(3)




「いやあ、紫藤しどうってホントいい人だよね!れいのことよく分かってるし、それに僕のことも歓迎してくれて。彼に外せない用事がなければ、今日ぜひとも一緒に来てほしかったんだけどなあ」


 紫藤が、帆高ほだかの招待を受ける、と勝手に返答していた。昼夜鳴り続ける電話がうるさいという理由かららしい。迎えに来た帆高に私は人身御供よろしく差し出され、こうして彼の車の助手席に大人しく座らされている。

 電源を切ると家まで押しかけてくるので、それよりは放置するだけの方が良いかと思っていたのだが……算段が甘かったか。

 まあ、紫藤が「電話がうるさいから」などという動機でそんなことをするはずもなく、ただいつも一生懸命に私を誘い出そうとしている帆高を不憫に思い、そのような対応をしたのだという察しは付いていた。算段が甘い、とは、私を帆高に引き渡す理由を紫藤に与えてしまった、ということだ。


「今日という日が来るのを楽しみにしていたんだよ!もちろん、留美と咲葵も……ああそうだ、娘の名前なんだけど、由来をぜひとも君に聞いてほしくて」

「うるさい。黙って運転できないのか」


 うんざりするほど毎日のように電話で聞かされてきたこの声で、これほど隙間なく話しかけられるとたまったものではない。せわしなく動く口を抑え込んでやりたい衝動を抑え、私は憮然としながらそう言った。


「黙ってると僕、車酔いしちゃうんだよね~。自分で運転してるのに、おかしな話だろ」

「……なら、私が運転を代わろう」


 あと小一時間もこのおしゃべりに付き合わされるなど、私の方が悪酔いしてしまいそうだ。そう思っての提案だったのだが。


「それはもっとだめだよ。車内をひたすら汚すマシンと化してしまうからね」


 八方ふさがりである。

 結局、帆高は本当にずっとあの調子で話し続け、家にたどり着いたときはもう、彼についての知識は本人並みに持ち合わせているのではないかという程、彼の事に詳しくなってしまっていた。


「ささ、入って入って。僕のお城だよ!」

「……ああ」

「あっ、こんな小ぢんまりした城があるか、とか、ずいぶん狭いな貧乏人め、とかそういうのは言いっこなしだよ。君の家の方がすごいのは分かっているけど、ここは僕にとっては唯一無二の」

「そんなことは思っていない。どうでもいいからさっさと中へ通せ」


 さっきは車酔いしないようにと仕方なく話に付き合ってやったが、これ以上は本当に殴ってしまいそうだ。私は苛々しながらも、帆高の後について家へと足を踏み入れた。

 その、瞬間。


(……甘い)


 感じたのは、懐かしい香りだった。記憶の奥にしまいこんだ何かを呼び起こさせるような、心を揺り動かす甘やかな香り。食べ物の匂いや香水のそれといった、嗅覚に直接訴えかけるものではないはずのに、なぜ甘い”香り”と認識したのかは分からない。ただとても心地よく、私はそれに強く惹きつけられてしまった。


「おーい、留美るみ! 今帰ったよ!」


 帆高の大声に、はたと我に返る。おかえりなさい、という声が廊下の奥から聞こえ、私はそちらへと視線を向けた。


「こんばんは。いらっしゃい、都倉さん」


 出迎えてくれたのは、確かにあの時助けた妊婦だった。だが先日のような猛々しい雰囲気は全く感じられず、今はのんびりというか、柔らかな雰囲気をまとっている。


「改めて、出産おめでとう。産後からまだ一か月程なのに、押しかけてすまないな」


 紫藤が抜かりなく準備していたお祝いの品を渡しながらそう言うと、彼女は嬉しそうに感謝の言葉を口にした。


「体調はどうだ?」

「おかげさまで肥立ちも良くって、元気が有り余ってるんですよ私」

「……そうか。だが、長居をするつもりはないから安心してくれ。あまり無理をさせるのも良くないし」


 ここまで来ておいてすぐに踵を返すような失礼な真似をするつもりはないが、こういった”家庭”の暖かな空気が充満する場所は苦手なのだ。できるだけ早く帰る腹積もりでいた私は、その計画を実行に移せる理由をなんとか見出そうとしていたのだが。


「そう仰らないで、ゆっくりしていって下さい。あの時お礼も言えなかったし、ちゃんと恩返しがしたいんです」


 上がりがまちにスリッパを並べながら、彼女は穏やかにそう言って微笑んだ。


「さあ、上がって! 夕食の用意も万端だし、僕らは付き合えないけどお酒も準備してあるよ」


 どうやら二人とも長時間私を拘束する目論見らしい。気遣いを装って早々においとましようという計画は早くもとん挫する様相を見せ、私はがっくりと項垂れた。


「じゃあ私、テーブルのセッティングしてくるから。待ってる間、都倉さんに咲葵の顔を見せてあげてよ」

「分かった……って、え、見せるだけ? 抱っこは?」


 あいにく、と言うべきか、彼らの娘――咲葵さきは寝付いたところだったらしく、あの時のように抱かされることはなかった。

 ただ、ベビーベッドで眠る咲葵は生まれた直後と比べてもはっきり分かるほどに大きく成長していて、再び私は彼女に驚かされることになった。赤ん坊というのは、大人の想像をはるかに上回る速度で成長していく生き物らしいことは聞いていたが、まさかこんなにサイズ感が変わるとは思ってもみなかったのだ。


