(11)




 この定食屋さんのうどんがおいしいということは、近辺で働く人なら誰でも知っている。だからお昼の時間帯はいつも老若男女問わずサラリーマンの行列が出来上がるのだけれど、今日は少し早めに休憩をとることができたお陰で、並ばず席に着くことができた。


「ごめん。完全にうちの監督不行き届きだし、采配ミスだわ」


 芹香が私に謝っているのは、さっきの女子社員とのやり取りのことについて話したからだ。やり取りを話したと言っても、私に嫌がらせをしていたとか言葉遣いが悪いとか、その辺の事情は伏せている。ただ、販促課、もしくは販売部内で収めておくべき仕事が当たり前のように総務の方へ垂れ流しになっていることに私がつい抗議してしまったものだから、何か違う形――例えば噂話なんていう、当人の手を離れたところからその話が聞こえてくるようになる前に、芹香に現状を把握しておいてもらいたいと思い、要点だけを報告した。


「最近、そっち方面の処理が追い付かなくなってたのよね。今まで販売部長に任せきりだったせいで、対応できる人がほとんどいなくて……」


 販売部長では捌ききれない分を新山部長が引き受けて、そこで飽和状態になってこぼれたものが私たちの方にも回ってきている、という流れなんだろう。どうにかしてほしい気持ちはあるけれど、私と芹香の間で話をしてすぐに動かしていいものではないことは分かっている。上の人が関わっている限り、そこをまず通さなくてはならないのだ。


「改善の余地はあるって新山部長も言っていたし、総務部からアクションがあるまではしばらく様子見していてほしいんだ。また勝手によその課の課長に相談して、って怒られちゃうから」


 こないだの有給休暇明けに注意を受けたことは話したから、そのことを言っているんだと芹香は察してくれたようで、苦笑いしながらうなずいていた。


「つってもやっぱ申し訳ないから、あたし発信で販売部長に相談しつつ、ちょっとさりげなく動いてみるよ。咲葵から話があったことはちゃんと伏せとくし」

「んー、それなら、まあ……助かります。よろしくお願いします」


 私がぺこりと頭を下げると、芹香もこちらこそ、と言いながら同じようにお辞儀をして返した。


「お待たせしましたぁ」


 うどん定食が二つ、私たちの席に並べられる。お代わりの水が注がれ、店員さんが席を離れていく後ろ姿を見送ってから、芹香は私に視線を戻した。


「話は変わるんだけどさ」


 きっと浅野くんのことだろうなと思いながら、割り箸を割る。きれいな形で割れたことにちょっと気持ちよさを感じつつ、視線だけで芹香に先を促した。


「咲葵、最近拓己とどうなの?」

「どうって……特に何もないけど」

「ほら、前に拓己とケンカしながら部屋から出てきたことあったじゃない。あれ以降、何か関係性は変わったのかなって」


 そう言えば、と思い返す。あの日、浅野くんと小会議室で言い争いをしてから、私は以前のように彼から逃げ回ることをしなくなっていた。それは堂々と立ち向かえるようになったというわけじゃなく、ただ単に浅野くんからの接触が全くなかったからだ。


「今気づいたけど、こないだちょっと言い争いしてから浅野くんと顔を合わせたのって、昨日が初めてだったかも」

「昨日って、確か休みだよね? え、何、デートしたとか」

「そんなわけない」


 なーんだ、なんて残念そうに言いながら、芹香はうどんを啜り始めた。


「うちの隣に引っ越してきた人がいたんだけど、それが浅野くんの親戚の人だったみたいでね。あいさつ回りに一緒に来たんだ」

「……もしかして、ミナトのこと言ってる?」

「ああ、そうそう。清水ミナトくん」


 高校も一緒だって言っていたから、もしやとは思っていたけれど、やっぱり芹香も清水くんのことは知っていたようだ。


「あ、じゃあ、弓道部も一緒だったとか」

「そういうわけじゃないんだけど、拓己とミナトってしょっちゅうつるんでたからさ。あたしもそこに巻き込まれて、何かと絡まれてた感じ」


 そう話す芹香は、何とも言えない表情をしている。これまであまり見たことのないその顔つきに、何となくある予感を覚えた私は口元をかすかに緩ませた。芹香はただ過去を思い出しているだけではなく、現在進行形で清水くんに何かしらの感情を抱いているような気がしたのだ。


