(3)
「なんかあった?」
玄関ホールへ向かうエレベーターに乗り込むや否や、心配そうに、というよりはわくわくしたような表情で芹香がそう尋ねた。さっき浅野くんとちょっとした小競り合いをしていたところを、仕事に戻れ、という上司命令で助けてくれた時もこんな顔をしていたように思うのは気のせいだろうか。
「あんな言い合いをするつもりはなかったんだけど、ちょっとカチンときちゃって……ホントにごめん」
迷惑をかけてしまったことに恐縮しながらそう答えると、芹香はそうじゃなくて、と続けた。
「ああやって言い返せるくらいのガッツが咲葵にあったなんてびっくりしたから、何かきっかけでもあったのかなあって」
「あー……」
都倉さんに聞かせてもらった両親の話。その時に知った両親の私への思いが、私の心に大きな変化を与えてくれたのは間違いない。だけど、それを芹香に詳しく話すことはできないから――。
「やっぱり、リフレッシュしてきたからじゃないかな。いつもと違う時間をのんびり過ごして、自分と向き合えたっていうか」
「ホントにそーお? 土曜日に会った時は話してない、もっと具体的なヤツがあるんじゃない?」
嘘ではない、ただ大事なところははっきり言わずにおいたのだけれど、芹香はどうも納得していないようで、というか、私の言葉をどうも自分なりに面白くなるように解釈しているような、そんな雰囲気が感じられる。
妙な誤解の芽は早いうちにつぶしておこうと、私は強めに首を横に振って否定した。
「具体的も何も、本当にあの時話したこと以外は特にないって。素敵な場所でおいしいお料理を食べて……それ以外には」
「まあ、今日のところは勘弁しといてあげる。ホントはどんな人か今すぐ聞き出したいとこだけど、まだ今日は仕事終わらなそうだし」
「どんな、ひと?」
ぎくりとして、思わず顔を強張らせる。芹香は何か知っているのかもしれない、一瞬そんな不安が湧きあがったけれど、芹香の嬉々とした様子と、分かってるくせに! なんて言いながら意味ありげに私を肘で軽く小突くその態度で、不安は杞憂だったことを悟った。
「だーかーら。旅行先で出会ったんでしょ? 素敵なイケメンに!」
……ああ、やっぱりね。そんなことだろうと思った。
「とりあえず、明日! 夕飯一緒に行こう」
エレベーターの扉が開き、私は芹香を残して一人で降りながら、深くため息をついた。
「夕飯は構わないけど、話すことなんて本当にないよ? 素敵なイケメンにも……別に出会ってないし」
いわゆるイケメンなら二人ほど本当は出会ってはいるけれど、一応こちらも伏せておくことにしてそう答える。……まあ、分かっていはいたけれど、芹香がそんな私のおもしろくない言葉を信用するはずもなく。
「いーや、絶対出会ってる。明日聞き出してやるから、覚悟しときなさいよ!」
閉まる扉の向こう側で、芹香はいい笑顔を見せながら見送ってくれた。私も苦笑いを浮かべながら手を振って答えつつ、閉まった扉をしばし見つめる。
「どう言えば納得してくれるんだろ、あの子……」
恋愛話が大好きで、そっち方面の勘はかなり働くと本人は言っていたけれど、無理やり自分の楽しい方向へ持って行っているような気がしてならない。明日、うまく躱せるといいんだけれど。
「わ、寒っ……」
正面玄関のドアを開けたとたん、流れ込んできた冷気に身震いしながら、夜空を覗き込む。雨は予報通りに降り出していて、街道を行き交う人たちも冷たい空気に身をこごめるようにしている。
勇気を出して外へと足を踏み出し、カバンから折り畳み傘を取り出して広げようとした、その時だった。
「こんばんは」
真正面から声を掛けられて顔を上げると、ビニル傘を差し、真っ黒なパンツスーツを着た女性が私に微笑みかけていた。
「こ、こんばんは」
反射的に返答をしたけれど、見覚えのない人だ。私が忘れてしまっているだけかも、そう思って記憶を探るけれど、やっぱりその女性の顔も声も脳内には見当たらない。同じオフィスビルに入っている別会社の人、という可能性もあるけれど、何と言うか、普通の世界の人ではないような雰囲気がひしひしと伝わってきており、私は表情を硬くした。
「そんなに緊張なさらないで。今日はちょっとご挨拶に伺っただけですから」
行き交う人の波が、不意に途切れる。喧騒の中にぽつりと湧いた静寂は不安を更にかき立て、私は何も答えられずに、ただじっと彼女の冷たく光る目を見つめ返した。
「私、
「……!」
その名前に聞き覚えのあった私は、首を横に振った。
「都倉さんの、担当エージェントの方、ですよね」
私が小さくそう言うと、彼女――倉木さんは表情を変えることなくうなずいた。
「彼、もうあたしのことまで紹介してくれてたのね。嬉しい限りだわ」
髪をかき上げ、けだるそうな仕草をしながら、まるで私を挑発するかのような視線を投げかける。私は、この目をよく知っていると思った。浅野くんに思いを寄せていて、私のことを疎ましく感じている彼女たちも、よく私にこんな目を向けてくるのだ。
「あの……倉木さん、私のことは」
「もちろん調査済みよ、帆高咲葵さん。短大卒業後にここに入社して、今年で四年目だったかしら。
普段は名前で呼び合う仲だというアピールだったり、何かしらの関係性をチラ見せする意図をひしひしと感じる”昨夜”というタイミングだったり、私に対する牽制のジャブを繰り出しているとしか思えない言葉は置いておくことにして、CROの私への接触が、都倉さんから聞かされていたものとずいぶん違うことに違和感を覚えた。
本人からの申し入れを除いて、CROが亜人との関係性を認めるまでには調査が必要で、それはどんなに早くても二、三日くらいはかかる。そしてその後、正式に
私に関する詳しい情報がCROに握られているのはまだ納得できるとして、こんなに早い段階で事前の連絡もなく、急に私に接触してきたのはなぜだろう。私が元CRO局員の家族だったから、手順が省かれてしまった? それとも、両親が過去CROに与えた影響を鑑みて私のことを警戒している?
