(5)




 また会おう、また一緒に出掛けよう、またいつかどこかで――。

 そんな約束を交わした友人は皆、私より後に生まれたはずなのにいつしか私に追いつき、追い抜いて、そしていなくなる。果たすことのできない約束と共に、私はいつもたった一人置いて行かれた。

 小さくかすんでいく後ろ姿を何度見送ったことだろう。その度に私を苛む寂寥感を何度振り払った事だろう。別れの度にこんな思いをしなくてはいけないのなら、いっそ初めから孤独に浸っていた方がいい。

 そう結論付けた私は、他の誰とも”約束”をしなくなった。人との交流はその場限りに留め、できるだけ忘れるようにする。表情も、声も、何もかも全てを記憶に残さない。いつかいなくなってしまっても、そのことに気付かないようにするためだ。自分の心が小さく硬くなっていくのは分かっていたが、もう悲しみや孤独に左右されて傷つくのはたくさんだった。

 それなのに。

 紫藤しどうさえいればいいと、それ以外の全ては排除すると決めたはずなのに、仁哉じんやは私が長らく守り続けてきた自分との”約束”をいとも簡単に破らせてしまった。冷たく凍ったままだった私の心は再び、人のぬくもりを感じることに喜びを覚えていた。


「えーっとねぇ、これは……たまごやき」

「卵焼き? 色はそれでいいのか」

「うん!」


 ピンク色のクレヨンで描かれた、ぐるぐると渦を巻いた物体を眺めながら、私はなるほど、と呟いた。てっきりバラの花か、のどちらかだと思っていた。この渦巻きは、卵が巻かれている状態を描いていたらしい。

 咲葵さきの描く絵は写実的でありながらも色づかいは前衛的だ、と褒めると、傍のソファに腰掛けて読書をしていた紫藤しどうが、肩を揺らして笑い始めた。


「小難しい言葉で褒められても、咲葵さんには分からないでしょう。可愛いね、とか、上手だね、でいいんです」

「そんな単純な賞賛では私の気が済まん」

「咲葵さんを喜ばせる気はあるんですか……」

「あるに決まっている」


 咲葵なら言葉の意味までは分からずとも、言いたいことは汲み取ってくれるはず。そんな根拠のない自信があった私は、呆れたように呟く紫藤にそう返してやった。


「これ、レイしゃんのね! おべんと、いれる?」


 どうやら、咲葵はこれから弁当を作ってくれるらしい。


「ああ、入れてくれ」

「おっけーい」


 私がうなずくと、咲葵は軽快な口調で快諾し、次は紫藤の方を振り返った。


「シドーしゃんは? たべる?」

「ぜひお願いします」


 月に二度の帆高ほだか家での夕食会は、この二年間で一度も欠かすことなく開かれていて、夕食が出来上がるまでの何気ないこの時間を咲葵と共にこうして過ごすのは、私にとっては日常のものとなっていた。

 今日のように紫藤が加わることもあったりして、そんな時はいつもより食卓がにぎやかになる。そのことを察知して嬉しさを感じているのか、今日の咲葵はずいぶんとご機嫌な様子だった。


れい、そろそろ仕上げなんだけど、ちょっと一緒に味をみてくれない?」


 キッチンから顔を出した留美るみにそう声を掛けられ、顔を上げた私は小さく首を傾げた。今までこういうことは頼まれたことはなかった為、珍しいこともあるものだと思ったのだ。


「ええー! レイしゃんいかない!」


 立ち上がったところで、咲葵が足元にすがりつく。上目遣いで恨めしそうに見上げるその表情は本当に愛らしく、私は彼女の頭に手をやり、そっと撫でてやった。


「すぐに戻るよ。私の用事と咲葵のお弁当作り、どっちが早く終わるか競争だ」


 そう告げると、咲葵はぱっと顔をほころばせて大きくうなずく。クレヨンがたくさん入った缶の入れ物に手を突っ込み、どれを使うか思案している様子を確認してから、私はキッチンへと向かった。


「今日のメインは鶏肉とトマトのブイヨン煮込みなんだけど、どうかな?」


 留美はそう言いながら、私に小さじ一杯程度のスープが入った小皿を差し出した。

 私はまず、トマトの甘酸っぱい香りをじっくり吸い込んでから、小皿の縁に口を付け、スープを慎重に口内へと運んだ。野菜と鶏のうま味が合わさった濃厚な風味なのに、さっぱりとして後を引かない。トマトの酸味が良いアクセントになっていて、次の一口が恋しくなるようなくせになる味わいだ。