「元カレ?」


 一番初めに思いついた可能性を尋ねてみると、芹香は驚いたように目を大きく見開いてから、まさか、と笑い飛ばした。


「じゃあ付き合ってはないけど、片思いしてたとか」

「いやいやいや……あたしは別に」

「あたし”は”、なんだね」


 含みをもたせてそう言い、芹香をじっと見つめると、芹香は居心地悪そうに視線を逸らした。


「……特別なことは何もないって。つか、話が脱線しすぎだから。あたし、拓己のことを語るつもりでいたんだけど」

「ということは、清水くんから好意を持たれてたってことでいいんだよね」

「いや、だから」

「告白されて、それを断ったパターン? それとも」


 私がその先を続けようとしたところを、芹香は軽く腰を上げてテーブルに身を乗り出し、私の口に手を当てて制止した。


「告白はされた! でも断ったっていうか、あいつって誰にでもそういうこと言うタイプだから、真に受けずに流したのよ。これで納得した?」


 私は口を塞がれたまま、コクコクと何度もうなずいて見せる。芹香は短く息をつくと手を離し、憮然としたまま席に座り直した。芹香がこんなに私に焦らされることなんて普段滅多にないことだから、いつものお返しができたような気がして、ついニヤニヤと悪どい笑みを浮かべてしまった。


「……何がおかしいのよ」

「いや、その……私もやればできるんだなって」


 私の言葉の意味を間違うことなく汲み取った芹香は、ちょっと嫌な顔をしていたけれど、その内私につられるようにして笑いをこぼした。


「青春の淡い思い出を語るのってホント恥ずかしいわ~。あたしに攻め込まれて困る咲葵の気持ち、ちょっと分かった気がする」


 恥ずかしく感じるのは、思い出として片付けられていないからじゃないのかと言いたかったけれど、今回は口をつぐんでおいた。今後、何かの時に切り札として使えるかもしれないと思ったからだ。


「でもまさか、引っ越し先が咲葵ん家の隣だったとは……なんかびっくり」

「浅野くん、そこまでは話さなかったんだ」

「昨夜遅くにLINEで届いたんだけど、その時は咲葵について触れもしなかったんだよね」


 芹香は少し険しい顔をして、考える素振りを見せた。


「今までなら、何を置いても一番に咲葵のことを報告してきた気がするんだけど……やっぱり、咲葵にガッツリ怒られて心を入れ替えたのかな」

「ただ忘れてただけだと思うよ」

「それは絶対ない。つか、気にならないの? あんだけ追いかけられてきたのに、いきなり放っとかれるなんてさ」


 口に運んだかやくご飯を咀嚼しながら、今度は私が表情を曇らせた。


「浅野くんのことはもういいって……。そもそもこの件に関しては口を挟まないって言ったの、芹香でしょ?」

「状況は日々変わっていくものなの」


 あっさりと手のひらを返した芹香を睨み、ひじき煮の小鉢へと手を伸ばす。芹香は私の強めの視線に怯むことなく、更に瞳を輝かせて迫ってきた。


「とにかく、さっき二人で並んで話してる姿見てても感じたけど、やっぱりあんたたちお似合いだと思うわけよ」

「あのねえ……」

「暴走癖はあるけど、ホントにいい奴なの! だからさぁ、お願いだからちょっと真剣に考えてみてよ~」


 真剣に考える、というのはたぶん、浅野くんと試しに付き合ってみろということに対してだろう。せっかくのおいしいうどん定食なんだから、もうちょっと生産性のある前向きで楽しい話をしたい。そんな思いから、浅野くんとも、その話題にも付き合うつもりはないという気持ちをこめて、敢えて無反応を決め込んだのだけれど。


