(7)




 CROにとって今年度は、大きな変革の年だったと言えるだろう。噂でしかなかったあの人事異動は現実のものとなり、結城ゆうき次官が中央局長官の座に就くこととなった。遠野とおの次官は副長官、降井ふるい次官は副長官補佐と、それぞれ昇格はしたものの、二人が長くその地位に留まることはなかった。今回の人事にあたり、局員たちを扇動して不要に組織内の規律を乱したとして、副長官と補佐がそろって解任されたのだ。現在もその二席は空いたままで、CROは実質、織田が全ての実権を握っている状態だった。

 サプライズ人事は、それだけに留まらなかった。技術・情報管理の遠野次官には仁科にしな総合情報管理部長が、医務・環境の降井次官には蒲生がもう医療部長がそれぞれ慣例通りに着任したが、内務管理の結城次官には、総務会計部長の生方うぶかたが任命されたのだ。順当にいけば情報管理システム部長の千波せんばか、もしくは人事部長の明神みょうじんが就くはずだったところを、”墓場”と揶揄される立場の生方が抜擢されたのは組織に衝撃を与えたようだった。

 そしてこの変革は、我々亜人にも大きな影響を及ぼした。人間と亜人は徹底的に区別され、僅かでも関わりをもった人間はCROからの手入れが入るようになってしまった。身辺を洗いざらい調査され、亜人との関係の深さ如何では、一般人と言えども亜人に対するそれと変わりない拘束力をもって管理下に置かれることになるのだ。CROに管理されることの窮屈さ、不便さを身に沁みて感じている亜人は皆、人間から距離を置くようになった。人間と亜人の間には、これまでより強力で高い壁がそびえ立ったのである。

 国家ですら御することのできない組織、亜人保護管理局。CROはここにきて、その巨大な力の真価を見せ始めていた。


「諸々の処理は全て任せる。連絡を寄越してくれてもいいが、できればお前の一存で決めてほしい」

「はい」

「それから、あまり時間は掛けるなよ。長く離れると私の体がもたないからな」

「そちらも承知しております」


 他に指示することはないか、もう一度頭の中を整理する。すっかりがらんどうになった室内をぐるりと見渡してから、私は玄関へと向かった。

 仁哉が中央局へ異動し、現在のような厳しい方針で組織が動き始めても、仁哉からの連絡が途絶えることはなかった。局員はプライベートで亜人と関わってはいけないというルールに徹底的に従わせるため、厳しい罰則が設定された環境であるにも関わらず、である。だから、私の方から遮断した。これまで通りの関係を保つ気はないという意思表示のつもりで、彼からもらった携帯電話は解約し、CROの監視下でしかお互いに関われない状況を自ら作り上げた。

 仁哉を疎んじたわけではない。むしろその逆で、リスクを冒してでも私との友情を大切にし、優先してくれたことがとても嬉しく、ますます仁哉への思いは深まった。そんな大事な友人と家族が、私と関わったせいで厳罰を受けることになってしまったら……。考えるまでもなく、私が取るべき行動は一つしかない。彼らの為というよりも、自分の心を平穏に保つための選択だった。


「本当に、挨拶もせず行くつもりですか」


 マンションの地下駐車場に向かう途中で、ふと紫藤しどうが少し渋い顔をしながらそう尋ねた。


「下手に関わって痛くない腹を探られるのはご免だからな。それはあちらも同じだろう」

「ですが……後悔することになりますよ」

「いいんだ。せっかくこの生活にも慣れてきたのに、かき乱す真似はしたくない」


 紫藤に本心を隠すのは至難の業だ。恐らく、私が本当に望んでいるのは今のセリフとは正反対のものであることを見抜いて、そんな風に進言してくれたのだろう。だが、自分の希望通りに事を進めるのが最善であるとは限らない。気持ちを抑えて相反する行動を選び取るのが良い場合もあるのだ。

