(9)




――おかあさまは、どこ?


――すぐ近くにいるよ。今は眠っているんだ。


――こわい、もうかえりたい。おとうさまは、いつむかえにくるの?


――大丈夫、怖がることはない。父上が迎えに来るまでここはお前の家で、私はお前の……



 瞼を開く。視界に入ってきたのは、暗がりの中でチカチカと光を反射するいつもの天井といつもの照明だ。どうしてこんなに暗いのか、何が光っているのかと考えながら視線を巡らせる。テレビがつけっぱなしになっていて、幼い頃夕食時によく見ていたアニメのエンディングが小さな音量で流れていた。天井が光って見えたのはこのせいかと納得してからゆっくり体を起こすと、コーヒーテーブルの上にあったリモコンで部屋の明かりをつけ、時計を確認した。


「もうすぐ七時かぁ……」


 ちょっと奮発して新調したソファの座り心地がすごく良くて、怠惰に身を任せて寝転んだらそのまま寝落ちしてしまっていたようだ。その場で伸びをして大きく息をつくと、喉の渇きを潤すためにキッチンへと向かった。

 また例の夢を見た。前回、オーベルジュに試泊した時に見たものよりも、前後のやり取りが増えている。目の前の男性に怯えながらも、庭にある変わった形の松の木に降り積もる雪をきれいだと思ったりして、少女役の私の心の動向もなんだかはっきりしていた。

 両親を強く求める気持ちや、住み慣れた家に焦がれる気持ち。私にも覚えのある感情だったせいで彼女にシンパシーを感じてしまったのか、今日は普段より少しだけ心が重い。

 残りわずかだったミネラルウォーターを飲み干してから、息をつく。

 今まで代わり映えのなかったストーリーに少し肉付けがされていたり、ビジョンや空気感が前よりも鮮明さを増していたりもして、ここ数日でこの夢の質感はずいぶん変化した。何かきっかけがあったのかと考えても、特にこれといって浮かんでこない。強いて言うなら、都倉さんと出会ったことくらいで……。

 

「あっ」


 リビングを少し片づけようと踵を返した時、ダイニングテーブルに置いたカバンに手が当たって、下に落ちてしまった。中に入れっぱなしだった荷物が床の上に散乱する。その光景になんだか疲労感を覚えて深くため息をついてから、しゃがみこんで一つずつ回収した。

 最後に残った手帳を拾い上げたその下に、キーホルダーの付いていない鍵も落ちていることに気付いた私は、立ち上がろうとした動きを止めた。

 手帳をカバンにしまってから、その鍵をつまみ上げる。これは自宅のものではなく、都倉さんが仮宿にしているあのマンションの部屋のものだ。私はそれを眺めながら、これを受け取った時のやり取りを何となく思い返していた。






「そうだ、忘れない内に」


 食器や調理器具を全て片付け、簡単に掃除も済ませて、後はもう荷物を持ってここを出るだけとなった時、都倉さんがそう言いながら鍵を私に差し出した。


「これは……?」

「この部屋の鍵だ」

「え……」


 条件反射で出してしまった手に載せられたそれと、都倉さんの顔を見比べる。


「君に、ここの管理を頼みたいんだ。私も紫藤もしばらく店の方に掛かりきりになって、こちらにまで手が回りそうにないから」

「か、管理ですか……」


 急な提案だったこともあるけれど、その言葉に重みを感じた私は、どう返事をしようか躊躇した。なんとなく、すごく責任の伴うことを任されたような気がしたのだ。


「難しいことはない。君の好きな時に来て好きなように使ってくれれば、それでいいよ」


 困惑する私に都倉さんはそう言ってくれたけれど、具体的に何をすればいいのか分からず首を傾げる。ここは会社から近いし、時々帰りにちょっと寄って換気や掃除をするくらいでいいのだろうか。


「それだけでなく、できるだけ設備を積極的に使ってほしい。仮住まいであることは貸主も承知してくれているが、部屋の劣化を防ぐために、週に一度はここで生活をすることを条件として出されていてね」

「設備を使うって……料理を作ったり、お風呂に入ったり、ってことですか?」

「まあ、そういうことになる」


 想像していたほど大それたことではないようだけれど、マンション最上階のペントハウスの施設を自分の好きに使うというのはなんだか気が引ける。今度は違った形のプレッシャーを感じ、再び私は鍵を見つめたまま黙り込んでしまった。


「部屋を一通り案内するよ。付いてきなさい」


 沈黙を、引き受けるという意志と受け取られてしまったのか、それとも中を見て決めてほしいということかは判断できなかった。けれど即答で断るのもどうかと思うし、私に任せたいと考えた理由が何か分かるかもしれないと、とりあえず歩き出した都倉さんについて行くことにした。

 キッチンやリビングダイニングは省き、一階にある洋室、和室、バス・トイレなどを順に見ていく。お風呂がジャグジーだったり、トイレのふたの開け閉めが自動だったりと、他にもいろいろな部分で設備のハイグレードさを感じながら、使い方を教わったりした。

