(4)
さっき一緒に作ったスコーンは、程よい温かさ、と表現できるほど温度を下げていて、柔らかで香り高い風味は、練りこまれたチョコチップの強い味に組み伏せられることなく私の口の中を満たしてくれる。
ちょっと気分を変えようという
(あれ、そう言えば……)
心に余裕ができたせいか、ふと周囲の様子が気になった私は、薄めに淹れたコーヒーで舌をリセットさせながら、改めてじっくり辺りを見渡した。
他の部屋は分からないけれど、少なくともこのリビングは必要最低限の家具が置かれているくらいで、彩りを添えるようなオブジェなどは一つもない。一言で表すなら、ずいぶん殺風景な印象だ。今思えば、キッチンにある調理器具やなんかも特別なものは見当たらなかった。
オーベルジュにはたくさんの調度品や装飾がしつらえられていたから、ああいったアンティーク調のインテリアが好きなのかと思っていたけれど、もしかしたら都倉さんは本来、ミニマリストというやつなのかもしれない。
そう思って尋ねてみたら――。
「いや、ここは少し借りているだけと言うか……本宅はもっと郊外にある。都会の喧騒の中で暮らすのは、あまり好きになれなくてね」
返ってきたのは、何だかとってもブルジョワジーな答えだった。
「じゃあ、どうしてここを借りられたんですか?」
「それは――……」
都倉さんは少し気まずそうな顔をして目を逸らしてしまった。ごく自然に湧き上がった疑問を素直に口にしただけで、本当に他意はなかったのだけれど、ちょっと踏み込みすぎただろうか。
「……すみません、言いにくいことでしたか」
「いや、まあ……中心街に近いところでの寝床が欲しかったんだ。遠い自宅に戻るのが億劫になることがよくあるから」
「え……」
帰るのが面倒だという理由で一流ホテルに躊躇なく泊まるのだから、自宅とは別に高層マンションの一部屋くらい借りていたって、確かに不思議はない。そう考えるとその返答はいかにも都倉さんらしいと思いついて、何だか可笑しさがこみ上げた私は、思わず吹き出してしまった。
「今、笑う所だったか?」
「い、いえ。ごめんなさい、何と言うか……すごい発想だなあと思って」
私の返事に納得いかない様子で、都倉さんは思案するように首を傾げる。
「家が遠いなら近くにも用意しようなんて、私にはとても思いつかないですから。とても斬新に感じたんです」
「ふむ……。そうか……」
やっぱり納得はしてもらえないようだ。あごに手をやり、真剣な面持ちで考え込んでしまった都倉さんのその様子がまた私を笑いに誘うので、緩んだ口元に気付かれないよう、スコーンを一つ口に放り込む。
不思議な人だ、と思った。
お金持ちの刹那的なところはあまり好ましいとは感じないのに、都倉さんはそういう人種独特の厭らしさがないせいか、逆に”さすが”とさえ思える。ああして私と同じようにスコーンを食べているだけでも、所作がいちいち
お金持ちの振る舞い方は将来自分がそうなった時に考えるとして、私もいち大和撫子として、こんな風に綺麗に動きたいと思った。長年身に染みついたものが付け焼刃のもので覆い隠せるはずもないのは分かっているけれど、やっぱり憧れてしまう。
とりあえず、背筋を伸ばして肩を丸めないように、お腹に力を入れつつ、足は……。
(う……、これは、ちょっと……)
全神経を指先まで余すことなく集中させることができれば、五分くらいはその姿勢は保てるかもしれない。でも、それ以上は多分むりだ。
昔の人はみんな大体こんな感じなのか、それとも都倉さんが特別なのか。詳しいことはよく分からないけれど、何となく、後者の理由――例えば高貴な家系の出身であるとか――のように思えた。
「……
「えっ、あっ……はい!」
「そう熱心に見つめられると、落ち着かないのだが」
困ったようにそう言われ、自分が無遠慮な視線を都倉さんに向けていたことに気が付いた私は、慌てて目を逸らした。
「ご、ごめんなさい、ちょっとぼんやりしてしまって」
誤魔化すように、コーヒーを流し込む。
一人掛けソファの背もたれに深く背中を預けて片肘をつきながら、都倉さんは小さくため息をついた。
「……何か、聞きたいことがあるのだろう」
「えっ……いえ、その」
実は動作の美しさに見とれていまして、という言葉が喉の辺りまで上がって来ていたけれど、参考にして自分に落とし込もうとしていたことが何だか恥ずかしくて、それは胸の奥に押し込んでおいた。
「遠慮することはない。君にはいろいろと知る権利はあるのだから、私が分かる範囲のことなら全て答えるよ」
「……」
逸らしたままだった視線を再び都倉さんに戻し、様子をうかがう。
「あの……何でもいいですか」
「何でもいいし、いくつでも構わない。君の気が済むまで、いくらでも付き合うよ」
せっかくの申し出だし、知りたいことがあるのは事実なので少し考えてみることにした。
父のこと、母のこと、
(あ……)
思いついた中で、一番心に引っかかったもの。小さな迷いが胸を
「都倉さんは、どうして両親と疎遠になったんでしょうか」
予想だにしない質問だったのだろう、都倉さんの瞳が驚いたように大きく開かれる。
何でもいい、と言ってくれたのは都倉さんの気遣いでしかなく、そこに馬鹿正直に甘えてしまうのは、内容が内容だけに正直良くなかったかもしれない。