理由はいろいろ考えられるけれど、とにかくあまり大きく動かない方がいい。私の行動次第では、父の事に関する調査に悪い影響を与えてしまうかもしれないからだ。
「何か、ご不満でも?」
倉木さんが、少し苛ついたような声で問いかける。私は顔をあげて小さく、いいえ、と答えた。なるべく穏便にこの場を収めようと思ってそう返答したけれど、納得はしてもらえていない様子だ。目を据えて睨みながらため息をつき、私に何かしら返答するように促している。
何か探りを入れているのか。それとも、私と都倉さんの関係を勘違いして一方的に敵視しているようだし、私の一挙手一投足が気に入らないだけなのか。とにかく挑発に乗るのは危険だから当たり障りのない答えを、そう思ったけれど、すぐに考えるのをやめた。いっそ踏み込んでしまった方がCROの意図を引き出せるかもしれない、と思いついたのだ。
「不満はないですけど、不信感なら抱いています」
倉木さんは意地悪く細められていた目をわずかに見開き、眉を上げた。さっき浅野くんと言い合いをした余韻もあってか、言葉が勢いづいているというか、このままだとちょっと攻撃的になってしまいそうだ。ケンカ腰では聞けるものも聞けなくなってしまう。私は少し冷静になろうと、咳ばらいをして一旦間を置いた。
「今日、こうしていきなり何の前触れもなく私に接触してきたのは、正規の手順を踏んでいますか? もしそうでないのなら、イレギュラーな対応をした理由を聞かせてほしいのですが」
私の質問に、倉木さんは答えない。口の端を上げて挑戦的な笑みを浮かべているだけだ。
「お答え頂けないのなら、今日はお引き取り下さい。何か聞かれても、私は何も答えません」
私がそう言って、折り畳み傘を開いて足早にその場を後にしようとした、その時。
「帆高さん、ご両親とCROの関係は知っているのよね?」
そう尋ねられ、振り返らないまま立ち止まる。ふわり、と甘く妖艶な香水の匂いが私の鼻孔をくすぐり、私はその香りのする方に視線だけを向けた。
「……何も答えないと言ったはずです」
「答えてくれたら、あたしも教える。どうなの?」
私の横に並び、顔を覗き込む。私は小さく息をついた。
「知りませんでした。昨日、都倉さんが話してくれるまでは」
知らなかったなんて信用できない、と返されるかと思ったけれど、倉木さんは意外にも私の言ったことを受け入れたようだった。面白いものを見つけたかのように微笑みながら、何事か考える様子を見せている。
「……あの、」
「帆高さん、あなたずっとカラスから見られていたのよ。とても熱心にね」
驚いて振り返ると、倉木さんは口元に人差し指をあてる仕草をしてみせた。
「二年前までは
二年前と言えば、母が亡くなり、私とCROとの関連性が失われた時期だ。その時点で地方局は私から手を引いていたけれど、中央局がどう対応していたかは分からない、ということだろう。ただ、倉木さんの話すニュアンスからして、私は最近まで――今もなおCROから監視をされていると考えて間違いない。今の時点で亜人ともCROとも関係のない人間を監視するなんて、権利を逸脱した行為だ。
「局員が亡くなった後も、その家族はずっと監視下に置かれる決まりでもあるんですか?」
そんな規則はないことは分かっていて、あえて尋ねてみる。倉木さんはおかしそうに笑いながら、まさか、と続けた。
「半年の動向観察期間はあるけれど、それ以降は監視対象から外されるわ。その期間はとっくに越えているはずなのに、おかしな話よねぇ」
倉木さんはそう言うと、私に一通の封筒を差し出した。
「申請書。亜人との関わりを認める、ってヤツよ。直筆でサインして、都倉さんに渡しておいてちょうだい」
「……それって、後日送られてくるはずだった書類じゃ」
「今日、イレギュラーに接触したのはあたしの独断なの。勝手なことをしたら最悪クビが飛んじゃうから、
それはつまり、本人からの申し入れがあったから全ての手順を前倒しにした、とつじつま合わせをしろということだろう。
私は迷った挙句、その封筒を受け取った。
「思ったより面白い子ね、帆高さん。玲をやすやす渡すつもりはないけれど、楽しい関係が築けそうで嬉しいわ」
倉木さんは営業スマイルを浮かべてそう言うと、静かに私から離れていった。振り返ったその後ろ姿は、すぐに雨の降りしきる雑踏の中に消えていった。
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