(2)




 少し小走りで会社に向かったせいで乱れた呼吸を整えるために、正面玄関の前で一旦立ち止まってから、大きく深呼吸をしてドアを開ける。浅野くんからの急襲をなんとか凌いだ私は、無事に到着することができたことにほっとしながらも、別の心配事があることを思い出してまたどんよりと心が曇り始めるのを感じた。

 もしかしたら、誰も挨拶を返してくれないかもしれない。給湯室の冷蔵庫に入れる予定の『皆さんでどうぞ』とメモを付けたお土産のお菓子も、手を付けてくれないかもしれない。デスクには、仕事の書類がありえないくらい高く積まれているかもしれない。むしろ私の席はもう別の誰かが座っていて、居場所なんてなくなっているかもしれない。

 午後出勤の翌日から急に休んだりしたんだから、それなりのしっぺ返しがあるはず、という覚悟をして総務部のフロアに足を踏み入れたのだけれど。


帆高ほだかさん、おはよ」

「お、はようございます」


 いつも通りの軽い感じで、仲村なかむらさんが声を掛けてくれる。

 昨夜から、思いつく限りの”社内でのつらい状況”を頭の中に並べておいたせいか、休む前とほとんど変わりない様子に拍子抜けしてしまった。


(いや、まだ分からない。みんないい大人だから表面上はうまく取り繕ってるけど、見えないどこかに私の悪口が書いてあったりとか……)

「おはよう」

「おはようございまーす」


 後から来た経理の二人が、私にさわやかに挨拶をして各々のデスクへと向かう。彼女たちは私が休む直前から有給休暇を取っていたせいか、なんだかずいぶん久しぶりに顔を合わせるような気がした。


「あ、あの」

「んー?」


 先に席についていた仲村さんにそっと声を掛けると、タンブラーでコーヒーを啜りながらこちらを振り返った。


「すみませんでした、急に休んだりなんかして……。忙しくなるって分かってたのに、ご迷惑でしたよね」


 マイナス思考をフル回転させて脳内に連ねたのは、何も自身への冷遇の具体例だけじゃない。周囲の反応がどうあれまずは謝罪から入るべきだ、そう考えていた私は、まず一番しわ寄せが来たであろう先輩の仲村さんに頭を下げた。


「なーんだ、意外と普通」

「へっ……?」


 茶化すように言いながら微笑む仲村さんに、私は間抜けな声を上げた。


「帆高さんのことだから、『この度は申し訳ございませんでした、腹を切ってお詫びを~!』とか言いながらひれ伏すぐらいのことはしそうだと思ったのに」

「……それは振りですか」

「アハハ! いやいや……。……やめてね?」


 やりません。


「まあねー。ホント大変だった! っていじめたいとこだけど、新山にいやま部長が全面的に帆高さんの分カバーしてくれてたから」

「えっ、部長が直々にですか?」

「そーそー。経理の方もあらかた片付いたし、私自身の体感では、帆高さんの休暇が原因で業務に支障が出たことはなかったよ」


 ホントに部長さまさまだわ~、と言いながら、仲村さんは腕組みをしてウンウンうなずいている。

 仕事は早くて的確だって他部署から評判だし、私も近くで見ていてそう感じていたけれど、まさか自分の業務もこなしつつ私のカバーも完璧にしてしまうなんて、彼女の言う通り”部長さまさま”だと思った。

 けれど……。


「私、まだこの部署の仕事任せてもらえますかね……?」

「確かに、こんだけ有能っぷり見せつけられると自分の立場が心配になるよねぇ」


 仲村さんも同じように思っていたのか、困ったように笑いながら私の肩にポンと手を置いた。


「今のとこ辞令は出てないし、大丈夫だと思うよ! とりあえず、部長にご挨拶してきたら? 有能とは言ってもやっぱり負担はそれなりにあっただろうからさ」


 そう言って、フロアの入り口に目を向ける。視線を追うように振り返ると、そこにはちょうど部屋に入ってきた新山部長の姿があった。

 きびきびとした足取りにまっすぐ伸びた背筋は、いつもと変わらないようにも見える。だけど、眉間に寄せられたしわが表情を普段よりさらに厳しいものにしていて、私は思わず息を呑んだ。


