(10)




 新山部長に「大至急お願い」と頼まれた契約書の条文チェックを済ませ、席を立とうとした時だった。


「どう、まだかかりそう?」


 背後から部長に声を掛けられ、慌てて振り返る。いつもと違った落ち着かないその様子に、私も気ぜわしさを感じながらも、付箋を貼り付けた契約書の下書きを差し出した。


「今ちょうど終わりました。誤字脱字と言い回しの間違いがあったので、確認だけお願いします」

「了解。じゃあ手直ししたらまた声を掛けるわね」


 新山部長はそう言って私の手からそれを取り上げると、さっそうと自分のデスクへと戻っていった。

 こういった契約関係のことは基本的にそれぞれの部署で対応することになっているはずなのだけれど、結構な頻度で総務部に回されてくる。『ややこしいことは総務部に振れ』というお達しでも出ているのではないかと思うくらい、他部署の複雑で手のかかる雑用が流れて来て、最近はその量の多さに新山部長は頭を抱えていた。


「法務部を作れとまでは言わないけど、せめて法務係を置くくらいはしてもいいと思うのよね。このままじゃ部長、つぶれちゃうよ」


 隣の席で仲村さんが、コーヒーを啜りながら不満げにそう漏らした。


「でもそうなると、部長と仲村さんは法務係決定ですよね」

「新しい人来てもみーんな販売とか広報に取られちゃうし、そしたら現状とほぼ変わらずか……。んんー、日陰部署ってホントつらーい」


 うちの会社に就職を希望するのは、新卒・中途含めて花形部署で活躍したいと思う人ばかりで、こちらにはなかなか人材が集まってくれない。縁の下で会社を支えるのもなかなか悪くないと思うけれど、私自身も四年務めてようやくそう思えるようになったくらいだし、敬遠してしまう気持ちも分からなくもないから、ここの仕事の楽しさをうまく伝えられないところがまた辛かったりして。


「何にしても、我が社は慢性的に人手不足だよね。派遣さんもすぐやめちゃうし、うちってそんなにブラックかなあ?」


 私たちはもう慣れてしまっているせいで、感覚がマヒしているだけかもしれない。デスクの端に寄せてある書類の山を見つめながら、何となくそう思った。


「帆高さん、手直しした分を今打ち出してるから二部製本して。押印はせずに販促課までお願い」

「は、はい」


 新山部長は口早にそう言うと、ジャケットを着込んで出かける準備を始めた。


「出られるんですか?」

「関連会社の役員との交流会に呼ばれてるの。三時には戻れると思うから、それまで頼むわね」

「分かりました。お気をつけて」


 新山部長はカバンを肩にかけ、そのまま出入口に向かおうとしたところで、一旦足を止めた。


「あなたたちにまで負担掛けてしまって、ごめんなさい」

「え……負担だなんて、そんなことは」


 もしかして、さっきの仲村さんとのやり取りを聞かれてしまっていたのだろうか。そう思いついて、言葉を止める。


「改善の余地はあると思っているし、近い内にどうにかするわ。だから、もう少しだけ耐えてちょうだい」


 そう言い残すと、部長はバタバタと慌ただしくフロアを出て行った。

 陰口や特定の誰かへの不満を言ったわけじゃない、どちらかというと部長を心配しての発言だったけれど、逆に気を遣わせてしまったようで、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

 意識を向けていないように思えても気付かれている、という現象は昨日体験したばかりなのに、教訓が全然身についていないことに情けなさを感じつつ、私はコピー機の方へ向かった。今は目の前の仕事を確実に片付けて、これ以上手を煩わせないようにしなくてはいけない。そんな使命感に駆られながら、トレイに排出された印刷物を取り上げてデスクに戻り、内容を一枚ずつ確認してから製本作業に取り掛かった。


「販促課に行ってきます」


 出来上がった契約書を小脇に抱えて仲村さんにそう声を掛ける。


「はーい。お帰りはいつごろ?」

「え、すぐ戻りますけど……」


 私が戸惑いながらそう答えると、仲村さんは時計をちらりと見上げてから意味ありげに微笑んだ。


「あと三十分もすればお昼休憩だし、販促課でしょ? 浅野くんをランチに誘ってあげれば、喜ぶんじゃないかなあって」


 その言葉に、私はすっかり脱力して深くため息をついた。


「もうほんとやめてください……。そんなことしたら親衛隊に何を言われるか」

「あんなのは放っとけばいいよ。どうせ陰口叩くか、つまんない雑用押し付けるかくらいしか能がないんだから」


 そういう些細な嫌がらせも、回数が増えればそれなりのストレスにはなる。何かとかばってくれる仲村さんだってその内とばっちりを食うかもしれないし、あまり彼女たちを刺激する真似はしたくないのだ。


「とにかく、すぐ戻りますから」

「はいはい。ま、ごゆっくり」


 仲村さんはパソコンの画面に向き直りながら、ひらひらと手を振った。ちょっと何か言い返そうとしたけれど、届け物が急ぎであることを思い出した私は、諦めて大人しくフロアを出ることにした。







