(8)




 部屋には、肉じゃがのいい香りが充満している。その匂いに刺激されて余計な音を立てそうになる空腹を誤魔化すため、私は都倉さんから教えてもらったことをノートに書きとめていた。

 じゃがいもとにんじんは乱切りで一口大に、玉ねぎは繊維に沿ってくし切り、絹さやは別でさっと茹でて後乗せでOK、こんにゃくで肉が固くなることはない、でも癖の強い匂いが具材全体に移ってしまうので下茹で処理が必要……色々とメモを取った一番最後の行に、赤いマーカーの先を当てる。


『冷やしても味は染みない。余熱で調理を続ける感覚が大事!』


 煮物は冷えると味が染みると思っていたけれど、実際はそうじゃないらしい。おいしさ度外視でただ煮汁を吸わせることだけ考えるなら、高温で煮込み続ければ手っ取り早く仕上がる。でもそれをしてしまうと、沸騰した時の気泡で具材同士がぶつかり刺激を受け、煮崩れの原因となってしまう。だから、最初に高温で一気に炊き上げたあとは、沸騰しない程度に適度に熱を与え続けるのがいいそうだ。


「ふー……」


 ペンを置き、伸びをする。

 こんな風にノートを広げて大事なポイントに赤線を引くなんて、いつぶりだろう。軽くノスタルジーに駆られながら、書き上げたばかりの肉じゃがのレシピを見直していく。これはまだ、最初の一歩だ。これを元に私なりの味や工夫を加えたり、自分でもいろいろ新しいものを作ってみたりして、中身をさらに充実させていきたい。そうして納得のいくレシピ集ができあがったら、父が果たせなかったあの約束を引き継ごうと思っていることを、都倉さんに伝えようと思う。それがいつになるかはまだ分からないけれど……。

 その頃には私の心境に変化は訪れているのだろうかと、キッチンで器を選んでいる都倉さんをぼんやり眺めながら考えた。

 都倉さんが私を思う気持ちは、親心に近いものだと思っている。以前ホテルで話した時、『男女が二人きりで部屋にこもるのはまずい』と一旦は配慮してくれたにも関わらず、そのすぐ後にこのマンションの部屋に連れてきたのは、私をそういう目で見ないでいられると判断できたからなのだろうし、実際、さっきのようにほぼゼロ距離で触れられた時も、下心のようなものを感じさせる素振りはちっとも見せなかった。

 帰りは遅くならないようにとか、私の体調を心配するようなメッセージをいつもくれたりして、純粋に”亡き親友の娘”として気遣ってくれているのに、それを受け取る私の方がすごくよこしまな気持ちを抱えてしまっているのが、申し訳ないと言うかなんと言うか……。

 よこしま、なんて言ってしまうと何だかいけないイメージだけれど、テレビに出てくる俳優さんを見て、カッコいいなあ、と憧れるのと心情的には似ている。たとえば都倉さんが素敵な恋人を連れて歩いているところを目撃しても、ああーやっぱりそうだよねぇ、とがっかりしながらも納得できるような感じだ。これが”がっかりだし納得できない”に変化してしまう前に、”がっかりする”部分を削りたいと考えているのに、その方法がいまだにつかめなくて困っている。

 初手でつまずいた感は、確かにある。出会った時――正確には再会した時――に、すでにときめいちゃっているものだから、気持ちの方向性を修正するのがなかなか難しいのだ。この感情の原泉を挿げ替えることができれば解決するはずだと、退行催眠を受けて小さい頃のことを無理やり思い出してみるなんてことを本気で考えたりもしたけれど、実現には至っていない。


「はあ……」


 何かいい方法はないだろうか。今のところ、スマートフォンのアドレスに登録している都倉さんのデータを親戚グループに分類してみる、という効果が絶望的に薄そうなアイデアしか浮かんでいない。もっと何かガツンとしたきっかけがあれば、心は簡単に別の方角へ向かってくれそうなんだけれど……。