「なんだか、今日は機嫌が悪そうですね」

「そう? いつもあんな感じじゃない?」

「ええー……普段はあんなに怖い顔じゃないと思うんですけど」

「普段から怖い顔してるよ~」

「声が大きいです……!」


 仲村さんの失礼すぎる発言が本人の耳に入ってはしないかと、私は再び部長の方を振り返った。


「……呼んでるよ」

「そうみたい、ですね」


 すでに着席していた部長が、パソコンに向かいながらもこちらに視線だけを向け、小さく手招きをしていた。多分、状況から考えて呼ばれているのは仲村さんではなく私だろう。

 私はまだ肩にかけたままだったトートバッグをデスクに置き、部長の席へと向かった。


「おはようございます」

「ええ、おはよう。リフレッシュはできた?」

「あ、は、はい。その節は本当にありがとうございました。急な申し出だったのに、受け入れてくださって……。それに、」

「そのことだけど」


 仕事のフォローをして頂いたことへの謝辞を口にしようとしたところで、部長が眼光を少し厳しくしながら私に人差し指を向け、私の言葉を遮った。


「いくら仲が良くても、他部署の課長に余計な気遣いさせちゃだめよ。自分の心身の管理は自分でするように」

「……はい、肝に銘じます。申し訳ありませんでした」


 他部署の課長、というのは芹香せりかのことだ。私に代わって有給休暇の打診をしてくれたことを言われているのだろう。叱られることは分かっていたけれど、やっぱり自分をコントロールできない未熟さを指摘されると落ち込んでしまう。私は一旦、自分のつま先を見つめてから、そのまま深く頭を下げて謝罪した。


「プライベートなことなら仕方ないのかもしれない。でも以前も言ったけれど、もし今、あなたが社内で何か不都合な目に合っていて自分じゃ手に負えない状態であるなら、直属の上司である私に相談してほしいの」


 周囲には聞こえないようにと声は低く、それでも強くはっきりとそう注意を受けて、私はますます小さくなりながら唇をまっすぐ引き結んだ。そして、そういえばそうだ、と心の中でつぶやいた。

 有給休暇を取ることになった前日、経理の手伝いを打診されたその後で、このことを部長に尋ねられていたことを思い出したのだ。


「面倒を掛けたくないとか、余計なことは考えないでね。それによって仕事の能率が下がる方が会社にとってはよほど迷惑なんだし。とにかく一旦は私を通してちょうだい。他の人に相談したいなら、私から声を掛けておくから」

「いえ、大丈夫です」


 思ったよりも強めの声が出てしまい、一瞬の空白を置いたあとに誤魔化すような咳ばらいをする。たぶん今私の顔には、目の前の部長のそれよりも驚きの色が浮かんでいるに違いない。


「すみません、その……部長の手を煩わせるようなことではないというか、多分、私の方でどうにかできると思うので」

「……まあ、あなたがそう言うのなら、無理に聞き出すことはしないけれど」


 部長を信頼できないわけではない。業務においてだけでなく何かにつけて気を回してくれるし、私が何も言わなくても、嫌な目に遭っているのでは、と察知して、こうして力になろうとしてくれている。

 本当に有難いことなのだけれど、その件を解決するのに、人の力を借りるのは違うのではないかと思ったのだ。まずは自分でやってみる、それでダメだった時に相談なり手助けを頼んだりしても、遅くはない……はず。


「今後は根を詰めすぎないよう、もう少し積極的に休養しようと思います。それでももし、私の勤務態度が目に余るようなら、またこうして声を掛けて頂けると助かります」


 だから、今は見守っていてほしい。そんな私の気持ちを汲み取ってくれたかのように、部長はそれ以上は何も言わずにうなずいてくれた。





 自分で嵐を巻き起こす気はない。となると、あちらからの接触がなければ平和は約束されたも同然というわけで。最近は、いわゆる”嫌な予感”という便利な感性も鋭くなってきたし、注意を怠らなければ回避するのはそれほど難しいものではなくなってきていた。

 ……はずだった。


「旅行って、ホントに一人で行ったんですか」

「ホ、ホントに一人で行きました」


 残業もせず、特に大きな問題やミスもなく、今日の仕事を無事終わらせることができたという達成感からきた気の緩みと言うべきなのだろうか。

 退社しようと総務部のフロアを出たところでいきなり腕をつかまれた私は、ひと気のない小会議室に連れ込まれ、事情聴取を受けていた。相手は言わずもがな、浅野くんだ。


「急に行くことになったんですよね? それって同伴相手の都合に合わせて、とかいう理由なんじゃないですか」

「同伴相手じゃなく、宿泊先の都合でそうなったんです」


 長机を挟んで向かい合うように座る浅野くんの表情は、今朝見たよりも険しく、とてつもなく不機嫌であることがよく分かる。

 鍵を掛けられているわけでもなく、壁際に追い込まれてドンされているわけでもないので、この場から逃げ出すことはできるはずだ。だけど、私は席を立てなかった。なぜなら、私のバッグを人質に取られていたからだ。


「今朝も電車で、スマホ見ながら嬉しそうにしてましたよね。そいつと一緒に行ったとか」

「なっ……見てたの!?」


 私の慌てたような反応が気に食わなかったのか、浅野くんの眉間に深くしわが刻まれる。


「……どうなんですか。そいつと旅行に行ったんですか」

「いや、だから……私一人だったって言ったじゃないですか」


 確かに、宿泊先に都倉さんはいたけれど、別に一緒に旅行をしたわけじゃないから、これは嘘ではない。それでも、浅野くんの疑うような視線に耐え切れなくて、私は目を逸らすようにうつむいた。


