(7)




 キッチンカウンターに並べられているのは、今日作るメニューの材料と調理器具だ。私はその前に陣取って一通りを眺めながら、緊張で固くなった心をほぐそうとしていた。

 今日は前に約束したお料理教室の日で、私は都倉さんと一緒に会社近くのマンションに来ている。なぜこんなに緊張しているのかと言うと、私が料理に関してどれくらいの知識があるのか、また、どれくらいのことができるのかを把握したいと言われたからだ。料理については、学校の家庭科の授業や母から教えられた以外はほぼ自己流なので、間違っているところはたくさんあると思う。それが都倉さんの目にどう映るのか、とても心配だった。


「まあ自炊もしているようだし、それほど問題はないと思うが……”出汁を引く”という言葉の意味は分かるか?」

「えっと、鰹節とか昆布とかのうま味を水やお湯で引き出す……で合ってますか」


 そう答えると、都倉さんは満足そうに笑ってうなずいてくれた。


「その辺が分かっているなら、他も大丈夫そうだな。ではさっそく、食材を触っていこう」


 都倉さんは買ってきた野菜をスーパーの袋から取り出してから、ふと何か思いついたように顔を上げ、私を振り返った。


「……包丁は、扱えると思っていいのか?」

「上手ではないですけど、たぶん普通には使えると……」

「それなら安心だ。にんじんの皮をむいて乱切りにしてみてくれ」


 私はまな板の上にあったピーラーを手に取り、都倉さんが水ですすいでくれたにんじんを受け取ると、その表面に刃を当てた。都倉さんなら皮むきも包丁でスルスルやっちゃうんだろうなあ、と思って聞いてみると、意外にもピーラーを使うことの方が多いという答えが返ってきた。


「手早くきれいに仕上げられるし、廃棄率もぐんと減る。便利な物は有難く使わせてもらっているよ」

「廃棄率ですか。そういえば、その辺のことを考えて料理したことってなかったかも」


 さすがお仕事にしているだけあって、食材への気遣いも私とは全然違うと感じながら、手を動かす。ざらざらしていた表面はつるりとつややかになり、何となく気分が良くなった。


「私、いつも皮付きのまま調理しちゃうんですよね。どうせ自分で食べるだけだからって。捨てるのがもったいないとかじゃなく、ちょっとでも手間を省きたくて」

「忙しい者にとって、余計な手間をかけず要領よく仕上げるのは大事なことだからな。本来は食べることができる箇所だし、それはそれで構わないと私は思うよ」


 決して忙しいわけではなく、できるだけ家事に時間を掛けたくないと思ってしまっているだけなんだけど、ここは訳知り顔でうなずいておく。


「だが皮がない方が効率よく火が通るし、出来上がりの見た目もいい。食べた時の歯触りもぐんとよくなるぞ」


 そう言われて、私が自分の作った料理を”普通”としか評価できないのは、こういうところなんだと思った。皮をむくというたった一手間、その気遣いだけでもおいしさの質は上がる。母の料理がすごくおいしかったのは、きっとそういう一手間をいくつも重ねてくれていたからなんだろう。

 皮をむいたにんじんは、普段触り慣れている感触とは違って滑りやすい。私は、まな板に置いたそれを左手で慎重に抑え、へたの部分に包丁を宛がった。


「ストップ、そのまま」


 都倉さんから制止の声が掛かり、刃を進めようとしていた右手の力をふっと抜く。


「包丁は柄の下の方ではなく、もっと刃と柄のギリギリのところを握ると安定するんだ。いっそ刃の根元まで握りこんでもいい。あと、まな板に向かう体の角度も……」


 そう言いながら都倉さんは私の背後へ回ると、私の右側の腰辺りに手を置いた。


「こちら側の足を半歩後ろに引いて」

「はい」

「食材を上から見下ろすように……脇はしっかり締める」

「はい」

「それから、添え手の指をまっすぐ伸ばしてしまう癖は直すこと。こう……軽く曲げて指先を引っ込めるんだ」

「はい」


 さっきから「はい」としか答えていない。不自然極まりないけれど、私は返事にバリエーションを持たせられないくらいに、目の前のにんじんを乱切りすることに集中していた。

 腰に手を当てられ、左手を包み込まれ、後ろから抱きしめられているのではないかと勘違いしてパニックに陥っているわけでは、決してない。


「切る時は、添え手の第一関節に包丁を沿わせるようにして動かすと安定する。こういった固い野菜は手前に引くのではなく、押し込んで一気に切るといいだろう」


 腰に置かれたままだった都倉さんの手が、包丁を持った右手に移動する。私は都倉さんの動きに身を任せたまま、にんじんのへたを切り落とした。


「切る大きさには注意するんだ。大きすぎると味が染みにくいし、小さいものは火の通りが早い分、煮崩れしやすい。だいたい、一口大を意識しながら――」


 と、そこで都倉さんの説明が途切れ、私もそれに合わせて手を止めた。何かおかしな動きをしてしまったのかもしれない、そう思い、次の指示が来るのを待つ。


「……?」


 なかなか先を続けてくれないことに少し不安を覚えて頭を上げた瞬間、都倉さんの気配がすっと後ろの方へ離れた。


「自分でやってみなさい。私は、ここで見ているから」

「あ……、はい」

「手元から目は離さないように」


 そう言われ、都倉さんの様子をうかがおうとして振り返りかけていた体勢を慌てて元に戻す。

 離れてくれとこちらから言ってしまうと、私が何かを意識していると思われてしまうし、かと言ってあのままだったら、教えてもらった事が一つも身につかない結果になってしまうに違いなかったので、正直助かったと思った。

