プリティ・レディ

(1)




 スマホのアラーム音が鳴り響く。私は何度かふとんの中でゴロゴロと寝返りをうってから、アラームを止めるために手を伸ばした。

 夏場はこの時間帯でもすでに明るかったのに、最近は日の出が遅くなったせいでまだ部屋は暗い。これから朝起きるのが辛くなるなあ、なんて思いながら、勇気を出して体を起こした。

 昨夜、本当につまらない、自虐的な妄想を繰り返してしまったせいで、何となく頭が重い。その妄想というのは、まあ、何と言うか……いきなり会社を何日も休んで迷惑をかけた自分が、周囲から受ける冷たい待遇、とか、そういう類のものだ。そんな無意味な妄想を全力でしてしまうあたり、まだまだ不幸体質からは抜けられないような気がしてしまう。

 幸せな人生を歩こうと昨日決めたばかりなのに、そう思って深いため息をついた。何にせよ、今日は休み明けの初出勤という大事な日だ。今日の行い次第では、今後の評価や周囲からの風当たりが変わるかもしれないのだから、気を引き締めなくては。


「最低限、遅れないようにしないと……」


 気合を入れるつもりで両頬をぱちぱちと軽くたたいてから伸びをして、ベッドから降りる。

 まずキッチンへ足を運んだ私は、白いホーローのケトルと雪平鍋に水を入れ、それらを小さめの火にかけた。今日のお弁当の献立は何にしようか考えながら、洗面所へと向かう。冷たい水で顔を大ざっぱに洗って頭を上げると、鏡に映った自分と目が合った。

 いつもの寝起きの私がそこにいる。髪型は変えていないし、体重にも変化はない。これまでと何も変わらないはずなのにどこか違って見えるのは、きのう都倉とくらさんに聞かせてもらった話のせいだろう。

 私がこれまで知らなかった、壁の向こう側の世界。都倉さん自身のこと、両親のこと。温かくて、切なくて……何より、両親や私の事を今まであれだけ鮮明に覚えてくれていたことが嬉しかった。残念ながら、私が都倉さんや暮野くれのさんと過ごした日々の記憶は蘇らなかったけれど、頭をなでられた時に懐かしく感じたのは、心が覚えていたからなんじゃないかと思っている。


『午前中は爽やかな秋晴れですが、午後から空はだんだんと厚い雲に覆われ、帰宅時間ごろには雨が……』


 目玉焼きのせトーストをかじりながら、テレビの天気予報を眺める。

 常備していた野菜ジュースが予想より早く切れそうだから、仕事帰りにスーパーに寄ろうと思っていたのに。雨の中、1ケースを自転車の荷台に乗せて帰るのは嫌だなあ。


「明日の分はあるし、今日はやめとこうかな……」


 コーヒーを流し込み、一人ごちる。ひと息ついてからテーブルの食器を片付けると、冷ましておいたお弁当のふたを閉じ、ランチバッグに入れた。

 母が体を患ってからは、私がお弁当を作るようになっていて、それは今も習慣として残っている。料理上手な母に色々手ほどきを受けたけれど、母はどちらかと言うと感覚派だったためか、何度教えてもらってもおいしくはできなかった。まずいとは思わない。でも、「おいしい、私天才!」といつも言っていた母のように、自画自賛できる域には達していないのだ。普通においしい、じゃなく、少しでも心が明るく浮き立つような、そんな料理を私も作ってみたい。都倉さんの話を聞いて、自然と湧き上がった思いだった。

 だから、都倉さんに母のレシピノートを持っていてもらう代わりに、と言ってはあれだけれど、料理を教えてほしいと頼んだ。プロの人に、本来なら月謝をお支払いしなければいけないことを軽々しく頼んでしまった自分に気付いて、後で頭を抱えながら悶えたことは秘密だ。とにかく、都倉さんは私の図々しい申し出を快く受け入れてくれた。

 料理がうまくなりたいと思ったのには、理由がある。父が都倉さんと交わした、百回の食事会。父はきっと、それを果たしきることができないままだったことを悔いていたと思う。だから、私が引き継ごうと考えたのだ。あの頃に及ばずとも、なんて妥協したものじゃなく、あの頃と遜色ない食事会にしたい。それにはまず、自分の料理の腕を上げるのが先決だと思った。食事を提供したい相手に料理を教わる、っていうのは何だか変な感じだけれど、師匠に成果を見てもらう感覚でいけば問題は――