「じゃあ、宿泊先の都合っていうのは何なんです?」

「もともと予定していた人が来られなくなったからって、予約日が一番近かった私に回ってきて……」


 浅野くんとの関係性をきちんとさせておくのも、私が手を付けなければならないことの一つだとは思っているし、今までのように逃げの態度ではダメだとも分かっている。でも、まだ何も準備ができていない状態では戦いを挑むことはできない、そう思っていた。

 この場面を無傷でやり過ごすには、おかしな抵抗を見せずに相手の望みを満たしてあげるのが一番効果的で、手っ取り早いということは、経験上よく分かっている。だからこうして釈然としないながらも、素直に答えを返していたけれど。


「でも平日ですよね。ずいぶん前から決まっていたならともかく、いきなり仕事休みにしてまで予定ねじ込むなんて、帆高さんらしくないと思うんですけど」

「……」


 らしくない、そう言われて反射的にむっとした私は、つと顔を上げた。


「ずっと真面目に規則正しく働いてたのに、いきなりフラーっとどこかに旅行に行くなんて。そんな浮ついたこと、やるタイプじゃないでしょ」


 納得いかないなぁ、なんて言いながら、浅野くんは憮然として頬杖をつき、私をじっと見つめる。

 今までなら、そんなことを言われても大して気にも留めなかっただろう。浅野くんの親衛隊に『生真面目で決まりきった行動しかできない機械みたいな人間だ』と面と向かって揶揄された時だって、特に反論も感想も浮かばないどころか、早くこの面倒な空間から逃れたい、そんなことしか考えていなかった。

 それなのに、今日の私はいつもと違う。モヤモヤとした嫌な感じのものが鼓動を早め、お腹の中心辺りを起点としてどんどん体温を上げていく。


「本来の自分とは違うことをする時って、だいたいその裏に影響を与える人間がいるんですよ。だから絶対、帆高さんにもそういうヤツが」

「……それ、どういうつもりで言ってます?」


 突然湧きあがったこの感情が何なのか、自分でもよく分からない。喜怒哀楽の中から選ぶなら迷わず”怒”だけど、なんだかもう少しマイルドな感触のもののような気がする。

 浅野くんに絡まれた時は、逃げの一手だった。物理的に距離を取り、女子トイレに駆け込んで、時間が過ぎるのをおとなしく待つ。言っても聞かないし無視してもしつこいから、逃げるしかないと思っていた。

 だけど今、そんな対応をした自分を想像しても、私の体温が下がる未来は見えてこない。


「いかにも臆病で冒険心皆無な地味女は身の程をわきまえろ、って意味なら、完全に悪口ですよね」

「……わ、悪口じゃないですよ! つか俺、そんなこと思ったことなんて一度も」

「単なる事実を述べただけってことですか」

「いや、そういうわけでもなくて!」


 用意していたわけでもないのに、言いたいことが滑らかに口から飛び出してくる。対する浅野くんは歯切れが悪くしどろもどろになっていて、私に拒否する暇すら与えようとしない普段の調子づいた様子とはずいぶんかけ離れていた。


「怒ってます、よね」


 頬杖をついた横柄な態度を、両手をきちんと膝に乗せた正しい姿勢に改めながら、浅野くんは私の顔色を窺うように小さな声でそう尋ねた。


「怒ってません」

「それ怒ってますよ、完全に」

「怒ってないです。と言うか、自分でもよく分かってません」

「……」

「ただ、そうやって『らしくない』なんて、勝手に私の在り方を決めつけられたのは、とても不愉快です」


 不愉快、これだと思った。

 私、浅野くんの態度を不愉快に感じていたんだ。常に心をニュートラルにしておきたくて、どんな攻撃も徹底して躱してきたから、自分の気持ちに気づくのに不慣れで時間がかかってしまったけれど。

 謎の感情の正体が分かったのと、逃げずに立ち向かえたという嬉しさが相まって、私はとてもスッキリした気持ちになった。


「それじゃあ私、帰るので」

「ごめんなさい、俺、本当に帆高さんを傷つけるつもりなんてなくて」

「大丈夫です。私もちゃんと言い返したし、もう気にしてませんから」

「……それじゃ俺の気が収まらないんです。だからお詫びに、この後一緒に夕飯でも」

「行きません」


 だったらカバンは返さない、と言われたので、それなら手ぶらで歩いて帰ります、と答えてやった。小会議室から口論しながら出てきたところに偶然通りがかった芹香が助け舟を出してくれなかったら、私は本当に家まで徒歩で帰ったに違いない。





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