(12)





(あー……そっか)


 終業時刻を少し過ぎてから総務部の部屋を出た私は、エレベーターに乗り込みながら確認した新着メッセージの内容に、小さく落胆のため息をついた。都倉さんから届いたばかりのそれは、今夜会う予定だったのを延期してほしいというものだった。

 日曜日に会って以来、メッセージでのやり取りもほとんどできていなかったし、お店が忙しいのではないかとは思っていた。だからこうなる可能性も頭の片隅に置いてはいたものの、今日こそはあのパソコンの中を見るんだとそれなりに覚悟を決めていたこともあって、肩透かしを食らって転んだ気分だ。

 とは言っても、こればかりは相手の都合次第なところもあるし仕方がない。焦ることはないという、神様だか仏様だかからのお達しなのかもしれないし、今日は大人しく帰ることにしよう。

 私はスマートフォンの画面とにらめっこをしながら、都倉さんにどう返信しようか考えた。なるべく負担にならないように軽く、だけど今日の約束をちゃんと楽しみにしていたことも伝わる、そんなバランスの取れた文章がいいのだけれど。


 『気になさらないでください。また次の機会にお願いします』――固いしあっさりしすぎかなあ。

 『時間ができたらで構わないので、また連絡ください』――受け身すぎる?

 『いつなら空いていますか?』――いや、これはちょっと……。

 『会いたかったです』――……。


「だめだ……なんか、頭が回らない」


 既読も付けちゃったしなるべく早く返事をしたいのに、いい文面がなかなか思いつかない。ちょっと近くのカフェに寄って、落ち着いてゆっくり考えようか。そう思いながらエレベーターを降りた時だった。


「帆高さん、お疲れ様です!」


 元気よく声を掛けられ、驚いてスマートフォンの画面から顔を上げる。私を出迎えたのは、浅野くんだった。


「今から帰りですか!? 奇遇ですね、実は俺も今日はそろそろ帰ろうかと思ってて」

「お疲れさま、気を付けて帰ってください」

「誘わせてもくれないとか!」


 ここ数日、浅野くんは終業時間になると玄関前のロビーで待ち伏せしては、こうして何かしらのお誘いにやって来るようになった。一応彼なりに気は遣ってくれているようで、私が誰かと一緒だったり他に人が多くいたりする中では声を掛けてこない。周囲の目を気にしてびくびくする必要がないこともあって、以前のように邪険に扱うということはしなくなったけれど、これはこれでなかなか……。


「夕飯、ホントにだめですか?」 


 浅野くんが食い下がる。拗ねたような、少し落ち込んだような表情を浮かべて小さく首を傾げるその様子は、思わず「仕方ないなあ」と願いを叶えてあげたくなる気持ちを起こさせるように感じた。これまでの強引な態度から、絶対いい家柄でご両親に甘やかされてきた一人っ子だと思っていたのに、こういうところを見ると兄姉に揉まれながらも可愛がられた末っ子、という感じがしなくもない。

 愛され力が強いというか、悪い表現で申し訳ないけれど人を誑し込む能力に長けていて、浅野くんが社内外問わず誰からも可愛がられるのもうなずけると思った。


「おーい、帆高さーん。聞いてます?」

「……あっ、はい。聞いてます」


 浅野くんのひととなりを考察をしている時ではないことに気付き、慌てて思意識をこちら側に引き戻す。上司に怒られてるんじゃないんだから、と浅野くんに笑いながら言われ、少し恥ずかしくなってしまった。


「二人きりだと行きにくいかなと思って、一応、芹香先輩にも声かけてるんです」

「えっ、そうなの? それじゃあ……」

「……何すか、その態度の急変は。地味に傷つくなあ」


 芹香の名前が出て明らかに私の食いつきが良くなったことが気に入らないようで、浅野くんはそう言って不貞腐れた。

 浅野くんには申し訳ないけれど、芹香も一緒なら行きたいという気持ちは確かに湧き上がった。だけど、それも一瞬のうちに弾けるように消えてしまった。うまく表現ができないけれど、三人で食事をする風景を想像したとたん、なんだか急に億劫な気分になってしまったのだ。浅野くんも一緒なのが嫌だとかそういうことじゃなく、もっと別のことでマイナスに落ち込んだ感情が、こちらに引きずられてきてしまったというか……。


「うん、でも……今日は本当に用事があるから」


 気分じゃないとかどこのいい女だよ、っていう断り方はあれだから、当たり障りない理由で濁しておく。浅野くんはがっくりと肩を落としていて、分かりやすすぎるくらいの落胆ぶりを見せていた。


「そうですかぁー……」

「本当にごめんなさい。また今度、機会があれば」

「……って、ちょっと待ってください。”今日は本当に”ってことは、おととい誘った時は行けたのに断ったってことですか!?」


 その問いに答えることはしなかったけど、あえての沈黙から察したらしい浅野くんは唸り声をあげながら頭をガシガシと乱暴に掻いた。


「マジで下心はないんですって。いやあるにはあるけど、まだその段階じゃないってことはちゃんと理解しましたから」

「……」


 突然の理性的な発言に、私は正面玄関の扉へ向かおうとしていた足を止めて、思わず浅野くんを振り返ってまじまじと見つめてしまった。私はよほど怪訝な表情をしていたのだろう、浅野くんは困ったように眉尻を下げ、小さくため息をついた。