「……もしかして、ブイヨンは手作りか?」

「せいか~い。玲、市販のやつは苦手だって言ってたでしょ? 咲葵の離乳食で作ってたやつをアレンジしてみたんだ」


 そう言えば以前、そんな話をした記憶があった。だから私に味見を頼んだのか、と合点がいき、そして細かいところまで覚えていてくれたことに感動を覚えた。


「あとでレシピを教えてくれないか。私もこれなら幾らでも食べられそうだ」

「やだ、虜にしちゃった? ほんっと罪深い腕してるなー、私」


 留美はおどけたように笑うと、エプロンのポケットから紙切れを取り出した。


「はい。きっと玲はレシピを欲しがるだろうって仁哉じんやが言ってたから、用意しといた」


 仁哉に見透かされていることに何となく悔しさを感じつつも、有難くそれを受け取る。と、オーブンから香ばしいチーズの香りが漂ってきて、それに惹きつけられた私は思わずそちらに目を向けた。


「そっちのグラタンのレシピも書いてあるわよ。こないだみたいに大雑把にしか書いてないから、火入れのタイミングとか細かいところは自分で研究してね」


 留美に苦笑しながらそう言われ、この夫婦には敵わないと思った。






「おとうしゃん、ズッキーニもたべなさいね。おいしんだから」


 野菜好きの咲葵に、まるで留美のような口調でそう指摘を受け、仁哉は短くうっ、とうめき声を上げた。


「瓜系の食べ物はホント苦手なんだよね~……。咲葵、ちょっと大目に見てくれないかなあ?」

「おおめ……? ……いいよ。サキの、あげる!」


 仁哉の言葉を勘違いした咲葵が、満面の笑みで自分の皿からズッキーニを取り出す。自分の好物であるはずのものを惜しまず分けてやる優しさに、思わず頬が緩んでしまった。が、当の仁哉は苦手なものが更に追加されてしまい、あからさまに渋い顔をしていた。


「いやっ、ちが……そういうことじゃなくてね?」

「仁哉、ちゃんと食べたげなさいよ。せっかく咲葵がくれたんだから」


 留美に促され、渋々といった様子で咲葵から分け与えられたズッキーニを口にする仁哉。


「おいし?」

「う、うん。すごく……いや本当においしいな」


 仁哉の曇った表情がぱっと明るくなり、もう一切れを口に運び始めたのを見て、留美は得意げな笑みを浮かべた。もともと好き嫌いの多い奴だということは聞いたことはあったが、そう言えば一緒に食事をしていて偏食しているところをほとんど見たことがない、とふと思った。


「嫌いなものを無理に好きになる必要はないけれど、食べられるようにはなっておいて欲しいのよね。食事の席であれはダメ、これもダメ、って言う人よりも、何でもいけます! って人の方が印象良く映るでしょ?」


 人付き合いにやや難のある仁哉に、留美は少しでもアドバンテージを与えようとして舌を調教してきたということらしい。私も留美に影響を受けて料理を嗜むようになってはいたが、誰かの味覚を良い方向に開発できるような領域まで極めるのは、とても難しい事であるように思えた。


「留美、レストランをやる気はないか? 私が出資するから、その才能を生かしてみてほしいのだが」


 嫌いな物でもなるべくおいしく食べられるように、という心遣いは、まさに料理人のそれではないかと思いそう打診したが、留美はあっさりとその申し出を断ってしまった。


「こんな風に世話を焼きたいのは、家族や大切な友人相手だけよ。世の為他人ひとの為に手間暇掛けるのは、お金をもらえるとしても絶対ムリ!」

「それは――……」

「?」

「いや、いい考えだと思ったんだが。まあ……気が変わったら連絡してくれ」


 留美は、一生心変わりしないと思う、とばっさり切り捨てて快活に笑った。私もそれにつられて苦笑しながら、トマトの風味が豊かなスープを口に運ぶ。

 私の苦手なブイヨンを手作りし、おいしく食べられるよう手間暇を掛けてくれたのは、私を”大切な友人”として受け入れてくれているからだと思ってもいいのだろうか。先ほどそう聞いてみようとして、寸でのところで言葉を飲み込んだのは、野暮なことはやめておこうと考えたからだ。わざわざ聞かなくても、彼らと共に過ごした時間はちゃんとその答えを教えてくれていて、私もそれを心から信じることが出来ている。その事実だけあれば、言葉などなくても私の心は充分満たされているのだ。