 ほっと小さく息をついてから、自分の姿勢が都倉さんに言われた通りの正しいものであることを確認する。包丁を改めて握り直し、再びにんじんに刃を宛がった。







 咲葵から離れた玲は、うつむいて額に手を当てながら、後ろの食器棚に背中を預けるような体勢を取っていた。自力では立っていられない程の目眩と、若干の息苦しさを覚えたのだ。それに加え、光をいつもより眩しく感じることから、自分の瞳が赤く変化してしまっていることも玲は認識していた。

 この状態で咲葵と目を合わせてしまえば、また催眠を掛けてしまいかねない。心配もさせたくないし、何より、恐怖心を与えてしまうことを恐れた玲は、とにかく彼女がこちらを振り返ってしまわないよう、それだけを祈っていた。


「……あの、乱切りってこう、くるくる回しながら切るやつでしたよね」


 咲葵の無邪気な質問に、玲は平静を装いながら簡単な返事で答える。

 今朝、オーベルジュを出る前に、紫藤から血の供給は受けてきたはずだった。にも関わらず、激しい動機、不快な喉の渇き、赤瞳せきどうといった、渇望期と同じような症状があらわれている。摂取量不足は考えられない。そういった場合は、ただ渇望期がいつもより早く訪れるだけだ。とにかく、吸血直後にこんな状態になったことなどこれまで一度もなかった玲は、激しく動揺していた。


(……まさか)


 足先に向けていた視線を咲葵の背中に移す。しかし、湧き上がった考えを何とか打ち消そうと、玲は頭を振った。

 そんなはずはない。今までいろいろな人間と様々な関係を築いてきたが、友情や恋愛感情が血を求める気持ちに繋がったことなどなかった。ましてや咲葵に対して、自分が最も忌み嫌う感情を抱くなど――。

 玲は、唇を噛みしめた。気のせいであると断じることができれば、どれだけ良かっただろうと強く思った。しかし咲葵に対する執着心、その出どころが吸血欲求からくるものであるとすれば、これまでの理解しがたい衝動的な感情に対して説明がついてしまうのだ。


『お前は特別だ。でも、私の息子であることに変わりはないんだよ』


 玲の脳裏には、ずいぶんと昔に父親から投げつけられた言葉がよみがえっていた。

 ヴァンパイアの遺伝子は人のそれに対して劣性であることから、人とヴァンパイアの間に生まれた者は総じて人間である、というのが通説とされてきた。しかし、その通説に当てはまるはずの玲は、ヴァンパイアとして覚醒した。人の血を啜り悠久の時を生き永らえながらも、人と変わらず太陽の下を歩くことができるという、どちらの特性も持ち合わせていたのである。またヴァンパイアの吸血欲求は、基本的に恋愛感情、それが高じた先にある性的欲求と直結しているものであるが、玲にとってそれらの衝動は全く別のところから発生するものだった。つまり愛情を感じる相手イコール吸血対象者とはならず、紫藤も、今でこそかけがえのない存在となってはいるが、ドナーになる前はただの奉公人としてしか認識していなかった。こうした感情の線引きがなされていたのも、”人の子である”という部分が影響していたからなのかもしれない。

 自我を保つ為、欲望を満たす為に人の生を食い物にすることに激しい嫌悪を抱いていた玲にとって、それは心の拠り所でもあった。玲は、紫藤以外の人間にヴァンパイアである一面を見せたことは一切なく、人としての感情を持って人と接してきた。自分の中にある人の部分とヴァンパイアの部分を完全に切り分け律していることを、矜持にしてきたのだ。

 咲葵を大切にしたい、幸せになってほしいという疑似的な家族愛は、人としての思いであるはずだった。それなのに、ヴァンパイアとしての自分が彼女を吸血対象として捉えようとしている。決して混ざるはずがないと信じてきた、人の愛情とヴァンパイアの欲望が繋がってしまったのである。

 この事実は、ずっと蔑み憎んできた父親と自分が、同じ枠内に息づく生物せいぶつであるということを玲に痛感させていた。


(とにかく、今はどうにかやり過ごさなければ……)


