(4)




 小さな児童公園の脇を通り過ぎ、そこの角を曲がれば自宅のあるマンションにたどり着く、というところで、私は立ち止まった。見覚えのある高級車が路肩に停められているのに気付いたのだ。


(……いやいや、まさか。だって今は開店準備で忙しいって言っていたし)


 私は思いついた可能性を打ち消すように頭を振って、そのまま帰路を急ごうとしたその時。


「咲葵!」


 後ろから声を掛けられ、私はびくりと肩を震わせて立ち止まった。ゆっくり振り返ると、その高級車から都倉さんが大きな傘を差しながら降りてきていて、まさかそんなはずは、そう思っていたことが現実化したとき人は声が出なくなるんだと実感した。


「とっ、都倉さん、どうしてここに?」


 詰まる声をなんとか振り絞ってそう尋ねると、都倉さんは困ったように微笑んだ。


「メッセージを読んですぐに飛んできたんだ。倉木がこんな早い段階で君に接触するとは思ってもみなかったし、あの文面だけでは君の様子が分からないだろう。急なことで独り怯えたりしていないかと思うと、居ても立ってもいられなくて」

「……」

 

 確かに、都倉さんは私を守ると言ってくれた。辛い時、苦しい時はすぐに駆けつけてくれる、と。だからこそ私は、倉木さんと会った、ということを、余計な心配を掛けまいとして事務的に報告したのだ。自分は何ともない、大丈夫だという言葉も付け加えてアピールもした。すぐに既読がついて『分かった』という短い返信があったから、大したことではないと受け取ってくれたと思ったんだけれど。


「こういう事はすぐに伝えた方がいいかと思って連絡したんです。何だか、逆にご心配掛けてしまったみたいで……すみません」

「勝手に心配して勝手に会いに来たのは私の都合だから、君は気にしないでくれ。とにかく、何もなかったようでほっとした」


 都倉さんはそう言うと、ちらりと腕時計を確認した。


「夕食は、もうどこかで?」

「いえ、まだです。今日は家で簡単に済ませようかなと思っていました」


 そう答えると、都倉さんは私を自分の傘に引き入れながら私の傘を取り上げ、軽く振ってから片手で器用に折り畳んでしまった。


「あ、あの、」

「せっかくだから一緒に食べよう。良い店を知っているんだ」


 都倉さんはにこやかに言いながら、私の折り畳みを自分の手首にかけ、自然な流れで私の肩に手を回した。そのまま車の方へ誘導される形で歩き出したけれど、私は当然のごとく、右手と右足が同時に出てしまうくらいに心も体もガチガチになってしまったわけで。


(……えー……、これ、は)


 そう、これはあれだ、別に深い意味があって肩を抱……肩に手を置いているんじゃない。ただ雨が当たっていないかどうか分かるようにしているだけなんだ。それによって傘の角度を変えたりとか、こう、被せる面積を変えたりだとかしようとしてくれているだけなんだ。深い意味なんてない、深い意味なんて……。


「……」

「どうした?」


 急に立ち止まってうつむいた私を、都倉さんが心配そうにのぞき込んだ。

 だめだ。このまま都倉さんのテリトリーに引き込まれてしまったら、私きっと行っちゃいけない方に心が向かってしまう。

 そう思った私は、都倉さんの言う”いい店”ではなく、もっと別のところでの食事を提案することにした。







 自宅マンション近くにあるこの洋食屋は、ずいぶん昔からある古いローカルなお店で、間接照明として取り入れられているエジソン電球や、レトロモダンな調度品を眺めるのが好きでよく通っている。もちろんお料理もおいしくて、とくにビーフシチューが私の一番のお気に入りだと言うと、都倉さんも私と同じものを注文してくれた。

 都倉さんと向かい合ってそのビーフシチューを食べながら、さっきの出来事を詳しく説明する。心配させたくないというだけでなく、メッセージはCROに全て筒抜けになってしまうので、事細かに報告するのは控えた方がいいと判断して『倉木さんから申請書を受け取ったから後日渡したい』といった内容しか伝えていなかった。だから、早いうちにこうして顔を合わせてちゃんと話せたのは良かったのかもしれない。


「あいつの思考は読めないからな。何か企んでいるのだとは思うが……しかし、情報を引き出せたのは大きいぞ」

「そう、ですね」

「よく機転を利かせてくれた。素晴らしい判断だったと思うよ」


 都倉さんに手放しに褒められて、頬が若干あつくなっていくのを感じる。このお店が私のよく行くところではなく、都倉さんおすすめのたっかいレストランとかだったら、緊張も相まって軽くパニックを起こしていたかもしれない。今回は辞退して良かったと思った。


「しかし、CROの手が咲葵にも及んでいたとは……留美が感じていた懸念は、杞憂には終わらなかったというわけか」

「母の懸念……?」

「とにかく、この件についても詳細を探る必要がありそうだな。仁哉の事に繋がるヒントにもなるかもしれない」


 私が聞き返したことには答えず、都倉さんはそう続ける。私の声が聞こえなかっただけかもしれない。でも、なんだか故意に流されたような気がして、思わず都倉さんをじっと見つめてしまった。


「……そう熱心に見ないでくれないか。食べにくいのだが」

「あ……す、すみません、つい」


 昨日もこんな風に困らせたな、と思いつつ、私が恐縮しながらそう言うと、都倉さんは眉根を寄せて何か考え込むような様子を見せた。


「咲葵、君は……」

「え?」

「……いや、何でもない」


 都倉さんは誤魔化すように炭酸水に手を伸ばし、私から目を逸らしてしまった。

 なんだろう、何を言いかけたんだろう。すごく気になる。けど……。


「とりあえず、君は何も知らない体でいつも通りに振舞ってほしい。こういった事実が分かった後では難しいかもしれないが」

「はい、分かりました。がんばってみます」


 都倉さんが言いかけたことを深追いすることもなく、私はそう答えた。たぶん、この返事が間違っていたわけではないと思う。なのに、なぜか都倉さんは険しい表情をしたままだ。