「もしかして咲葵、他に好きな人できた?」

「はっ!? ……っ!」


 いきなり別方向から切り込まれて驚いた私は、盛大に咳込んでしまった。


「な、なに言い出すの……」

「いや、ここ最近の咲葵を見てたら何となく。あたし、てっきり拓己といい感じに関係が進んだもんだと思ってたんだけど」


 芹香はそう言って箸を置き、器の載ったトレイをちょっとだけ脇によけると、テーブルに肘をついて私をじっと見つめた。


「あたしの知ってる人?」

「ちが……好きな人なんていないよ」

「じゃあ拓己と付き合うのに、問題はないってことよね」

「問題大ありでしょ! 前も言ったけど、浅野くんのことは好きにはなれないんだって」

「そんなの分かんないじゃない。相手の新しい面が見えれば、咲葵の気持ちも変わるかもしれないんだし」


 確かに、相手のことを知ろうともしないで拒否を続けるのは、いろいろな可能性を閉じてしまっているような気はする。今までは逃げることしか考えてなかったけれど、この前みたいにちゃんと向き合えば態度を改めてくれることも分かったし、恋愛感情が絡むかどうかは別として、それなりにいい関係を築くことはできるかもしれない。だけどやっぱり、いきなりその段階に進むのは、私にとってはハードルが高すぎると思った。

 何にしろ、付き合うという手段で浅野くんとの関係を変えるつもりはないことを伝えようと、私が口を開きかけた時。


「ああ、分かった。咲葵、ちょっと深く考えすぎなんだわ」


 それを遮るかのように、芹香がぱっと表情を明るくしてそう言った。


「付き合うったって別にさ、手をつないだりキスしたり、そういうことをしろって言ってんじゃないの。とりあえず二人で過ごす時間を作って、お互いのことを深く知ろうとしてみてほしいのよ」

「それなら、友達から始める、でよくない?」

「咲葵の場合、入口がそこだと一生友達で終わっちゃいそうじゃん」

「それは……、違うとは言い切れないけど」


 私は、薄づきのだし汁の中でうどんが揺れる様子に目を落としながら、もしかしたらこれは都倉さんへの憧れの気持ちを断つ一つの手かもしれない、と考えた。思いの方向性を変えられないのなら、思いを向ける先を新たに作ってしまえばいいのだ。ただ、その為に浅野くんの私への気持ちを利用するというのは、どうしてもできそうになかった。


「将来を見越して何の感情もないまま付き合うのは、私には無理だよ。夢見すぎかもしれないけど、ちゃんと気持ちありきでそういう関係になりたいんだ」

「……」

「だけど、今までみたいな食わず嫌いはしないようにする。芹香の言う通りいろんな可能性はあるわけだし、それを潰しちゃうのってすごくもったいないもんね」


 芹香は少し不満気に私を見つめていたけれど、私の意志を尊重してくれたのか、眉尻を下げて困ったように微笑んだ。


「勢いに流されてくれるかと思ったんだけどなぁ~。咲葵、やっぱりちょっと変わったよ」

「ええ? そ、そうかな」

「頑ななところは相変わらずだけど、なんかちょっと柔軟性が出てきた感じ。誰に影響受けたんだろうねぇ?」

「……ほ、ほら。早く食べないと、うどんが伸びちゃうよ!」


 意味ありげな呟きに、慌てて視線を下げながらそう言うと、芹香はくすくすと笑いをこぼした。







「あら、咲葵ちゃん。今仕事帰り?」


 マンションのエントランスで声を掛けられ、振り返る。そこにいたのは、派手な蛍光色のラインが入ったジャージを着込んだ、自治会長の奥さんだった。額には汗がにじみ、ほとんど空になったミネラルウォーターのペットボトルを手にしている。ダイエットを始めたとこの間聞いたから、きっとウォーキングをしてちょうど今帰ってきたのだろう。


「こんばんは。今日はちょっと、遅くなっちゃって」

「お仕事頑張るのはいいけど、最近世間は物騒だからね。夜道は気を付けなさいよ~」


 奥さんは、父が亡くなった後、それまでほとんど交流がなかったにも関わらず何かと私たちを気遣ってくれた人で、今もこうして顔を合わせるたびに声を掛けてくれる。ちゃんとご飯を食べているのか、といういつもの質問に笑顔で返事をし、そこからちょっとした世間話をした。