 玲は静かに深呼吸を繰り返し、自分は既に紫藤の血によって満たされている状態であることを心と体に言い聞かせた。付け焼刃の対処ではあったが、まだ自分が紫藤を吸血対象として認識しているならば、効果はあるはずだと考えたのだ。幸いにも玲の思い付きは正しかった。心身ともに素直に応じてくれたようで、渇望期の症状は徐々に治まっていった。

 玲は最後に大きく一息をつき、体勢を整えると、そっと冷蔵庫の方へ向かった。







 ただにんじんを切っただけでこんなに達成感を覚えたのは、初めてかもしれない。


「できた……」


 まな板の上にお行儀よく並ぶ、一口大のにんじん。ランダムな切り口のせいで統一性がないはずなのに、きちんとまとまって見えるのは、同じ大きさで切ることができたからだと自負してもいいだろうか。

 丁寧に皮をむいて、大きさもちゃんと意識して。時間はいつもよりかかったけれど、見栄えは普段の何倍も良くて、すでにおいしそうに見えるのがなんだか嬉しかった。


「どうですか? 我ながらきれいな乱切りができたと思うんですけど!」


 この感動を伝えたくて後ろを振り返ったけれど、そこには食器棚が佇んでいるだけだ。いつの間にいなくなったのかと慌てていると、キッチンの奥で冷蔵庫を開ける音がした。そちらに視線を向けると、都倉さんが中を覗き込んでいるところが見えた。


「都倉さん?」

「あ、ああ……すまない、少し待ってくれ」


 いつもとは違う雰囲気を感じた私は、少し不安を覚えた。

 声が掠れているし、話し方も焦りが見え隠れしているように思えたのだ。


「どうしたんですか?」


 都倉さんは私の問いかけに答えることなく、ミネラルウォーターのペットボトルを取り出すと、一気に中身を呷った。

 やっぱり、なんとなく様子がおかしい。普段は透き通るような白い肌が紅潮して見えるし、額にも汗がにじんでいる。

 ヴァンパイアは病気にかかることはないと聞いていたけれど、病気以外のことが原因で体が不調を訴えることもあるのかもしれない。

 そう思った私は、包丁をまな板の上に置いて手を洗うと、冷蔵庫を開けっぱなしにしたままぼんやりしている都倉さんに近づいた。


「あの……大丈夫、ですか」


 覗き込むようにしながら重ねてそう尋ねると、都倉さんは少し驚いた表情を浮かべて首を傾げた。


「顔が赤いし、汗もかいているから。具合が悪いのかなと思ったんです」

「ああ、これか。これは、まあ……何でもないんだ」


 私の言葉に、都倉さんは慌てて冷蔵庫の扉を閉めながら額を拭い、曖昧に笑って視線を下へと向けた。触れてほしくないという言葉なき主張を感じたけれど、そんな誤魔化しで私が逃がしてあげるはずもなく、”正直に言ってほしいオーラ”を醸し出しつつ、じっとまっすぐに都倉さんを見上げた。


「いや、その……。昨夜少し、飲みすぎたのかもしれない」

「飲みすぎたって、お酒を?」


 都倉さんは瞳をきょろきょろと忙しなく動かし、しばらく返事に迷う様子を見せた後で、頭をやや乱暴に掻きながら小さくうなずいた。


「料理に合うワインを探していろいろ試飲していたんだ。いつもなら翌日まで引きずることはないから、大丈夫なはずなんだが」

「……」

「誓って言うが、酔いはちゃんと醒めているぞ。ただ、何となく体が重いような気がしているくらいで……」

「……」

「……体調が優れないことを隠した私が悪かった。だから、そういう目で見るのをやめてくれないか……」


 こんなに早い段階で謝るなんて、都倉さんにしては態度がずいぶんしおらしいと思った。都倉さんの頭上にデクレッシェンドマークがうっすら見えるかと思うほど、言い訳を重ねるごとにだんだん弱くなる語調も、なんと言うか、らしくない。


(なんだろ……なんか変だな)


 今日、私との約束があることを分かっていたにも関わらず、体調を崩すほど飲んでしまったことに体裁の悪さを感じているだけなのかもしれない。

 だけど、さっき包丁の扱い方を教えてもらった時、都倉さんからお酒の匂いはしなかった。あれだけ近づいても感じなかったのに二日酔いだなんて、そんなこと有り得るのだろうか。二日酔いとまではいかなくても、それなりに体調不良を起こしている、とか?


「……今日は中止にしなくても、大丈夫ですか」

「もちろんだ。そこまで無理はしない」

「じゃあ、ちょっと休憩してから続きをしましょう。切ったにんじんはどうします?」


 追及を止めた途端、都倉さんがかすかに表情を緩ませたところを見ると、やっぱり二日酔いというのは嘘だったようだ。きっと苦しい言い訳をしてでも隠したいくらいの原因があったんだろう。

 私が知りたかったのは、体調が悪いかどうかというところで、それを認めさせた時点でもう目的は達成されている。私に伝えなければいけないことなら、ちゃんと話してくれるはずだと信じて、これ以上突っ込んで聞くのはやめておこうと思った。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る