「あ……今日は朝礼があるから、早めに出ないと」


 壁掛け時計を見上げて、私は再び洗面台へと急いだ。







 帰りは雨だという予報を信じて、カバンには折り畳み傘を入れてきた。靴も、濡れても大丈夫で滑りにくいペタンコ靴を装備している。

 電車を待つ列の、私の前に並んでいる女性が履いているハイヒールをぼんやりと見ながら、こういう日は販促課なんかは大変だなあと思った。私のように気候や天気に合わせた実用的な装いではなく、びっくりするほど高いヒールだったり、ひらひらして歩きにくそうなパンツやらを履かなくてはいけないのだ。出勤の時はスニーカーにジーンズ、とまではいかなくても、もう少し軽装にして社内で着替えるくらいで済めばいいのに、とは思うけれど、販促課の面々はいわゆる”マネキン”も兼ねている。我が社は働く女性を主なターゲットとした、ちょっと高級志向なブランド展開をしていて、それを実際に着用して働く姿を見せるのも販売戦略の一つ、ということらしい。芹香せりかによると、誰がどこで見てるか分からないから、どんな時でも”戦闘服”は脱げない、とのことだった。

 今朝は昨日よりもだいぶ気温が低いし、夜も雨で更に冷えるだろう。こんな日でもビシッと戦闘服で決めたバリキャリ女子が、寒さに負けずに輝けるあったか肌着なんかを売り出せば、健康の面もカバーできていいんじゃないかな、と考えたりしているんだけれど……。


「……あ」


 電車に乗り込んだところで不意に着信音が鳴り、私は慌ててスマホをカバンから取り出した。危ない、マナーモードにしておくのをすっかり忘れていた。

 画面をそっと見てみると、都倉さんからの新着メッセージのお知らせが表示されていて、私は思わず辺りを見回してしまった。どの人も、本を読んだりスマホの画面に目を落としていたり、音楽を聴きながら目を閉じていたりと、各々好きに過ごしている。別に悪いことをするつもりではないけれど、何となく誰も自分に注目していないことを確認した私は、そっとメッセージアプリのアイコンをタップした。

 そこには、例のお料理教室をいつにするか、という内容が書かれていた。今週はオーベルジュの開店準備で忙しいけど、来週末辺りなら時間が取れる、とのこと。場所は昨日お邪魔したあのマンションで、調理器具などもそれまでにもう少し充実させるとも書いてある。

 そこに絵文字や砕けた語調は一切なく、都倉さんらしい文章が並んでいるのを見て、私は思わず頬を緩めた。こういうのはあまり好きじゃないんだろうな、というのが分かりやす過ぎるほど表れていて、つい可笑しさがこみあげたのだ。めちゃくちゃこなれた感のあるネットスラングなんかを羅列されるのは私も苦手だから、これくらいの堅苦しさは私にとっても心地よかった。


『ご連絡ありがとうございます、楽しみにしています。マンションの調理器具の用意なら私も手伝えますので、何かあれば言って下さい。開店準備がんばって下さい。』


 送信する前に、何度か文章を推敲する。一つくらい何かかわいらしい絵文字を入れようか悩んだけれど、やめておいた。代わりに、おはようのスタンプだけ押すことにしよう。

 駅に到着し、人の流れに乗って私も降車する。階段を上る群衆の列から少し外れ、邪魔にならないところで立ち止まってメッセージを送信していると、後ろから肩をたたかれた。


「おはようございます、帆高ほだかさん」


 振り返ったその先にいたのは、浅野あさのくんだった。


「あ、お、おはよう……ございます」


 つい口調がしどろもどろになってしまう。こんなところで会うとは思ってもみなかったし、何より、浅野くんの表情がいつもより険しいことが気になって仕方がなかった。


「なんか、久しぶりっすね」

「え……あ、ああ、うん。そうですね」


 愛想笑いも乾いてしまう。もしかして、ここから一緒に出社しなきゃいけないんだろうか。それは道中かなりつらいものがある上に、親衛隊の子たちにそれを見られでもしたら、また面倒なことになってしまいそうだ。

 ここは何とか別行動に持ち込みたい。そう思って、じゃあまた会社で、なんて言いながら、なんとなくその場を後にしようとしたけれど。


「同じとこに向かうんですから、一緒でいいじゃないですか」


 直球ド正論で返されてしまった。

 社会人たるもの、もう少し自我を抑えて周りに合わせることもできるようにならないといけない、というのは分かっている。だけどやっぱり、嫌なものは嫌なのだ。


「いやその……急いでるから、私」

「俺も一緒に急ぎます」

「いい、いい! 浅野くんはゆっくり来ればいいですから、」

「ちょっと聞きたいことあるんで」


 私の言葉を遮って、強めの語調で浅野くんがそう言った。また退社後の予定を聞くつもりかと思ったけれど、そういった雰囲気ではないことを何となく感じ取った私は、階段を上がりかけていた足を止めた。


「……あの、」

「あっ、浅野く~ん!」


 浅野くんが口を開きかけた瞬間に、女の人の甘えたような声が遠くから響いた。

 まずい、親衛隊のどなたかだ。

 浅野くんがその声に反応して振り返り、私から目も意識も離した瞬間、私は階段を一気に駆け上がった。

 





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