「もう我慢できないか?」


 キッチンカウンターの向こうから、都倉さんが顔を上げないまま急に声を掛けてきたので、びっくりして思わず辺りを見回してしまった。


「さっきからずっと私を見ていただろう。空腹に耐えかねたのかと思ってな」

「あー……」


 都倉さんを見ていたのはそういう理由からではないけれど、お腹が限界を迎えていたのは事実だ。私は都倉さんの言葉を否定することなく、目を逸らしながら笑顔を取り繕った。


「目が合わないから、気付いていないと思ってました」

「視線を隠さずまっすぐ顔をこちらに向けられていれば、視界の端に捉えただけでもすぐに分かるよ」

「じろじろ見ちゃってすみません……」


 背中を丸めて小さくなりながら謝罪する。ちらりと都倉さんの方を見やると、何も言わずに下を向き肩を揺らしていた。何を考えていたか知られることは回避できたけれど、別の作業に気を取られているだろうと当て込んで、堂々と様子を観察するのはやめようと心に誓った。


「まあ、そろそろ頃合いであることは確かだし、食べる準備をしようか」

「はいっ!」


 ようやく待望のお声が掛かって元気よく答えて立ち上がった私に、都倉さんは鍋の中身を軽くまぜながら再び笑いを漏らした。

 ご飯もお味噌汁もベストなタイミングで出来上がっている。その辺もきっちり時間配分して指示してくれていたのは本当にすごいと思いながら、それぞれを食器によそいテーブルに並べていった。


「……」


 器に盛られた肉じゃがの色どりの豊かさに、思わずため息がこぼれた。さやえんどうが、一番てっぺんで瑞々しいみどりの色彩を放っている。それに引き立てられて鮮やかさを増すにんじんは、皮付きのままだときっとこんなにきれいな照りは出なかっただろう。栄養になればいい、お腹に入れてしまえば全部同じ、という気持ちで作ったものとはレベルの違う仕上がりになっているのは、まだ食べていない今の段階でもはっきりと分かった。

 全てのセッティングが整ったところで席に着き、手を合わせる。


「いただきます」


 一人の時はほとんどと言っていいほど省略してしまうこの挨拶も、今日はなんだか丁寧にしておきたい、そんな気持ちになっていた。

 箸でそっとじゃがいもを持ち上げる。自分一人で作った時はいつもぐしゃりと崩れるのに、今回は箸先の圧力に負けることなくきれいに形を保ってくれていて、自然と口角が上がった。


「……すごい、とってもおいしいです」


 口に運んですぐ、自然とこぼれたその言葉。一緒に煮込んだにんじんや玉ねぎ、牛肉のうま味を吸い込んで、じゃがいも自体のおいしさは段違いに上がっている。

 母が作ってくれた思い出の味とは違うけれど、自分の舌にこんなに馴染むものを食べたのは、本当に久しぶりのように感じた。


「さすが都倉さんですね。私じゃこんな味は出せなかっただろうなあ……」

「何を言っている。この味を作ったのは君だろう」


 感心しつつしみじみ呟いた私の言葉に、都倉さんが反論する。


「でも、私はただ都倉さんの指示通りにしていただけで」

「味を見て、この加減がいいと判断したのは君だ。確かに手助けはしたが、これは君のセンスが作り上げた、君の味なんだよ」


 そう言われ、都倉さんが自分で味見せずにずっと私に任せてくれていたことを思い出し、肉じゃがの器に目を落とす。


「私の、味……」


 一口食べて、私は何もためらうことなく「おいしい」と声に出していた。今まで自分が作ったものを、そんな風に自分でほめたことなんてなかったのに。


「自信を持っていい。きっと私では、このおいしさは出せなかっただろうからな」

「……都倉さんも、おいしいって感じますか?」

「もちろん」


 フィーバーしそうなときめきを抑えつけながら、小さな声で感謝の言葉を伝える。

 母にお弁当を作っていた時も同じように『おいしかった』と言ってくれていたけれど、ここまで気持ちが弾んだことはなかった。あの時素直にその言葉を受け取ることができなかったのは、自分ではおいしさを感じなかったせいなんだろう。

 嬉しかったり照れ臭かったり、誇らしさだったり、どれも自画自賛では味わえない喜びだと思った。


「なんだか、母の気持ちが分かった気がします」

「留美の気持ち?」

「はい。私や父が『おいしい』って言うと、すごく嬉しそうにしていたんですよ。きっとあの時、こんな風に感じていたんだろうなって」


 そこまで言ってから、得意気に微笑む母の顔がふと頭に浮かび、私は口元を緩ませた。

 都倉さんといると、いつも両親のことを何かしら思い出しているように感じる。大きなイベントや印象深い出来事ではなく、日常の何気ない仕草や交わした言葉が、小さなきっかけを経てふわりと脳裏を過るのだ。

