(6)




 紫藤しどうはこのあと人と会う約束をしているとかで、逆方向の駅の方へ向かい、私と仁哉じんやは二人、街灯がぽつぽつと等間隔に灯るその下を並んで歩いた。


「それにしても、咲葵さきの成長っぷりには本当に毎月驚かされるな。おしゃべりも達者だし、あんなに上手に絵を描けるようになっていたとは」


 なかなか話し出す様子のない仁哉じんやに口火を切らせるため、当たり障りのない話題で誘導しようと試みる。それが功を奏したのか、少し険しかった仁哉の表情が緩んだ。


「僕も日々びっくりさせられてるんだ。手先もどんどん器用になっていくし、言葉も……話し方なんてホント、留美るみにそっくりなんだよね……」


 嬉しそうにしつつも苦々しく笑う仁哉を見て、好き嫌いなく食べるように注意を受けていた様子を思い返した私は、自然と口角を上げていた。


「幸せになってほしいなあ」


 星空を仰ぎながら、仁哉は噛みしめるようにしみじみと呟いた。


「自由な意思の下で何かに縛られることなく、それこそ死ぬ直前まで自分らしく生きてほしい。ただひたすら、それだけを願うよ」

「そう……だな」

「まあ、何が幸せかは本人が決めることであって、僕がどうこうするもんじゃないのは分かってるけど。でも、その幸せを選び取ることができる人生であってほしいよね」


 亜人やCROという組織の存在は、世間からは秘匿されている。いま咲葵は”知る者”と”知らざる者”のちょうど境界線に立っていて、仁哉と留美は咲葵をどちらの世界で育てるのか、まだ決めかねているようだった。

 咲葵の幸せを成就させるには、その選択はとても重要であることは明確だったが、これまで何となくそのことは聞けないでいた。自ら言い出すのもおかしな話だし、そもそも彼ら家族のことについて私は干渉できる立場になく、どちらの道を選ぼうと私はそれに合わせて身の振り方を変えるだけなのだ。だから、わざわざどちらの世界を選ぶのかなど聞く意味はなく、私がすべきはいつか来るかもしれない別れの覚悟を決めることだけだった。


「私も、あの子の幸せを願う気持ちは同じだけあるつもりだ。親である君たちが咲葵の為になると判断したなら、私はそれに従うよ」


 二人がこちら側の世界を隠したいというのなら、私は喜んで身を引くつもりでいる、という意思表示をしたのは、これが初めてだった。そのせいか、仁哉の表情が心なしか硬くなったような気がした。


「そう深刻に捉えないでくれ。私がどうこう口出しできる立場ではないことは承知していると、そう言いたかっただけのことだ。そもそもお前は私の担当エージェントなのだから、我々の縁が切れるわけではないだろう」


 そこまで言った後、ふと隣から気配が消えたのを感じた私は、立ち止まって後ろを振り返った。いつの間にか歩みを止めていた仁哉は、強張った顔に寂寥感を混ぜたような複雑な表情で突っ立って、私をじっと見つめていた。


「次の人事異動で、CROの中央局長官をはじめ上層部が大幅に入れ代わるそうなんだ」


 僅かな沈黙の後、仁哉じんやがポツリとそう言った。


「その影響、と言うべきかどうかは分からないけれど、僕も地方局から中央局に移ることになってさ」


 中央局、というのは国内における本店のようなもので、各地方局を取りまとめる中心的組織という位置づけだ。そこへの異動はつまり、仁哉は出世するという意味を持っている。


「良かったじゃないか。これで留美るみの功績に追いつけるな」


 留美はもともと中央局の情報分析課に籍を置いていた。結婚と同時に退職してしまったが、現役時代は優秀な分析官だったらしい。仁哉の所属していた地方局に留美が局長として派遣されたのが、二人の出会いだったそうだ。

