(4)




れい……この店がいったいどういう店なのか、君は本当に分かってるのか?」

「当たり前だ。この期に及んで何を言い出すんだ全く」

「こんなドレスコードのあるところに僕を連れてくるなんて間違ってるよ! そこらの安い居酒屋で充分幸せを感じるような人種なのに!」


 中心街からは少し離れた場所にある、高級フレンチレストラン。店内はぎらついた絢爛さはなく、すっきりとしたシンプルなインテリアで品良くまとめられている。出される料理も伝統を真面目に踏襲していながら、そこにちゃんとこの店なりの”色”を加えており、今年初めてもらったという二つ星の名誉は当然であると感じさせるほどに本当に良い店だ。


「緊張しているのか?」

「してるさ! ガチガチだよ! ねえ、僕今変な動きしてない? 作法とか、間違ってたりしてないかな?」

「今席に着いたばかりだぞ。まだ何も始まっていないだろう」

「始まっているじゃないか、歩き方とか、座り方とか……。ああ、絶対何かやらかしてしまいそうで怖いよ」


 ここに連れてきたのは、先日家に招待を受けた礼という以外に、少し仕返しをしてやろうという目論見もあった。確かにあの日は楽しかったし、結果だけを見れば何も問題は無いのだが、やはり自分の苦手とする場に半ば騙し討ちのように無理やり引っ張り込まれたことに関しては、それなりの報復をしないとどうにも収まらない。そういったわけで、留美るみにはまた別で礼をするとして、今日は仁哉じんやを私の領域へと連れ込むことにしたのだ。


「心配するな。所作は私を真似ればいいし、おかしい点があれば教えてやる」

「頼んだよ。こんないい店で、君に恥をかかせたくないんだ」


 失敗したくないのはあくまで私の為、というのがいかにも仁哉らしいと思い、私はつい笑みをこぼした。


「なんで笑ったの? 今、変なことしちゃった?」

「そうではない。そうではないが……」

「ちゃんと言ってよ! 不安でわけが分からなくなってるんだから」


 頬を紅潮させ、体をこわばらせるその姿が滑稽で、可笑しさをこらえきれなくなった私は盛大に笑い声をあげてしまった。


「れ、玲! そんな大きな声を出しちゃまずいんじゃ」


 慌てた様子が、火に油を注ぐように更に笑いを増長させる。オロオロとしながらどうにか私をなだめようとする仁哉をよそに、私はひとしきり笑わせてもらった。


「ひどいよ。店を貸し切りにしてくれてるなら、初めからそう言ってくれたってよかったじゃないか」


 アミューズとして出されたカナッペを慎重に頬張った後、ナフキンで口元を拭いながら仁哉が憮然としてそう言った。


「店内の様子ですぐに気づくと思ったんだ。観察眼に優れた君なら、わけはないはずなんだがな」

「いや、でも……それにしたって」

「普段と違う慣れない場においては、君でも目は曇るというわけか。いつ何時なんどき相手のテリトリーに引き込まれるか分からないのだから、様々なシチュエーションを想定し、心構えをしっかりしておいた方がいいぞ」


 若干の、いや、盛大な皮肉を込めて私がそう言うと、仁哉はあからさまに嫌そうな顔をした。


「上司と同じこと言わないでくれる?」

「君の上司は口だけだろう。私はこうしてきちんと実践させているんだ、一緒にしないでくれ」

「……」


 反論する術を失った様子の仁哉は、食前酒として出されたシャンパンを喉に流し込んでから、じろりと恨めしそうに私を見つめた。


「一気にたくさん飲みすぎるなよ。君は酒好きだがあまり強くないからと、留美に釘を刺されているんだからな」

「わ、分かってるよ。君に迷惑はかけないし、留美に心配もかけない」


 自分に言い聞かせる呪文かのようにそう言ってから、仁哉はグラスをそっと置いた。その中で揺れる透き通った薄い黄金色のシャンパンは、店内の明かりを吸い込んで煌めきながら小さな泡沫ほうまつを躍らせている。

 酒までもこうして美しい光景を演出してくれるのか、と、グラスに目を奪われていると――。


「……いいお店って、お酒も綺麗なんだね」


 仁哉も私と同じくしてその美しさに見とれていたらしく、恍惚としたため息をついた。

 同じ空間で、同じものを見、同じように心を動かされている者がいる。それはベビーベッドに眠る咲葵さきを二人で覗き込んだ、あの時の感覚を思い出させるようで、私はなぜだか体がじわりと温かくなっていくように感じた。