 一階の部屋を全て回り終え、リビングのらせん階段をのぼって二階部分へと上がる。その途中で、都倉さんがふと口を開いた。


「ここには、仁哉の死について調査した内容を資料にして保管してある。留美が最後に私に委ねたデータと一緒に」


 その言葉にはっと顔を上げると、都倉さんは軽くこちらを振り返りながら、小さくうなずいた。


「君もデータにアクセスできるように、指紋認証の設定だけしておこう」


 二階はフロアそのものが一室になっていた。バルコニーへ出る掃き出し窓のある面を除き、様々なジャンルの本が壁を覆いつくすかのように並んでいる。部屋の真ん中にはオットマン付きの一人掛けソファが二つ並び、その間にフロアライトが置かれていて、ここで読書をしたらきっと時間を忘れるくらいに集中できるだろうと思った。


「こっちだ」


 本棚と本棚の間に自然と馴染むように設置された扉付きのキャビネットを開けると、そこにはコンパクトなノートパソコンがぽつんと置かれていた。


「見るか見ないかは、君に任せるよ。その点も含めて、ここは君の自由にして構わない」


 都倉さんはそう言うと、パソコンの電源を入れた。真っ黒だった画面が明滅し始め、起動を知らせるアイコンが浮かび上がる。それを都倉さんと並んで見つめながら、胸の中にちらつき始めた嫌な感覚を払しょくしようと、小さく深呼吸をした。

 父については、その死に疑念があり、それを母も調べていた、という触りの部分しか都倉さんからは聞かされていない。母が何を掴んだのか、都倉さんはそこから更にどこまで調べを進めているのか。そのことを考えない日はなかった。それなのに一歩を踏み出して聞くことができなかったのは、知ることを恐れる気持ちがまだ心のどこかでくすぶっていたせいなのだろう。


「やめておこうか」

「えっ……」


 考えに耽っていたところから我に返り、顔を上げる。都倉さんは、タイピングする手を止めてこちらを心配そうに見下ろしていた。


「まだ踏ん切りがつかないのなら、物理的に遮断しておいた方が君の精神衛生的にもいいだろう。君には知る権利はあっても、義務を感じる必要はないのだから」


 その言葉に、私は再び視線を落としながらも、迷いなく首を横に振った。


「義務ではなく、純粋に私自身知りたいと思っています。でも、自分が自分でなくなってしまう時が来るんじゃないかと思うと、足がすくんで」


 父に死を与え、それを汚した人たち。その存在が明らかになった時、私の体の中を、恐ろしいほどの憎しみと復讐心が駆け巡るのを感じた。不快な感覚だったにもかかわらず、私はあの感情に身をやつしてしまっても構わないと、一瞬ではあったけれど思ってしまったのだ。詳しいことを知ればその分、負の感情は研ぎ澄まされていく。そうなれば、あの黒く冷たいインクの海に抵抗することなく沈み込んで、もう戻ってこられない気がしていた。


「……私がついている」


 都倉さんは静かな声でそう言うと、いたわるような手つきで優しく頭を撫でてくれた。


「言っただろう、君は私が守ると。君がどんな感情に溺れてしまおうとも、必ず私がそこから引き上げる。だから、心配しなくていい」


 懐かしい感覚と共に、不思議と大丈夫だという思いが心の深いところから湧き上がってくる。

 私は小さくうなずき、握りしめたままだった鍵をカバンにそっとしまい込んだ。







 あの後、資料を見たいなら一緒に残ると都倉さんは言ってくれたけれど、店に戻らないといけない時間帯は暮野さんに事前に確認していたので、自宅まで送ってもらうことと併せて辞退しておいた。

 一人で残って見ることも考えたけれど、やっぱり少し勇気が出なかった。次の金曜日、仕事上がりに会う約束はしたから、その時までにはちゃんと気持ちの整理をしておこう。そう考えながら、この鍵に付ける適当なキーホルダーを探そうと、リビングのチェストの引き出しを開けた時だった。

 インターホンが鳴ったのだ。ここへの来客は普段ほとんどなく、あったとしてもマンションの自治会から回ってくる回覧板を届けに来たご近所さんくらいだ。大体いつもこの時間帯に渡しに来てくれるから、今日もその件だと思い、インターホンのモニターを確認することなく玄関のドアを開けてしまった。


「ども! こんばんは~」


 思っていた人物ではないことにまず驚き、そしてその相手が見たことのある顔であることに再度驚いた私は、返事もせずにその場で立ち尽くしていた。


「……あれっ。おねえさん、もしかしてあの時の?」


 玄関先にいたのは、オーベルジュの試泊モニターを勧めてきたあの男の子――清水くんだった。以前会った時は地味なスーツを着ていたけれど、今日は派手なピンクのトレーナーにチェックのパンツを履いていて、ふわふわした赤毛によく合っていると……違う、今は彼のいかにもチャラそうなファッションチェックをしている場合ではないんだ。