「失礼します」


 一つ上階にある販促課の部屋に足を踏み入れて声を掛けたけれど、返事はない。出入口近くに掛けられた行動予定表を覗き込んではみたものの、機能していないのが丸わかりの状態だ。急ぎだと言っていたし、このまま引き返すのもどうかと思ってきょろきょろと辺りを見回していると、奥の資料室から女子社員が一人出てきた。


「なーんだ、総務さんか。何か用? 愛しの浅野くんなら出払ってるわよ」


 静かな室内で嫌味たっぷりに返事をしてくれたのは、こないだ帰り際に郵便物を押し付けた、浅野親衛隊の一人だった。この静けさだし、どうも他に人はいないようだ。彼女に預けるほかないと判断した私は、ため息をつきそうになるのをこらえながら契約書を差し出した。


「頼まれていた書類を届けにきたんです。どなたに渡すかは聞いていないので、お任せしていいですか」


 なるべく感情を押し殺しながらそう言ったけれど、彼女は冷たく一瞥をしただけで受け取ろうとはしない。少し考える仕草をしながら室内の時計に目をやると、意地の悪い微笑みを私に向けた。


「小会議室でその件の担当者とクライアントが話しているから、そっちに持って行ってちょうだいよ。ついでに、お茶のおかわりもお出ししておいてくれると助かるなあ」


 いつも通り、といった感じだ。こうやって押し付けられた雑用を、私は何も言い返さずに引き受けてきた。自分のデスクにはまだ処理しなければならない書類が山と積まれていて、仲村さんにも手伝ってもらっている状態にあっても、私は私の居場所に波風を立てないようにしようと、黙って従ってきたのだ。


「それは、そちらでなさって下さい」


 先日、浅野くんと言い合いをした時の気持ちを思い出しながらきっぱりとそう返すと、彼女は驚いたように目を見開いた。


「販促課の契約の場に総務の者が伺うよりも、販促課の方が対応した方がいいと思います。それとも、どうしても手が離せない状態なんですか?」


 彼女の手には小さめのバッグが握られている。それが、ランチに向かう時のいでたちであることは分かっていた。だから嫌味を込めて敢えてそう尋ねたのだけれど、効果はてきめんだったようだ。


「……な、なによ、偉そうに」

「気分を害したなら謝ります。ただあなたの私への態度も、私に注意を促せるほど正しいものとは思えないんですが」


 手が離せないのか、という簡単な質問に対する返事もできず、ただ苦し紛れに言い返しただけの言葉に攻撃力なんてあるはずもない。まっすぐ顔を上げて淡々と返答した私に反論することなく、彼女はただ顔を赤くして俯き、唇を噛みしめている。毅然とした対応に簡単に跳ね返されている彼女の姿を見た私は、心のどこかが解放されたのを感じた。


「忙しかったり、難しくて手に負えないのなら手助けはします。ですが、できるはずの事をさも当然のように総務に押し付けて、私たちをお手伝いさんか何かみたいに扱うのは金輪際やめてください」


 そこまで言ってから、私は思わず口元に手を当てた。今のは、ただの一社員に言っても仕方のないことだ。面倒な雑務は全て総務部に、という流れを良しとしているのは部課長で、彼女たちはそれに従っているだけ。こういう話はしかるべきルートに乗せて社内で公にし、議論し合うべきなのだ。


「……すみません、ちょっと言い過ぎました」


 勢いに任せてこれまで感じていた不満をぶつけてしまったことに対して謝罪したけれど、彼女は目を逸らしたままこちらを見ようともしない。もう私のアクションに対して、抵抗すらできなくなったようだった。彼女は自分のデスクにバッグを置いてから、黙って私の手から契約書を奪い取り、乱暴な足取りで部屋を出て行った。


「……お礼ぐらい言えって言うの、忘れちゃった」


 彼女の背中を見送りつつ、独りごちる。

 その次の瞬間、急に心臓がドキドキし始めた。手は震え、額や背中に不愉快な汗が浮かぶ。私は近くのデスクに手を付き、乱れた息を整えようと深呼吸をした。

 今まで向かい風を受け流す、むしろ飛ばされて流されているだけだったのだから、鍛えた経験のないひ弱な心は、その重圧を受けて平気でいられるはずがない。だけど、私は倒れなかった。ちゃんと自分の道を貫くことができた。


「よし、いける……!」


 具体的に何がいけるのかは分からなかったけれど、とにかくいける気がした私は、ぐっと握りこぶしを固めて天を仰いだ。


「たっだいま戻りましたー……っと、あれ、帆高さん?」


 名前を呼ばれ、慌てて体勢を整えながら振り返ると、浅野くんが驚いた表情で立っていた。背中のビジネス用リュックはパンパンで、そこに入りきらなかったのか、使い込まれた感のある茶封筒を小脇に抱えている。