 エレベーターを降り、自分の車のあるエリアへと歩を進める。と、その時、自車のボンネットに寄り掛かる黒い影を見留めた私は、そこで足を止めた。


「――久しぶりだね」


 そこにいたのは、仁哉だった。CRO局員おなじみの真っ黒なスーツを着込んだ彼は、最後に食事会をした一年前よりもずっと貫禄が増したようだった。


「……どうだ、中央局での仕事は」

「ああ、まあ……それなりにやっているよ」


 なるべく感情を抑えながら尋ねると、仁哉はそう当たり障りなく答えた。


「海外に、拠点を移すんだって? このマンションの部屋も売りに出すとか」


 口を開きかけたところで、それを制するかのように仁哉が尋ねる。私は、今ここにいるエージェントが仁哉だけではないことを悟り、辺りを警戒しながら注意深くうなずいた。


「色々と力試しをしたいと思ってな。慣れない土地でしばらく揉まれれば、それなりに収穫もあるだろう」


 仁哉は小さく微笑むと、脇に抱えていたA3サイズの封筒を差し出してきた。


「出国するにあたっていくつか書類を出してもらっただろ。それに不備があったから、届けにきたんだ。きちんと直して再提出するように言われてね」

「分かった。では後ほど紫藤に」

「今すぐ、君の直筆で頼む。上からの命令だよ」


 仁哉らしからぬ威圧感に、私は思わず口を閉じた。違和感を覚えながらもそれを受け取り、封を開ける。そこに入っていたのは、本人署名の入っていない簡素な書類が数枚と、それから――。


「これは……」

「つまらない確認事項かもしれないけれど、うちにとっては重要なものなんだ。だから、従ってくれないか」


 冷たい口調とは裏腹に、仁哉の表情はやわらかい。私は仁哉に差し出されたペンを受け取ると、指示された通りに空欄に名前を書いた。


「……うん、ありがとう。これでもう、渡航先に我々が押しかけることはないよ。思い残すことなく旅立ってくれ」


 書類を受け取った仁哉は、私に手渡したものとは別の封筒にそれを入れ、背を向けた。


「それじゃ、元気で」

「ああ。互いにな」

「……うん。あちらのエージェントとも、うまくやってよね」


 一年ぶりの再会は、ものの五分で終わってしまった。

 新しい環境での仕事はどうなのか、留美るみ咲葵さきは元気にしているのか……聞きたいことも、話したいこともたくさんあった。しかし、もうそんな会話を彼と交わすことは許されないのだと改めて痛感した私は、手元に残されたからの――空であると見せかけた封筒を強く握りしめながら、ただひたすら彼の背中を見送った。







 宿泊先のホテルで簡単に荷解きをした後、仁哉から渡された封筒を取り出す。封を開け中を覗くと、小さなノートが入っていた。あの時私の前に現れたのは、不備のあった書類を訂正させる為ではなく、それを隠れ蓑にしてこれを渡す為だったらしい。

 私はそのノートを手に取ると、ゆっくり表紙を開いた。


「これは……レシピ集か」


 狭い行間にめいっぱい文字を詰め込み、あるいは分かりやすいようにと挿絵も挟みながら書かれたそれは、留美が自ら考えて作成したものであろうことが即座に分かるような個性的な内容だった。いかにも留美らしい表現に笑いを零しつつ、一ページずつ丁寧にそれを読み込んでいく。

 そして最後のページに至った時。


「――……」


 そこに書かれていたメッセージに、私は強く心を揺り動かされた。

 私が帆高家と距離を置いたことに関しては、間違いではなかったと今も思っている。CROが監視体制を強めた対象は亜人だけではなく、局員とその家族も含まれていたからだ。特に秘密を保持する能力の低い子供に対する拘束力は、本人の尊厳をも無視するかのように強力なものだった。

 咲葵が自由な意思を持ち、幸せな道を自分で選択できるような人生を歩めるように。仁哉の願いは、私の願いでもあった。留美も同じように考えていたに違いない。その願いをかなえるには、まだきちんと私の存在を理解しておらず、そして恐らく記憶にも残らないであろう今の時期から離れておくのが一番良いのだ。

 そう、頭では理解していた。咲葵は、壁の向こう側の世界の人間としての人生を歩むのが最善であると。これまで共に過ごした時間はなくならない、たとえ彼女が忘れてしまっても、その両親が、何より自分自身が覚えていればそれだけで充分だと、そう言い聞かせてこれまでやってきた。

 孤独感から闇へと引きずられた過去はあったが、こうして海外へ移住して色々学ぼうと思えるくらいの気概も持っており、もう同じ轍を踏まない自信はあった。だが、寂寥感が全くなかったと言えば嘘になる。ぎりぎりの崖っぷちを独りで歩いているような気持ちになったことも、正直何度もあった。


『いつかれいの料理を私に食べさせてよ。約束だからね~』

 留美の言葉だろう。


『君との友情は一生ものだ。次に会う時は、僕は局長になっているかも!』

 これは仁哉だ。


『だいすきだよ。またこんどあそびにきてね』

 色とりどりの卵焼きの絵で囲われたそのメッセージは、留美の字で書かれてはいたが、咲葵からのものに違いない。

 いつか、次に会う時は、またこんど――。何と希望にあふれた言葉だろう。私は独りではなく、未来で私を待つ者がいる。彼らに恥じない自分で再会の時を迎えられるように、自分をしっかりと高めておきたい。そう思わせてくれた彼らに、私は深い感謝の念を抱いた。





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