「本当に、あの時生まれた子なのか?」

「うん、そうだよ。僕の赤ちゃんの時にそっくりでさあ。ホント可愛いよねぇ」

「……」


 ここで肯定してしまえば、私は帆高自身を可愛いと言うことになる気がして、何も答えなかった。

 それにしても、こうして見ていると、寝ている時の表情や仕草は大人と何ら変わらないのだというのがよく分かる。まだ知らないこと、できないことの方が多いのに、こういう所は学ばずとも人間らしく振舞えるのだ。そのことがとてもいじらしく思えた私は、無意識の内に口の端を緩ませていた。


「こうして見てると、ついにやけちゃうよね」

「本当に、不思議な生き物だな」


 素直な感想を述べただけなのだが、帆高は驚いたような様子で、咲葵から私へと視線を移し替えた。


「……なぜ私を見るんだ」

「ちょっと感動しちゃって。玲が正直に自分の気持ちを話してくれるなんて、思ってもみなかったから」

「帆高、お前は私をどんな目で」

「あっ、ストップ」


 咲葵を起こさないように小声で、だがきっぱりとそう言い放って私の言葉を遮る帆高。私は眉根を寄せて帆高を見つめ返した。


「ここで僕を帆高と呼ぶのはナシだよ。だってこの家にいるのは、君を除けばみんな帆高なんだから」

「またそれか……」


 いい加減にしてくれと思った。以前も、帆高からもらった電話で話した時に同じようなことを言われたのだ。エージェントとして接する時は仕方ないが、そうでない時は本名で呼べ、と。


「なぜそんなことにこだわる? 呼び方など、別にどうだっていいではないか」

「大事なことだよ。君と僕の距離はお互いの呼び方で決まるんだから」

「ならずっとコードネームの”滝山”で呼ばせてほしいのだが」

「論外だね」


 私の気持ちを汲むつもりはさらさらないらしい。これ以上論じても面倒なことになるのは分かっていたから、ここは帆高の気のすむように振舞ってやることにした。


「……では何と呼べばいい」

「そりゃあもちろん、」







 夕食を平らげるころには、私は彼らを”仁哉じんや”、”留美るみ”と呼べるほどには親しみを感じるようになっていた。仁哉にそのような感情を抱くのは、これまでのいきさつもあったせいで些か不本意だったが、留美という制御が加わると、仁哉はそれなりに無害になり、良い距離感を保てることが分かった。

 彼女は、出迎えてくれた時の穏やかな雰囲気とは全く違った性格で、どちらかと言えばあの時分娩室で見せた態度の方が普段の様子に近いようだった。仁哉のような、手に負えない暴れ馬をコントロールできるのもうなずける。

 私はもう既にあの姿は知っているのになぜ取り繕うような振る舞いをしたのかと聞けば、仁哉から、私が靴を脱ぐまでは大人しくしてくれと頼まれたのだという。仁哉は、留美がいきなり強めな態度で出迎えると、私が怯えてしまうと思ったとか……。


「そんなタマには見えないから大丈夫だって言ったんだけどね。仁哉、どうしても玲を逃がしたくないからって」


 その言葉で、仁哉の私に対する執着心が半端なものではないことを再確認させられ、深くため息をついた。


「いや、でも……万が一の可能性を考えるとさぁ」

「つーかね、あんたそれ私に対してかなり失礼なこと言ってるからね? こんな細腕の女性が男の人を怖がらせられるわけないんだから」


 いけしゃあしゃあと、という表現がぴったりだと感じるそのセリフに、仁哉は首をすくめて反省した様子を見せながらも、「よく言うよ」とごく小さな声でつぶやいていた。


「あ、今の聞こえた。仁哉、お皿洗い決定ね。テーブルの上今すぐ片付けて」

「えー! ちょっと待ってよ、まだもう少し話をしてから」

「グチグチ言わずに立つ!」


 空っぽになった茶碗を手渡され、仁哉は憮然とした表情を見せながら渋々立ち上がる。留美がてきぱきと慣れた手つきでまとめた皿を、仁哉はしょんぼりと項垂れながらも、素直にキッチンへと運んで行った。私はこの時、仁哉から迷惑行為を受けた折には彼女を頼りにすることを密かに心に決めたのだった。