「お、お帰りなさい。お疲れ様です」


 こんなところでいつまでも反撃できた喜びに浸らず、さっさと部屋に戻れば良かったと後悔しながら、ビジネスライクなあいさつを返した。

 このまま素知らぬふりでここを出たいけれど、浅野くんは大荷物を抱えて出入口をふさぐように立っている。何か余計なアクションを起こせば後悔するような展開が起こるような気がして、私はどうしたものかと思案しつつ、辺りを見回した。


「ああ、芹香せんぱ……じゃない、水留課長ならすぐに戻りますよ。さっきロビーで会ったから」

「へっ?」


 時間も時間だし、確実にランチに誘われるだろうと身構えていたものだから、ごく普通の対応をしてくれたことに驚き、思わず気の抜けた返事をしてしまった。


「……課長に用事じゃないんですか?」


 少し困ったように微笑む浅野くんにそう尋ねられ、私は首を横に振って否定した。


「違うんです。ちょっと頼まれたものを届けに来ただけで、もう下に戻るところだったから」

「何だ、そうだったんですか。……あ、でも」


 浅野くんが何か言いかけた途端、びりっと何かが破れる音がした。


「……手伝いましょうか」

「すみません、お願いします」


 床に散らばった大量の書類に目を落としつつした提案を、浅野くんは茶封筒のなれの果てを抱えたまま、申し訳なさそうに項垂れて受け入れた。


「これ、何か順番があったりします?」

「はい……。一応ページ数は書いてあるんで、その通りに並べれば大丈夫かと」


 浅野くんは持っていた荷物を近くのキャビネットに置くと、しゃがみ込んだ私の横に並んで一緒に書類を集め始めた。


「昨日、マジでびっくりしました」

「ああ……うん。私も、驚きました」


 浅野くんのつぶやきに、私も同じようなトーンで答える。

 昨夜、隣に越してきたとあいさつに来た清水くんは、浅野くんの遠縁の親戚にあたる人だそうで、小・中・高が同じの幼馴染でもあるらしかった。浅野くんは、一人暮らしは初めてだと言う清水くんの指南役として、引っ越しの手伝いも兼ねて来ていたのだと言う。


「ミナト、しっかりしてるしいい奴なんです。でも見た目とか態度があんなんだしたまにちょっと抜けてるから、いろいろ勘違いされやすくて」


 私が浅野くんと同じ会社に勤める同僚だと知った途端、私を部屋に引き入れてピザパーティーをしようとしたあたり、ノリが超軽量級でちょっと常識から外れているような感じはした。

 でも、ちゃんと近所にあいさつして回ったり、マンションの規則を確認しようとしていたり、確かに清水くんは浅野くんの言う通り、地に足のついた行動もとれる人だと思った。


「迷惑掛けることもあると思うんですけど、仲良くしてやってください。……まあ、ほどほどに」

「ほどほどって……」

「あんまり必要以上に仲良くされるのは、ちょっと。あいつに目移りされても困るんで」


 目移りも何も、私はああいうタイプはどちらかと言うと苦手だし、そもそも特定の誰かに視線を向けているわけじゃないから――


「……」


 思わず額に手を当てて深くため息をつく。”特定の誰か”というキーワードに、都倉さんを重ねてしまったのだ。なんだか思考回路がそちら側に繋がりやすくなっているというか、そういう考え癖がついているような気がするけど、それってちょっとまずいんじゃないだろうか。本当に、早いとこどうにかしないと……。


「帆高さん。あの、」

「ただいまー……っと」


 浅野くんが再び何か言いかけた時、外回りから戻ってきた芹香が室内に入ってきた。


「あ、お帰りなさい」

「お、お疲れさまっす」


 書類を全て拾い上げた私たちは、立ち上がりながら口々に芹香に声を掛けた。


「……何してんの?」

「あー……えっと」


 思いがけない組み合わせだったせいか、芹香は呆けたような顔で私と浅野くんを交互に眺めている。私はその視線が別の色合いに変化しないことを祈りながら、愛想笑いを向けた。


「すみません、預かった提案書を俺がばら撒いちゃったんです」

「それを拾うのを手伝ってたの。あ、私は届け物があってここにちょうど居合わせてて」

「ふーん……」


 腕を組んでこちらを見つめる瞳が、どんどん意味ありげに輝いていく。どうやら、私の祈りは聞き届けられなかったようだ。


「もう任せて大丈夫、だよね?」

「はい、後は自分でできるんで……ありがとうございました」


 それなら今はこの場から逃げるしか手はない。浅野くんに拾った書類の束を渡し、じゃあ私はこれで、なんて言いながら部屋を後にしようとした時。


「咲葵、今日もお弁当?」


 見なくてもどんな表情をしているか分かってしまうほど、芹香のその声は浮ついている。恐るおそる振り返ってみると、やっぱり芹香は悪い笑顔をして私を上目遣いに見ていた。


「あ、えーと今日は……」

「違うのね。じゃあお昼、一緒に行こっか」


 触らぬ神に祟りなし、ということわざが頭を駆け巡る。ただ芹香の今の表情を見ていると、適度に触っておかないととんでもない方向に話が飛躍してしまう可能性を感じたので、ここは大人しく彼女の提案にうなずいておくことにした。






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