


「……」


 着信音が鳴り響く。玲はもう一度、大きなため息をついてスマートフォンを取り出した。


「……何だ」


 それは紫藤からの着信だった。応答した玲の声は、付き合いの長い紫藤でなくとも一聞しただけで機嫌の悪さが分かるほど、低くくぐもっていた。


しのぶさんが、明晩発つので今日はここに泊めてほしいと言っておられるのですが、いかが致しましょうか』

「客室は空いていないんだろう? なら、私の部屋を使わせるといい。きちんとそれなりの措置は取ってやってくれ」

『分かりました。……今日はお戻りにならないのですか』

「奴と一緒に寝る気はない。朝いちでそちらに向かうから、私がいない間はお前に任せる」


 通話を切り、助手席にスマートフォンを無造作に放り投げる。ため息だけでは精算しきれない、やり場のない思いをどうにかするべく、玲はエンジンのスターターボタンを押した。






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