 こうして、夕食会はいつも通り滞りなく行われた。仁哉が新しく手に入れたというジャズのレコードをバックグラウンドに流しながら、留美の料理に舌鼓を打ち、咲葵のいい食べっぷりに癒される。幸せだと思った。いつか、この幸福は幕を閉じる時が来ると承知した上で尚、そう感じられることが嬉しかった。

 人は、時間の流れに背中を押されながら人生を歩んでいる。これまでの私は、辿る道は違ったとしてもどうせ向かう先は皆同じだという半ば卑屈な思いから、その様子を直視しないよう殻に閉じこもっていた。だが仁哉や留美と出会ってその殻をこじ開けられ、咲葵のあまりに強烈な命の輝きに惹きつけられた私は、もうそこから目を離すことができなくなっていた。生まれた時はあんなに小さく、泣くことしかできなかったのに、今はこんなにもいろいろなことを自力でやってのけてしまう。次はどうなるのだろう、どんな姿を見せてくれるだろう――そんな期待感に胸を躍らせている自分に気付いた時、世界の全てを知り尽くした、などという傲慢な考えの下で全てを拒絶し、自分の人生の閉じ方を探すことに心を砕いていたことをひどく後悔した。

 いつか彼らがこの世界から旅立つ時が来れば、私は悲しみに暮れるだろう。だがこうして重ねた何気ない日常は、強い絆となって私の中で残り続けてくれるはず。それがあれば、私は目を逸らすことなく彼らの背中を見送ることができるに違いない。いざその時が来るまで、私はこの関係を大切に育てていきたいと思った。


「もう少しゆっくりして行ってくれてもいいのに……」


 玄関まで見送りに来てくれた留美の言葉に、私は首を横に振って応えた。

 

「咲葵が寝付けないといけないからな。気持ちだけ、受け取っておくよ」

「おいしい食事をありがとうございました。私までご招待いただいてしまって」

「紫藤さんも、いつも同伴してくれて構わないのよ? 一人でも多い方が楽しいし、咲葵も嬉しそうだし」


 留美はそう言いながら咲葵を抱き上げ、ね? と顔を覗き込んだ。


「レイしゃん、シドーしゃん……またくる?」


 不安げに眉根を寄せ、咲葵が首を傾げる。帰る時分になると、咲葵はいつもこうしてしょんぼりと落ち込んでしまうのだ。


「紫藤と一緒に、また来るよ。約束だ」

「……うん」


 咲葵の頭に手を乗せ、優しく撫でると、咲葵は少し気恥ずかしそうにしながら微笑んでくれた。


「ちょっと待って!」


 扉を開けようとしていた手を止めて振り返ると、廊下の奥から仁哉が慌てた様子で出てきた。


「車はいつものコインパーキングだよね? 僕、そこまで一緒に行くよ」


 コートを着込みながら言う仁哉に、私はあからさまに嫌な顔をしてみせた。


「またお前の長話に付き合わされるのはごめんだぞ」

「そう言わずに。すぐ済むからさ」


 先月もそう言って駐車場までついてきた後、結局話が終わらないからと言って、近くのカフェで小一時間ほど過ごす羽目になったことは、今も忘れていない。それに――。


「おとうしゃん、サキもいきたい!」


 咲葵が留美の腕から抜けようともがきながら、仁哉の方へ腕を伸ばす。こうなることは目に見えているのだから、大人しくここで見送ってくれれば良かったのだ。前は咲葵が早々に寝ていたこともあり、見送りに来ることを承諾したが、今日は首を縦に振るわけにはいかない。


「話したいことがあるなら、また後日聞く。だから今夜はもう」

「咲葵、すぐに帰ってくるから。お母さんとお風呂に入って待っててくれよ。な?」


 そう言うと、まだ咲葵が納得していない様子であるにも関わらず、留美に目配せをする。留美はそんな仁哉を咎めようとして口を開きかけたが、不意に何かを察知したようにうなずき、そのまま奥へと下がってしまった。

 マイペースが過ぎる奴とは言え、普段は咲葵の為ならその自我はきちんとコントロールできていたはずで、それが叶わない時は留美が手綱を引くように制御していた。それなのに……。

 妙な違和感を覚えて思わず紫藤に視線をやると、彼もいつもと違う雰囲気の二人の様子に戸惑っているようだった。


「……どうかしたのか」


 靴を履き、外出の準備をする仁哉にそう声を掛けるが、あいまいに笑うのみだ。

 

「とりあえず出よう。歩きながら話すよ」


 リビングの方から聞こえる咲葵の泣き声を背に、玄関の扉を開ける仁哉。

 先に広がる宵闇は、今後も続くと信じた幸福な未来を覆う、不穏な影を思わせた。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る