「ああ、そう言えば……咲葵ちゃんのお隣に越してきた子なんだけど」

「清水くん、ですか?」


 私がそう聞き返すと、奥さんは眉根を寄せて険しい顔をしながらうなずいた。そして辺りを見回してから一歩私に近づき、口元に手を当てて内緒話を始める体勢を取った。


「今日の昼間、咲葵ちゃんの部屋のドアを開けようとしてたのよ!」

「えっ……」

「健康の為に階段を使うようにしてて良かったと思ったわ~。買い物帰りに偶然その様子を見たから、声を掛けたんだけど」


 うつろな目つきとおぼつかない足取りから、奥さんには清水くんが酔っぱらっているように見えたそうだ。平日の昼間から部屋を間違えるほど飲むなんて、と呆れながら憤慨していた。


「とにかく、何か迷惑を掛けられるようなことがあれば、すぐに知らせてちょうだいね。主人にも言って、ちょっと気にしておいてもらうから」

「あ……、はい。ありがとうございます」


 頭を下げてあいさつをし、自室へと向かった奥さんの背中を見送る。エレベーターが来るのを待ちながら、清水くんはたまにちょっと抜けている、と浅野くんが言っていたことをふと思い出した。

 普通なら怪しむべきところだけれど、そういう前情報もあったせいか、酔っぱらって部屋を間違えても不思議はないように思える。それに何より、清水くんは友人の後輩であり、同僚の親戚だ。身元がはっきりしているのだし、そこまで心配する必要はないのではないかと考えていた。


「帆高さん! どもども、こんばんは~」


 マンションの使用規則を渡しに来た、という名目でインターホンを押すと、昨日とそう変わらない様子の清水くんが顔を出した。ただ、若干お酒の匂いはしているから、奥さんが言っていたことは間違いなかったようだ。一応、昼間のことを聞いてみると、清水くんは恐縮しながらぺこぺこ頭を下げた。


「今日仕事休みだったから、引っ越し祝いにっつって友達オゴリで飯に行ったんですよ。そしたらすっげー盛り上がっちゃって、酒もすっげー進んじゃって……ホントごめんなさい」


 しょんぼりと項垂れながら謝る清水くんに、そこまで気にしなくていいと声を掛ける。


「私はいいけど、周りにはいろんなことを思う人がいるから気を付けてね。今度奥さんに会ったら、それとなく取りなしておくよ」

「マジっすか! いやもう、何から何まで……ホントお世話掛けます!」


 まだそれほど遅い時間帯ではないけれど、さすがにその声量はちょっとまずい。まだ少し酔いが残っているみたいなので、深く何度もお辞儀を繰り返す清水くんに早めに休むよう忠告して、何とか部屋に押し込んだ。


 





 閉めたドアにもたれかかりながら、ミナトは一つ息をついた。廊下の奥に続くリビングダイニングから、テレビの砂嵐のような音が響いている。それはダイニングテーブルの真ん中に置かれた、少し大きめのタブレットから聞こえているようだった。

 外から――正確には隣から玄関を開け閉めする音がして、それはほぼ同時にタブレットからも発せられていた。


「感度は良好……だけど、ちとうるせえな」


 靴を脱ぎ、ミナトは部屋へと向かう。タブレットのイヤホンジャックにヘッドフォンを差し込むと、キーボードを取り付けて何かしらの作業を始めた。


「昼間はやっぱ動きにくいもんだなー。まあ、見られたのが終わった後だったからよかったけど」


 画面に指を滑らせ、またキーボードに目を落とし、何度かその動きを繰り返す。ミナトは大きく伸びをすると、タブレットの傍に置いていたビールの缶を取り上げた。


「さてさて、彼女はどんな音を立てるのかな」


 椅子の背もたれに体をすっかり預け、ヘッドフォンから流れる音に耳を傾けながら、ミナトはゆっくり目を閉じた。






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