 気付かないところで礼を失したのかもしれない、そう思って口を開きかけたところで、都倉さんのスマートフォンがまた震え出した。

 何度目かは分からないけれど、さっきからけっこうしつこく鳴り続けている。テーブルを挟んで向かいに座っている私がマナーモードの振動音で気付くくらいなのだから、都倉さんだって鳴っているのは分かっているはずなのになかなか出ようとしない。


「電話、鳴ってますよ」

「ん、ああ……」


 はっきり声を掛けたにもかかわらず、誰からの着信かすら確認しようとしないその様子は、私がさっきから抱いている不安が現実のものであるという可能性をぐんと高めてしまった。


「都倉さん、今週はお店にこもりきりになるって言ってましたよね。こっそり抜け出してきたんですか?」

「抜け出してはいない」

「じゃあ、あっちに向かう途中で引き返してきたとか」

「……」


 答えない。目も合わせない。決まりだ。

 私はため息をついて、スプーンを置いた。


「暮野さんも奥平さんも、きっと困っていますよ」

「おおかたの指示は出してあるし、君が来た時と違ってスタッフも多く配している。私が居ようが居まいが状況はそう変わらないさ」

「変わらないなら、そんなに電話が鳴ることはないと思うんですけど」


 私の言葉に、都倉さんは渋々といった感じではあったけれど、ようやくスマートフォンの画面と向き合ってくれた。……と思ったら、そのまま電源を落としてしまった。

 亜人の持つ通信機器は全てCROが管理していて、そこから本人位置情報も把握している。こんな風に事前に連絡もなしに電源を切ると、エージェントが状況確認の為に信号が途切れた場所にやって来てしまうから注意が必要だ、と説明をしてくれたのは都倉さんだったのに。


「どうして切っちゃうんですか? そんなことしたら」

「心配しなくても、これは私が個人的に用意して使用しているものだから、大丈夫だ。奴らの管理下にあるものは車に置いてきた」

「私が心配しているのはそれだけじゃないです。今のが急ぎの連絡だったらどうするんですか」


 エージェントと無駄に関わりたくない、という個人的な心情が働いていることを差し引いたとしても、仕事においてその対応がとても良くないものであることはさすがの私でも分かる。だから私は語気を強めて嗜めたけれど、都倉さんは全く気にしていないようで、澄ました顔でビーフシチューを味わっていた。


「ねえ、都倉さんってば」

「さっきも言った通り、店のことは心配ない。何か問題が起きたとして、それに対処できないスタッフしか揃えられなかった私が責任を負うだけだ」

「そんな事態にならないように、ちゃんと連絡は取れるようにしておくべきだと言っているんです」


 クリスタル風のカトラリーレストに、スプーンが乱暴に置かれる。カシャン、という金属の高く不快な音は意外と大きく響き、私は思わず肩を震わせた。


「今の着信は、私のプライベート関係の人間からのものだ。それでも君は、応答すべきだったと言うのか?」


 わずかに怒気を含んだその声音に、私は手を硬く握りしめながら口を引き結んでうつむいた。都倉さんが店の事を放ってきたという状況や、これまでの会話の流れから、勝手に電話の相手は暮野さんや奥平さんだと思い込んでいた。でも、全然関係ない人から掛かってきていた可能性だってあったはず。都倉さんはただ、私との時間に水を差さないよう、気遣ってくれただけだったのかもしれないのに……。


「ご、ごめんなさい。私、てっきり」


 一方的な勘違いから差し出がましく口出ししてしまったことを悔やみつつ、私は視線を下へ落としたまま、謝罪の言葉を口にした。


「心配してくれたことは嬉しいよ。だがせっかくの食事なんだ。君も余計なことは気にせず、この時間を素直に楽しんでほしい」


 都倉さんにいつもの優しい口調でそう言われ、再びスプーンを取り上げようとした、その時だった。


「あ……」


 今度は私のスマートフォンが着信を知らせて鳴り始めた。どうやらマナーモードにするのをすっかり忘れていたようで、鳴り響く着信音が店の雰囲気を台無しにしてしまっている。


「す、すみません。すぐ切ります」


 カバンを探り、そっと画面を確かめる。そこには”la lune”というオーベルジュの店名が映し出されていて、私は切断ボタンを押しかけていた指の動きを止めた。


「……都倉さん」

「どうした?」


 着信音が鳴り続けるスマートフォンを、都倉さんの方に向ける。


「私が出た方がいいですか。それとも、都倉さんが出ますか」


 都倉さんは黙って画面を見つめていたけれど、観念したように大きくため息をついた。


「紫藤のやつ、咲葵の方に掛けてきたか……くそ」


 額に手を当てながら、がっくりと項垂れる。やっぱり、さっきから都倉さんの電話を鳴らしていたのは暮野さんだったようだ。


「私が出よう。こちらに寄越してくれ」


 そう言われて素直に渡そうとしたところで、私は慌てて手を引いた。


「電話、ちゃんと出ますか」

「……何?」

「私のスマホまで電源を切って取り上げたりしないって、約束してくれますか」

「……」


 一瞬、表情が固まったのを見逃さなかった私は、一旦は自分で着信に応えることにした。





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