「俺、距離ナシだってよく言われるんですよ。でもみんな俺を悪く言わないし、むしろ受け入れて仲良くしてくれるから……なんて言うか、俺はこのやり方で正解なんだろうなって勝手に思ってて」

「……」

「あんなにがっつり拒否られたの、帆高さんが初めてくらいの勢いなんです。それでつい、ムキになって振り向かせようとしちゃったんですよね」


 その言葉に、頑なになっていたのは私も一緒だと思った。

 たいていの人は自分と相手との境界線をなんとなく把握していて、親しくなりたければ少しずつ距離感を縮めようと努力をするはず、そう考えていたから、浅野くんのようにいきなり懐に飛び込んでくるという行為が受け入れられなかったのだ。その思いをちゃんと言葉にすれば良かったのに、私は黙り込んでしまった。態度で示していればいつか分かってくれる、と当て込んでのらりくらりとかわしながら、時間が解決してくれるのを待つという選択をした。でも根本的な考え方にすでに大幅なズレがあるのだから、当たり前だけれど、そんな対応で状況が改善されるわけがない。

 いつしか”察してくれない”から”言ってもどうせ聞き入れてもらえない”へと、浅野くんに対する不満のかたちは変化していた。


「今は恋愛感情とか抜きで、帆高さんとちょっとずつ仲良くなりたいって思ってます。もちろんその先は見据えてますけど」


 そう言って浅野くんはさわやかな笑顔を見せる。その思いが真剣なものであることは、ここ最近私への態度を改めてくれたこともあって、充分に伝わった。ついこないだまであんなに関わりたくないって思っていたのに、今はそこまで強い嫌悪感はない。むしろ好印象に転じていて、これならいい友人関係を築けるかもしれない、そう感じていた。


「帆高さん。あの、俺」

「あっ、咲葵と拓己発見!」


 浅野くんが何か言いかけたところで、手を振りながら声を掛けてきたのは芹香だった。


「お疲れさま。今日は定時で上がれたんだね」

「しっかり調整してやりましたわ~。『販促課は残業手当泥棒だ』なんてもう誰にも言わせないんだから!」


 拳にぐっと力を込めながら、芹香が吠える。また上からチクチクやられたんだなと分かるその様子に、私は苦笑いを浮かべて芹香の肩をポンポンと優しくなでた。


「ところで、二人が一緒にいるってことは、ディナーのお誘いは成功ってことでいいのかな?」


 芹香の問いかけに、浅野くんの表情がわずかに曇る。


販促課ウチの女子たちが拓己のこと探してたからさ。飲みに誘うつもりみたいだったし、咲葵が行けるなら見つからない内にさっさとハケた方がいいかなと」

「分かった、じゃあすぐ出よう。どこに行くか、もう決めてあるの?」


 私の返答に、浅野くんが少し驚いたような表情を浮かべた。


「え、でも帆高さん」

「用事があるのは今日じゃなくて、明日だったのを思い出したんだ。だから」


 私の言葉を信じてくれたのか、それとも何か察した上で受け入れてくれたのかは分からない。けれど、浅野くんはそれ以上踏み込んでくることもなく、激しめのガッツポーズで嬉しさを全身で表していて、私と芹香は顔を見合わせて思わず笑いをこぼした。







 予定していた店は、販促課の親衛隊チームが行こうと騒いでいたらしく、特に予約を入れていたわけではなかったので、私たちは急きょ別の場所に変更することにした。明日は土曜日で仕事が休みの人が多いせいか、どの店も会社帰りのサラリーマンであふれかえっている。何とか飛び込んだこの居酒屋も、既にお客さんでいっぱいだった。

 にぎやかな店内では自然と話し声は大きくなり、ちゃんと聞き取ろうとして距離も近くなる。私はこの数時間で、浅野くんとの仲が一気に縮まったように感じた。


「拓己、あんた飲みすぎには気を付けなさいね。前みたいに咲葵に抱き着いたりしたら、また嫌われちゃうよ」

「心配ご無用ですって! 俺だって学習しましたから!」


 そう言いながら、浅野くんはビールを呷っている。

 芹香も浅野くんもそれなりに杯を重ねてはいたけれど、全く飲めない私がついていけない程酔った様子はない。二人とも自分のキャパシティをちゃんと理解していて、その辺も踏まえて飲む量をきちんとコントロールできているようだった。