 仁哉は酔う度に、いつか中央局への栄転を果たして留美を追い抜いてやると豪語していたが、ようやくその夢に一歩近づけたというわけだ。


「なぜそんな浮かない顔をしているんだ? 遠慮せず、もっと喜んで見せてもいいのだぞ」


 めでたい話題にそぐわない仁哉の表情を見て軽い気持ちでそう言ったが、仁哉は口ごもるばかりで明確な答えは返そうとせず、沈んだ様子も変わらない。


「……まさか、私の担当から外れるのが嫌だとか、そんな下らないことで落ち込んでいるのではないだろうな」

「ち、ちが」

「違うのか? 本当に?」

「……」


 私の鋭い視線に気持ちを隠しきれないと判断したのか、その通りだと言わんばかりにため息をつきながら小さく何度もうなずいた。


「……でも、落ち込んでいる理由はそれだけじゃないんだよ。実は、次の長官は遠野とおの次官ではなく、結城ゆうき次官が就任するっていう噂が流れているんだ」


 CROでは、局員たちが本名で呼ばれることはない。それぞれの役職にも名前が付けられていて、例えば中央局長官は織田おだ、三人の次官はそれぞれ遠野とおの降井ふるい結城ゆうきとなっている。その下に続く部課長なども同じで、名を聞けばどの地位を指しているのか分かるようになっているのだ。

 これまでは、総合情報管理部長を経て次官に就いた、いわゆる現場畑の遠野がトップに立つのが慣例だったのだが――。


「結城と言えば、組織内の内務管理を任されているのではなかったか?」

「そう、ずっと内政に従事してきた立場の人だ。だから彼が長官に就任すれば、組織の方針や編成も大きく変わると思う。……もしかしたらこれまでより監視体制が強化されて、今のように会うことも、難しくなるかもしれない」


 そう呟いて、視線を落とした。

 仁哉が自分の出世を手放しで喜べなかったのは、私との友人関係を続けられない可能性があることを憂いていたせいだったようだ。


「結城次官はずっと、現場のあり方に異を唱えていたんだよ。亜人とエージェントがなあなあの関係になることが特に気に入らないみたいでね。両者はもっとシステマチックな間柄であるべき、なんていう考えの人だから……」


 こうして聞く限りでは、仁哉とはおよそ正反対の思想を持つ人間らしい。結城が長官になってしまえば、亜人管理に関する方針転換も大いに有り得る話だし、仁哉にとって居心地の悪い組織になってしまうことは間違いないだろう。ただ、現在まで長く引き継がれてきた慣例を無視するということは、それだけ多くの者を敵に回すということに繋がる。そう簡単に進められるようなものでもないと感じるのは、私が内部の人間ではないからだろうか。


「降って湧いたような話だし、確かに反発は強いみたいだ。れいの言う通り、この件を今論じてすぐに通すのは難しいのかもしれないね。もっと将来的なことになるとまた事情は変わってくるんだろうけど」

「実際どうなるかは分からないが、とにかく今は素直に昇進が決まったことを喜んでおいていいだろう。留美はどう言っているんだ?」

「自分の事みたいに嬉しそうにしてくれたよ。おめでとう、給料が上がるね! って」

「彼女らしい喜び方だな」


 和やかな雰囲気を取り戻した中、私たちはまた歩き出した。だが仁哉も私も、それ以上は何も言わなかった。言えなかった、というのが正しいのかもしれない。

 何となく、察してはいたのだ。中央局の人事についての噂が地方局にまで流れてきているのは、もうそれなりに土台は固められたからだということを。揺らぐことのない決定事項であるとは言え、大っぴらにはまだ発表できないから、代わりにこうして情報をリークして蔓延させ、局員に心構えを促している。なるべく堅実に、かつ狡猾に立ち回りたい組織の思惑を慮ればそう考える方が現実的で、おそらく仁哉も同じようにこの件を受け止めているのだろう。


『これから百回、ちゃんとしたおもてなしで君を迎えることを約束するよ』


 あの日の言葉が、不意に脳裏によみがえる。仁哉と交わした約束は果たされることはないのだろう、という予感が現実のものとなったのは、それから半年後のことだった。




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