(5)
電話を終え、店の外から戻ってきた都倉さんは、私にスマートフォンを渡しながらあからさまに不機嫌な顔をしていた。詳しいことは教えてくれなかったけれど、言葉の端々から察するに、どうやら今日はオーベルジュに大事なお客さんが来ることになっていたようだ。
「じゃあすぐにあちらに行かなくても、大丈夫なんですね」
「ああ。また日を改めるそうだ」
憮然としたまま、都倉さんは面倒そうに答える。そんな様子を見て、私はほほえましい気持ちになっていた。こうやって機嫌を損ねて拗ねたような表情をしているところが、なんと言うかすごく……。
「何がおかしいんだ?」
声を殺し、うつむいて肩を揺らす私に、都倉さんは更に不愉快さを募らせているようだった。
「ご、ごめんなさい。だって都倉さん、あまりに不機嫌な顔をしているから」
「当然だ。せっかくの君との時間を、まさか君自身に邪魔されるとは思ってもみなかったからな」
邪魔をしたつもりなんて、これっぽっちもない。初めからこうやってちゃんと対応していれば、こんなややこしいことにはならずに済んだ話なのだし、そもそも先約をすっぽかしたのがいけないのだ。だけど……。
「今日、都倉さんに会えてよかった」
ついさっき運ばれてきた、食後のコーヒーに手を伸ばしながら私がふとそう呟くと、都倉さんは少し驚いたように眉を上げた。
「さっきは私を諫めていたのに、よく言う」
「確かに、そうなんですけど。でも都倉さんの意外な一面を知ることができて、こう……距離が縮まった気がして」
「意外な一面?」
都倉さんは眉根を寄せて何事か考えるようにしながら、あごに手をやった。
「一つ聞いていいか」
「はい」
「君の目に、私は一体どう映っていたんだ」
気遣いが細やかで、所作がとっても雅で、嫌味なく”紳士的”っていう言葉がぴったりの、どこにも短所なんてなさそうな人。そう伝えると、都倉さんはそんな風に振舞った覚えはないとでも言うかのように、小さく首を傾げてさらに深く考え込んでしまった。
「では、今日その印象が変わったと?」
「いえ。今言ったのが基礎にあるとしたら、そこに心配症で突っ走るタイプ、ちょっとわがままっていうのが加わった感じです」
「……一気に短所が増えてしまったな」
「あ……」
そう言われてみれば、そうだ。今日会って新しく知ったのは悪い部分ばかりだと気付いた私は、また笑いがこみ上げてくるのを感じた。
「君はよく分からないところで笑うんだな。何がそんなに面白いんだ」
「私にしか見えないものがあるんですよ、きっと」
あいまいな表現だけれど、間違ってはいないはず。だって、都倉さんから都倉さん自身のことは見えないのだから。
都倉さんは私の要領の得ない答えに再び首をひねりながらも、ようやく笑顔を見せてくれた。
◇
お店を出た後、本当はそのままオーベルジュへ向かってほしかったけれど、マンションの前まで送ると言って聞かない都倉さんを説得するには時間がかかりそうだったので、それなら素直に申し出を受け入れて少しでも早くあちらに到着してもらおう、と考えを切り替えた。
今日は険しい顔をさせてばかりだったし、別れ際くらいは気分良くなってもらいたいという気持ちもあったのだけれど。
「今日は、申し訳ないことをした」
「え……」
そんな私の思いとは裏腹に、車に乗り込むなり都倉さんは小さくそう呟いた。唐突な謝罪にうまく答えることができず、私は驚き目を見張って、少し沈んだ様子の都倉さんを見つめた。
「予定外の勝手なことをすれば、どこかにしわ寄せがいくのは分かっていた。だがそれを承知しても尚、君に会いたいと思う気持ちを抑えきれなかったんだ」
自分の都合で動けば迷惑を被る人がいる、そういうことを理解できない人ではないとは思っていた。分かっていても、正しい方を選べなかったのは……
「私が、心配させてしまったから」
こぼした一言に都倉さんは、そうではない、と続ける。
「さっきも言ったが、勝手に不安になったのは私の方だ。それを払しょくしたくて、君が負担に感じることも厭わずに衝動に身を任せてしまった。ただそれだけのことなんだよ」