「はい、いっこ質問!」


 芹香が元気に手を挙げる。浅野くんは、わざとらしく腕組みをして厳かに辺りを見回してから、水留くん、と低い声で指名をした。


「拓己はさぁ」

「ちょ、俺、先生っぽくしてんだから。先輩ももうちょっとこう、乗って来てくださいよ」

「ああ、はいはい。浅野先生は、どうして咲葵のことが好きなんですか」


 和やかな空気感に油断していたせいか、芹香がとつぜん投下した爆弾に驚き、ウーロン茶の入ったグラスに口を付けていた私は思わず咳込んだ。


「な、何でいきなりそんな質問するの?」

「いや~、そう言えばちゃんと聞いたことなかったよなあと思ってさ~」

「あれはそう、俺が入社してすぐのことで……」

「浅野くんも普通に語り始めないで。そういうのは、私のいないところでやってよ」


 一気に熱くなった頬を冷やそうと、今度はちゃんとウーロン茶を飲み下す。芹香はお気に入りのおつまみであるたこわさをつつきながら、にやりと口の端を上げた。


「咲葵がいるから聞いたの。きっかけは知ってても、理由まではちゃんと知らないでしょ?」

「私は知らないままでいいです」

「俺はぜんぜん構わないっすよ! つか、どっちかって言うと聞いてほしいくらいだし!」


 私の意見は無視らしい。浅野くんは、例の始末書の件から嬉々として話し始めた。これが私には関係ない人の恋愛なれそめ話なら楽しめたかもしれない。けれど、他でもない自分自身について語られるのを聞くのは、本当に居たたまれなかった。


「いろいろ失敗して怒られまくってた時だったから、会社の人コエーってなってたんですよね。だから、あの時優しく丁寧に教えてくれた帆高さんが、女神さまか何かに見えたんです」

「いやもう……いいから。それ以上は本当に」

「勤務中あんまり余計なこと喋らないとことか、ストイックな感じがすげえ格好いいと思ってて」

「やだやだやだ本当にやめて! 仕事がやりにくくなっちゃうから!」


 まだまだ続けようとする浅野くんの暴走を止めようと、ちょうど運ばれてきた焼き鳥をその口に当てて黙らせる。


「うめー! 帆高さん、俺からもあーんのお返しを!」

「ちが……そういうつもりじゃないんだってば!」

「あ、タレじゃなくて塩の方がいいですか? 味覚が合うなんてうれしいなあ」

「私はタレの方が……じゃなくて。自分で食べるからそっとしておいてよ!」


 突如始まった私と浅野くんの焼き鳥攻防戦を、芹香は熱燗をちびちびやりながら穏やかな笑いを浮かべて見つめていた。


「いい組み合わせだと思うんだけどなあ」


 不穏な呟きを聞き逃すはずもなく、眼光を強めて芹香をにらむ。


「先輩もそう思います!? 俺ね、ずっと帆高さんとは楽しくやっていけるって感じてたんですよね~」


 聞き逃さなかったのは浅野くんも同じで、だけど私とは正反対の態度ではしゃぎ始める。芹香は浅野くんの言葉を肯定するように、うんうんと何度もうなずいて見せた。


「すっごくお似合い。拓己の恋愛遍歴はそれなりに知ってるつもりだけど、その中でもダントツで」

「芹香、ちょっと黙ってくれないかな」

「やーだ咲葵、その顔こわぁ~い」


 芹香がふざけた口調でそう言いながら、自分を抱きしめるように腕を組んでくねくねと体を揺らした。


「先輩、怖いのは俺の方です。それはホントにマズイから、やめた方がいいです」


 浅野くんが、急に表情を引き締めて冷静に芹香を嗜める。芹香はテーブルに身を乗り出し、浅野くんの緩んだネクタイを掴んで引き寄せた。


「はぁ? 拓己あんたちょっと調子に乗ってんじゃないの」

「うわあマジでこええ」


 長い付き合いを感じさせる二人のやり取りに、私は思わず吹き出してしまった。

 急なお誘いだった上にあまり乗り気じゃなかったことが信じられない程、私はこの時間を楽しめている。今日は誘いを受けて良かったと思いながら、少し火照った体を冷やそうと席を立った。


「帆高さん、どこ行くんスか」

「そういう事は女性に聞くもんじゃないわよ~。はい、これで嫌われメータープラス1ね」

「先輩のさじ加減でどうとでもなっちゃうヤツ……! これは横暴だ!」

「咲葵に好かれたいなら、あたしの心象も重要だってこと。お分かり?」


 何やら楽しそうな言い合いが始まったところで、こっそりと席を離れた私はそのままお手洗いに向かった。

 例えば、本当に例えばの話。もし、浅野くんの私へのアプローチが初めから節度のあるもので、私自身も人の思いを受け入れられるくらいに余裕があったら、状況は今とは全く違うものになっていたのだろうか。

 以前、芹香に何とも思わないのかと聞かれた時は頑なに突っぱねたけれど、意志をないがしろにされず、私のペースをうかがってくれている今は、好意を抱かれることに悪い気はしていない。特に長所もないと思っていた私のいいところをちゃんと見てくれていたのには、嬉しい気持ちが湧き上がったりもした。

 今、あの時のように芹香から『試しに付き合ってみたら』と言われたら……。

 化粧室を出て席に戻る前に、少し離れたところで立ち止まった私は、芹香と向かい合って楽しそうに話す浅野くんの姿を見つめた。






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