「咲葵はまだ何も分からないし食べられないと思うけど、それでも、留美と二人、連れて来てあげたかったなあ……」

「それは私の支払いで、ということか?」


 あまりにセンチメンタルにしみじみと呟くものだから、少し茶化してやろうと口を挟むと、仁哉はまさか、と声を上げた。


「今日だってごちそうになるつもりはないよ。こんな高そうなコース料理をおごってもらう理由なんてどこにもないんだから」

「やめておけ。貸し切りにした分も含めたら、勘定を二人で割ったとしてもそれなりに大きな金額になる。支払い額を見て留美が卒倒しても知らんぞ」

「えっ、留美が倒れちゃうのはまずいな。だけど、ここに見合ったお返しをするとなると……」


 どうやって留美に交渉するか真剣に考え込みはじめた仁哉を見て、私は思わず苦笑した。


「そう深く思い悩むな。今日は私の個人的な事情でここに連れてきただけだし、お返しなど必要ない」

「そんなわけにいかないよ。メールだって手紙だって、僕が送った分で締めると決めてあるんだ。だから今回も」

「……なら、また君の家に呼んでくれればいい」


 友人としての純粋な気持ちから紡ぎ出したその言葉は、女性を相手にした誘い文句で吐くセリフとはまた違って、素っ気なく短いものになってしまった。

 誰かに自分を受け入れてもらおうとすることなど、ずいぶん遠い昔に切り捨ててしまっていた私にとっては、かなり勇気のいる提案だったのだ。

 そのことに気付いているのか、はたまたそうではないのか……それは分からないが、仁哉は黙って私をじっと見つめ返した。


「一回だけじゃ、たぶん返しきれないと思うんだ」

「……?」

「そりゃ、留美の作るご飯は絶品だよ。きっとここの料理に負けないくらいおいしいと思うから、舌とお腹は同じように満足させられる自信はある。でも、材料費やら何やらを加えても、ここで玲が支払う金額には遠く及ばないと思うんだよね」


 まだ金に換算して考えているらしい。私は仁哉がどんな答えを導き出すのかが楽しみになって、何も言わずにその先に続くであろう言葉を待った。


「百回にしよう」


 しばらく考え込んでから、仁哉はそう言った。


「これから百回、君を家に招待する。毎回ちゃんとしたおもてなしで迎えることを約束するよ。僕と留美、それから……咲葵も一緒に」


 シャンパングラスに手を伸ばす。私は酒の味をじっくり味わっているかのように、目を閉じてゆっくりとそれを飲み下していきながら、突如胸に湧きあがった何かをき止めようと言い訳を頭に巡らせた。

 とっさに返事ができなかったのは、グラスに口を付けていたせいだ。喉の奥がひりつくのもシャンパンを流し込んだからであって、決して強い感情に心を動かされた為ではない。

 炭酸が喉で弾ける感触がしっかり収まったのを確認してから、小さく息をつく。


「それは……ちゃんと計算した上での”百回”なのか?」


 私の問いかけに、仁哉は緩く笑いながら首を横に振った。


「いやぁ、いろいろ考えたんだけど。そういえば百って区切りがいいなと思って」


 今まで険しい顔をして思考を巡らせていたのに、なぜ”そういえば”なんていう行き当たりばったりな思い付きを選んだんだ。

 そう思ったが、口には出さないでおいた。聞いてしまえば”いろいろ考えた”の内容から嬉々として仔細に説明されるのは分かっていたので、恐ろしく長い話に付き合わされるのは避けたかった。


「月に二回呼ぶとして……そうだな、四年と二か月か。その時に、今日の分のお返しは完了することになるよ。君が追加で何かを贈らなければ、の話だけど」

「なるほど。では間違っても誕生日プレゼントで君を喜ばせる真似はしないよう、四年間気を付けることにするよ」

「えー! そこはほら、何て言うかさぁ」


 仁哉の言いたいことは分かっているし、欲しているであろう言葉も分かっている。私は敢えてそれに取り合わない姿勢を見せつつも、内心ではまた四年後、期限を迎える直前にこの店を貸し切りにしようと決めていた。





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