都倉さんはそこまで言ってから、ハンドルに置いた手をじっと見つめた。
「言い訳がましくなってしまったな。こんな情けないところを見せないよう、今後は気を付けるよ」
きっと自分に呆れているのだろう、そう思わせるような笑みをこちらに向けてから、都倉さんはエンジンのスターターボタンを押し、ゆっくりと車を発進させた。
何か行動を起こしてから反省するその姿は、まるで父のようだと思った。いつも気持ちのままに突っ走ってやりすぎてしまい、落ち着いたところで急に周りの状況が見え始める。そうなるともう自分の行動すべてが愚かしく感じて、自己嫌悪に陥いってしまって……。
そんな父と長く向き合ってきたからこそ感じたのは、私の対応のまずさだった。父もすごく心配症で、何かあれば――何もないならそのことを連絡するように、といつも言っていた。ただ、例えば今日のようなことがあった時、父なら、私の『大丈夫、心配しないで』という報告を言葉通りに受け取り、信じて任せてくれる。大切な用事を放り投げてまで私に会いに来るとすれば、はっきりと助けを求めた時だけだ。
都倉さんは勘のいい人だから、私が普段、周りに気を遣わせないよう気を遣っている、ということを見抜いているんだろう。だから今日送ったメッセージも深読みされて、額面通りに受け止めてもらえなかった。私がやるべきは、何もないことを連絡するということではなく、まずはその言葉を信じてもらえる関係を築くことで、今の段階で父にしていたのと同じように対応してはいけなかったのだ。
「私も、気を付けます」
前を走る車のテールランプを、規則正しく左右に揺れるフロントワイパー越しに見つめながら、私はそう呟いた。
「……君は悪くないと言っただろう」
「もちろん、都倉さんのこともちゃんと悪いと思ってますよ。先約があるのに心配だからって私に会いに来るなんて、優先順位の付け方を間違ってます」
「……」
「こうやって本心をはっきりと言わないから、いけないんですよね。だから誤解を招いたり、いつまでも問題が解決しなかったりして」
都倉さんとのことだけじゃない。私は浅野くんや、その取り巻きの女子社員達に対してもそうやって心を閉ざしてきた。意見を違えなければ波風は起きないわけで、でも相手と完全に思いを一致させることはできない。だから、いつも黙っていた。こんな私でも受け入れてくれる人は多少なりともいるし、突っかかってくる人だって、打っても響かない私に構うのは時間の無駄だと諦めてくれる。動こうとしないせいで自分が悪者になっていると分かっていながらも、自分が悪いで丸く収まるならそれでいいと、そう思っていた。
その結果が、今の私が置かれている状況だ。迷惑を掛けたくない思いが結局迷惑を掛けることに繋がり、いつか過ぎ去ると信じた嵐も止む気配を見せるどころか風当たりが強まってしまった。
「気を遣わないでいるのは無理かもしれないけど……でも、大事な時に本音を覆い隠さないように、今後は気を付けようと思います」
私が決意も新たにそう言うと、都倉さんは前を向いたまま笑いをこぼした。
「君も、私に負けず劣らずひねくれているようだな」
「ひ、ひねくれては……いないと思うんですけど」
「そう思っているのは本人だけだよ」
悪意をひしひしと感じるその微笑みがちょっと腹立たしいのに、はっきり否定できないのが悔しくて、私はそっぽを向いて窓の外の景色に目をやった。
自分が住む町の風景は見慣れているはずなのに、今日は雨が降っているせいで光がぼやけるからか、いつもより綺麗に見える。
「この時間が、もう少し続けばいいのになあ……」
「何か言ったか?」
なんとなしに呟いた独り言を都倉さんに拾われてしまい、内容までは伝わらなかったことにほっとしつつも、私は必死で首を横に振った。今のは、町の光が雨に滲んで流れる様子を見たいという、ただそれだけの気持ちから漏れ出た言葉だ。だからそう、都倉さんともう少し一緒にいたいだとかいうことでは――