 アルバムをめくるだけでは、決して蘇る事のない記憶。もしかしたら都倉さんには、そういうものを呼び起こす不思議な波動があるのかもしれない。それなら、いつか都倉さんのことも思い出せたり……なんて期待したいところだけれど、二歳ごろの記憶なんて、さすがにサルベージするには深度がありすぎるような気がして、私はそっとため息をついた。

 もう過去の自分の記憶に期待するのはあきらめて、気持ちを変える方法を編み出した方がいいかもしれない。その方が建設的だし、きっと確実だ。


「でも、そのやり方が思いつかないんだよね……」


 意図せずこぼれた煩悶は向かいの席にまで届いてしまったようで、都倉さんは箸を止め、眉根を寄せて私を見つめた。


「困りごとか?」

「えっ……あっ、いや、そういうわけでは」


 まさか本人に気持ちを方向転換する方法を聞くわけにはいかない。私は誤魔化すように、再び肉じゃがを口へ運んだ。


「……」

「……」


 どうやら見逃してはもらえないようだ。私は深めに俯きながら、都倉さんに相談できそうな困りごとはないか、頭の中を必死で捜索した。


「えっと……その、ちょっと、会社に面倒なのがいて」

「面倒?」

「悪い人ではないと思うんですけど、強引で。気持ちを一方的に押し付けてくるところが苦手でホントに……」


 話しながら、なぜ私は浅野くんのことを相談しようとしているのかと自問した。もっと当たり障りのないことがあっただろうに、このチョイスはちょっとナンセンスすぎる。でもまあ、まだはっきり核心の部分は言っていないから大丈夫だろうと思って、さりげなく違う内容に変えようとしたけれど。


「言い寄られているのか」


 状況を正確に読み取られ、思わず言葉に詰まってしまった。

 ここから無理に話題を変えれば、不自然すぎて余計に追及されるかもしれない。かと言ってその質問にはっきり答えてしまうのは気が引ける。


「……あの、でも、こないだガツンと言い返すことができたし、近いうちに解決するんじゃないかと思っ」

「イエスかノーで答えてくれ。どうなんだ?」


 有無を言わせない、強い口調。予想外の流れに困惑しながらも、誤魔化しは通用しそうにないと思った私は、覚悟を決めて小さくうなずいた。


「……なるほど」


 都倉さんの表情がみるみる攻撃的なものに変わっていく。

 こんなに食いつかれるとも、こんな反応をされるとも思っていなかったせいで戸惑いはあったけれど、この既視感のある展開は私に希望の光を見出させてくれた。

 あれは確か、小学生の時。同じクラスの仲良くしていた男の子から、誕生日プレゼントをもらったことがあった。男女の色恋なんていうものはまだまだ芽生えていない年頃だったこともあって、それを”なにげないきょうのできごと”として報告したら、父は珍しく怖い顔をしながら、その男子の名前やどこに住んでいるのかを聞き出そうとしたのだ。幼いながらも嫌な予感がして黙っていたけれど、もし正直に言っていたら相手の家に殴り込みに行っていたかもしれない。嫁にはやらない、と激しく息巻く父を、母が笑いをこらえながらなだめたりして、それをものすごく複雑な感情を抱きながら見ていた私は、こういった話は父には二度としない方がいいと悟ったのだった。

 都倉さんの今の反応を、これは嫉妬!? なんておめでたい思考回路で解釈することなく、こうして当時の父を重ねて見ることができるのなら、よこしまな憧れが形を変える日も近いかもしれないと思った。確信とまではいかなくても心変わりの余地があることが分かったし、この気持ちが向かうべき方向も定まったような気がする。私は、この場の空気にそぐわないかもしれないけれど、密かに胸をなで下ろしていた。


「咲葵」

「はっ、はい!」

「あまりに迷惑だと感じているなら、言いなさい。手を回しておくから」

「は……、い」


 何が怖いって、都倉さんはうちの会社には関係のない人のはずなのに、何かしらの影響を与えることができそうなところだ。

 勢いで返事はしてしまったけれど、浅野くんに関する話題は今後は避けるようにしよう……。






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