「君には、頭が上がらないみたいだな」

「そりゃあね~。だって仁哉、私のこと大好きだから」


 夕食後に言ったものとは違う、今日二度目の「ごちそうさま」を伝えると、留美は得意げに笑ってみせた。


「ちょっと咲葵の様子を見てこようかな。そろそろお腹がすく頃だろうし」


 キッチンから水音が聞こえ始めた時、留美はそう言いながら席を立った。これは辞去する頃合いだと見た私が合わせるようにして立ち上がると、留美は目を丸くしてこちらを見上げた。


「帰っちゃうの? まだお酒出してないし、もうちょい仁哉に付き合ったげてほしいんだけど」

「しかし……知らない者がいると、子供が落ち着かないのではないかと」

「咲葵なら大丈夫、きっと玲のことちゃんと覚えてるわよ。知らない人じゃなく、初めて自分を抱っこしてくれた男の人だって」


 そう言われ、なぜか両頬が熱くなっていくのを感じた私は、誤魔化すように前髪をかき上げて僅かに下を向いた。長居することに気後れさせないよう、留美が気を遣って掛けてくれた言葉だということは分かっている。だが社交辞令と理解していても、私はそう言ってくれたことを嬉しく感じていた。


「あ、良かったら、もう一回咲葵の顔見に行っちゃう? 時間的にも起きてくれるだろうし」

「いや、もう九時前だからな。さすがに今日のところは遠慮しておくよ」

「えー、そう? それじゃあ……」


 なかなか席に戻らない私に、留美は私がまだ帰る気でいるのではないかと不安になったのだろう。さっきは”仁哉は自分に惚れ込んでいる”と自信たっぷりに言ってのけていたが、彼女の仁哉への思いもそれに劣らない強さのようだ。私は苦笑しながら腰に手を当て、勝手に帰ったりはしないと言ってやった。


「……ホントに?」

「心配するな。仁哉の手伝いでもしておくよ」


 留美はほっとしたように破顔すると、仁哉にミルク作りを頼んでほしいと言い残し、ダイニングを後にした。


「代わろう」


 仁哉の横に立ち、洗いかけの皿とスポンジを取り上げる。


「えっ……いや、だめだって! 玲は大事なお客様なんだし、ゆっくりしててくれよ」

「留美が咲葵のミルクを作っておくように言っていたから、君はそちらを頼む」


 私がそう言うと、仁哉は僅かに迷いも見せながらもうなずき、泡だらけの手を流してから自分がいた場所を空けてくれた。


「いつも、ごめんね」


 やかんを火にかけながら、ふと仁哉がポツリと呟いた。


「……何だ急に」

「分かってるんだ、玲は僕がしつこく付きまとうことを嫌がってるって。それなのに」

「……」

「迷惑掛けたくないっていう気持ちは確かにあるんだよ。だけど、どうしてだか抑えきれない。ホント嫌になるんだけどさ、自分の気が済むまでとことんやって、いつもそれからやっと我に返るんだ。ああ、やりすぎたって」


 洗剤をすすぐ水音にまじり、沸騰間際の掠れた蒸気の音がキッチンに響く。

 私はそれに耳を傾けながら、自分の中にある仁哉の為人ひととなりを思い描いた。

 あれほど毎日電話攻撃を受けてはしつこく誘い出され、確かに疎ましく感じてはいたし、おそらく今後もその気持ちは変わることはないだろう。それでも強く突き放せないのは、彼が担当エージェントだという理由からではなかった。

 悪い男ではないのだ。誰かを悪しざまに言う事もないし、本人なりに一生懸命相手を思いやろうともしている。その思いやりの方向性がずれていたり、他人ひとより劣る部分――制御力に欠けるところがあるせいで空回りしてしまう、というところはあるにせよ、朗らかで賢く、一途で優しい人間を嫌悪する気持ちは、少なくとも私の中には一かけらも生まれてはいなかった。


「仕方ないさ」


 しばらくの沈黙の後、私は水を止め手を拭きながら口を開いた。


「世の中にはそんな人間だっている。その特性を気に病むのは仕方のないことだが、あまり苦悩しすぎると泥沼にはまってしまうぞ」

「そうなん、だろうけど……」

「君のそういう所を知っても尚、受け入れてくれる人がいるだろう。そのままの君を許してくれているのなら、もうそれだけでいいと思え」


 それまで自分のつま先を見つめていた仁哉が、ふと顔を上げる。


「それは……玲、君もその中の一人だと思ってもいいのかな」


 その通りだと素直に肯定するのも、自分は違うと天邪鬼に突っぱねるのも、心の内と向き合い、本来の思いに気付いたばかりの私にはできなかった。ただ仁哉に視線を向けないまま、黙って小さくうなずくのが精いっぱいで……。それでも、仁哉がこれ以降、このことで思い悩む姿を見ることはなくなったのは、私の思いがきちんと伝わったからだと思いたい。





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