(私、今日は自分に言い訳してばっかりだな……)
そっと深呼吸をして、早鐘のように鳴り始めた鼓動を落ち着かせる。都倉さんはそんな私の様子に気づくことなく、とりとめのない話を色々としてくれた。それに答えたり笑ったりしている内にあっという間にマンションに到着し、私は名残を惜しむ様子を見せないように、早ばやと車を降りた。
「今日は、ありがとうございました」
開いた助手席の窓から車内を覗き込み、頭を下げる。
「次に会うのは来週、ですよね」
念を押すようにそう言うと、都倉さんは苦笑しながら小さく何度もうなずいた。
「もう勝手に会いに行ったりはしないさ。また、連絡するから」
「はい。……あ、オーベルジュには気を付けて行ってください。寄り道しちゃだめですよ」
私の忠告には答えないまま、都倉さんはちらりと私を横目で見て笑みを浮かべると、おやすみ、と一言残して行ってしまった。
「まっすぐ向かってくれなさそうだな、あれ……」
車が走り去るのを見届けてから、そう独り言ちる。
マンションへ入り、郵便受けのダイレクトメールなんかを回収して、私は自室へと向かった。誰もいない部屋は当然暗く、今日は天気の影響もあってかとても寒く感じる。私はバッグを一旦廊下に置いて、まずはお風呂場へ向かった。今日はちゃんと湯船に浸かりたい、そんな気分になったのだ。
お弁当箱や朝食で使った食器を洗いながら、明日のお弁当の献立を考える。今夜は外食したので残り物を使うことはできないから、少し手間のかかりそうなものは今から用意しておこうか。それとも、冷凍してあるおかずのストックをたくさん使って楽をしてしまってもいい。
壁掛け時計を見上げ、時間を確認する。もうすぐ八時だ。掃除機をかけるかどうか少し迷う時間帯だったので、今日のところはコロコロするやつとモップで済ませることにした。
「ふー……」
お風呂にこうしてゆっくり浸かるのは本当に久しぶりで、思わずため息が漏れ出た。美容にもいいから夏場でもちゃんと入った方がいい、と芹香から聞いても、自分に手間をかけるのは面倒でしかないと感じていたせいか、今日のような寒い日や冬以外で湯船に入ることはなかった。
湯気で白くけぶる浴室の天井を見上げながら、そう言えば、私は私を喜ばせるためのことを何一つやってこなかったなあ、とふと思った。
両親がいたころは、家の中はもっと温かくていい香りのする場所だった。音楽が流れていたり、季節の花が活けられていたり、お料理に使う為に育てていたハーブが、おしゃれなインテリアかのように並べられていたり。言い方はあれだけど、無駄なものがたくさんあったあの頃は、生活そのものが癒しにあふれていたように思う。だけど今はどうだろう。
綺麗な調度品に心動かされたりするのに、自宅の家具や家電は機能的なところだけを見て揃えている。映画を見るのが好きな割に、DVDはすべてレンタルで済ませているからコレクションが部屋に並ぶこともない。一度は何かを始めようとしたけれど、すぐに結果が出ないからと、全て中途半端なままで放り投げたままだ。
徹底的にものを排除した手間のかからない空間で、本来の自分が求めるものとはかけ離れた生活をしていることに気付いた瞬間、自分のことが味わいも深みもない、本当につまらない人間のように思えてならなかった。
「……大丈夫、焦ることない」
そう声に出して、ざわつき始めた胸の内をそっと抑える。今までは、心が潤うディテールを生活に加えられるほど気持ちに余裕がなかった。ただ生きるだけ、そこに向き合うことで必死だっただけなのだ。その過去があるから今の気付きがあるわけで、気付いたのなら、今から始めたって遅くはないはず。
「よし! ちょっと色々調べてみよう」
自分を癒す方法、その空間の作り方。何もない今の状態からなら、どんなことだってプラスになるに違いない。この気持ちが冷めない内にと、私は勢いよく湯船から上がった。
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