「ど、どうしてここに清水くんが?」


 言葉に詰まりながらそう尋ねると、清水くんはびっくりしたように目を丸くして、私の手を握りしめた。


「俺のこと覚えててくれたんだ! うわー、何かうれしい!」


 人懐っこい笑顔でそう言いながら、握手の形で握った手をぶんぶんと上下に振っている。私はその動きに翻弄されながらも、必死で考えを巡らせた。

 あの時、申し込み用紙に住所と名前を書いたから、まさかそれを悪用してここに来たのだろうか。でも都倉さんが雇った人がそんなことをするなんて、考えられないし考えたくもない。それにさっき私が顔を出した時の反応からすると、ここが私の家だとは知らなかったように思えるし……。


「いやぁ、こんな偶然あるんすねぇ。まさか引っ越した先のお隣さんが、あの時捕まえたおねえさんだったなんて」


 だから、捕まえたとか珍獣扱いしないでほしい。そう心の中で思いながら、さりげなく清水くんの手を振りほどく。


(ん……?)


 強く握られたせいでかすかに痛む指をそっとさすりながら、聞き捨てならないことを聞いたような気がした私は、はっとして清水くんを見上げた。


「……ちょっと待って。清水くん、隣に越してきたの!?」


 慌ててそう聞くと、清水くんは大きくうなずきながら親指をぐっと立てた。


「こっちの角部屋っす! 今日から俺ん家になるんで、ちょっとあいさつに来たんすよ~」


 三度目の正直ならぬ、三度目の驚きで再び言葉を失ってしまった。

 この階は基本的にファミリー層向けの分譲型の部屋ばかりだから、家族で引っ越してきたのかもしれない。そう思って聞いてみたけれど。


「いや、俺一人っすよ。なんか、親戚のおっちゃんがここ使わないから俺に貸してくれるって」

「そ、そうなんだ……」


 家族も一緒なら何となく安心できそうかなと思ったのに、当てが外れて少しがっかりした。一年半ほど前に引っ越していったお隣さんとはほとんど交流がなかったから、その親戚のおっちゃんがどんな人だったかは思い浮かべることすらできない。揉めたことはなかったし、特に問題のある人ではなかったと思うけれど、親戚だからと言って清水くんも同じような人柄だとは限らない。もしかしたら平気で夜通しパーリナイ! とかしちゃうタイプだったりしたら……。


「あんまり家にいることがないから大丈夫だと思うけど、もしうるさかったりしたら遠慮なく言いにきてね」

「あ……うん。こちらこそ、迷惑かけないよう気を付けます」

「あと俺、マンション住むの初めてでさー。もし何か特別ルールとかあるなら、教えてほしいんだ」


 見た目も態度も軽いけれど、案外ちゃんと考えている子なんだと思った。そもそも、周りの迷惑も顧みないでどんちゃん騒ぎするような人は、こんな風にご近所にあいさつ回りなんて殊勝なことはしないだろう。何かあったとしても相談できる人はいるんだし、状況はそんなに悪いものではないはず。


「確か、使用規則の冊子みたいなのがあったはずだから……また明日にでもコピーして郵便受けに入れておくよ」

「ありがとー、助かります!」


 清水くんはうれしそうにしながらそう言うと、右手を差し出した。


「清水ミナトって言います。広告会社で働く23歳でっす」

「私、帆高咲葵です。これからよろしくね」


 改めて、お互いに握手を交わす。


「清水くん、社会人だったんだね」

「え……俺、フリーターかなんかに見えた?」

「モニター勧誘のアルバイトをしていたし、何となく大学生かと思ってた」


 感じたことを素直に伝えると、清水くんはちょっときまりの悪そうな表情を浮かべて視線を逸らした。


「あー……あの勧誘のアルバイトは、ちょっとした小遣い稼ぎのつもりだったんだ。ウチの会社は副業禁止だからさ、あのことは内緒にしといてよ。ねっ」


 目の前で手を合わせて懇願する姿に苦笑しながらうなずくと、清水くんは大げさに胸をなで下ろす仕草をしてみせた。


「おい、ミナト! 挨拶行くなら手土産忘れんなってあれほど……」


 不意に隣の部屋のドアが開き、そこから清水くんを叱咤する声が響く。友達が引っ越しの手伝いに来ていたのかと思い、そちらの方に顔を覗かせた私は、もうこれ以上はないだろうと当て込んでいた四度目の驚きが訪れたことに目眩を覚えて、その場に卒倒しそうになった。


「えっ、ちょ、なんで帆高さんがここに……」


 それはこっちのセリフだと言いたかったけれど、もう声すら出ない。

 清水くんの部屋から粗品を持って現れたのは、浅野くんだった。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る