それでも、これはどうしても知っておきたいと強く思った。
「都倉さん、オーベルジュで両親の話をしてくれましたよね」
「ああ……あの時は、当たり障りのないことしか言えなかったが」
「両親との思い出を大事にしてくれている、っていうのは充分伝わってきましたし、きっと両親も生きていれば同じ気持ちでいたと思います。お互いを思い合っていたように見えるのに、どうして離れてしまったのかなって」
「……」
都倉さんの表情はやや苦々しい。やっぱりそうおいそれと話せることではなかったか、と、私は肩を落とした。
「ご、ごめんなさい。もっと重要なことだってあるし、そんな簡単に言えることじゃないですよね……」
「すまない、そうじゃないんだ。……ただ、どう言えばいいのか」
都倉さんは気遣うように小さく微笑んでから、腕を組み、足元を見つめるように視線を落として逡巡する様子を見せた。
「……
しばらくの沈黙のあと、都倉さんは深慮する姿勢は崩さないままでそう尋ねた。
CRO局員は、家族にも自らの素性は明かさないことが基本的な規則になっている。そういった理由からではないかと答えると、都倉さんは小さく首を横に振った。
「それだけではない。何にも縛られない普通の女の子として君を育てたいという、強い願いがあったからだ」
「……そうだったん、ですか」
「普通の幸せをつかんでほしいというのは、私も同様に考えていたことだった。だが私が関わっていてはそれは恐らく叶わないと……そう思って、身を引いたんだ」
亜人、もしくはCROという組織の存在を認識していると判断されると、その人物は否応なくCROの管理下に置かれて不自由な生活を強いられる。それは、今朝家を出る前に
その対象が未成年であれば監視はより厳しいものになるらしく、生活の全てを――それこそ、通う学校、放課後や休日の過ごし方、付き合う友人まで、CROの指定した枠内に収めることになっていたのだそう。
だから都倉さんは、私に物心がついて全てを理解するようになる前に距離を置いた、ということだった。
「矛盾しているだろう」
「え……」
すぐにその言葉の意図を汲み取れなかった私は、真意を求めるように首を傾げた。
「君たち家族を思って姿を消したのに、今になって君の前に現れ全てを暴露してしまうなど……私のしたことには整合性がないと思わないか」
その呟きは私への問いかけという形は成しているものの、都倉さんは答えを求めていないように感じた。
それでも、自分の中に浮かんだ相反する思いを伝えないままで、このことが流れてしまうのをどうしても避けたかった私は、強く
「都倉さんは選択肢を与えてくれただけで、道を選んだのは私です。整合性がないのではなくて、過去とは状況が変わったから、対応も変えなくてはいけなくなったというだけではないですか?」
そのせいで何か罪悪感のようなものを感じているなら、取り払ってほしい。そんな思いから遠慮なくはっきりそう伝えると、都倉さんは憂いを帯びた表情に小さな笑みを重ねた。
「私にあったのは、たった一人の遺族に真実を告げるべきだという道義心だけではないんだよ。その奥にある利己的な部分はどうしても削り切れなかった。君がこちら側を選んだのは、僅かに表面ににじみ出てしまったところも汲み取ってしまったからなのではないかと……そう、思えて」
「利己的な部分……?」
「……昔を懐かしむだけでは気持ちが抑えられなかった。君が、私や
一瞬の迷いを経て告げられた都倉さんの内なる思いは、オーベルジュでブランデー入りコーヒーを飲んで倒れた時の記憶を蘇らせた。あの時、勘違いだったとは言え
だから、あんな風に……。
(あ、やばい)
つい、都倉さんのあの時の熱っぽい表情まで思い起こしてしまった私は、頬の温度が上がり始めたのを感じ、髪の毛が両頬を覆い隠す形になるように顔を下に向けた。
「すまない、こんなことを告白すべきではなかったな。私は崇高な人間ではなく、打算もあったということを知っておいてほしいと思ったのだが……ただ君を困らせただけになってしまった」
私がうつむいて黙り込んだことを、都倉さんは悪い意味で捉えてしまったようだった。慌てて顔を上げ……ることがまだできそうにないので、違うんです、と言いながら何とか首を振って、都倉さんの考える心境ではないことをアピールした。
「困っているわけではなくて、何と言うか。……その、都倉さんの望むような対応が私にできるかどうか、どうも自信が持てなくて」
「それはつまり、できそうにないから困っている、ということだろう?」
「あ……。いや、でも」
そんな厳しめにつつかないでほしい。このままではドツボにはまってしまいそうなので何とか打開策を求めたけれど、すぐに良い考えなんて浮かぶはずがない。焦れば焦るほど顔がどんどん熱くなっていって、私はますます深く
「咲葵。これは私の勝手に抱いた願望だから、君が気負って応じることはないんだよ。昔のことにこだわらず、今後は友人の中の一人として扱ってくれれば嬉しいのだが」
ここ数年で友達づきあいというものからすっかり離れてしまっているせいか、やっぱりどちらにしろ自信は湧いてこなかった。
こないだ、手を握られて名前を呼ばれただけ(ブランデー入りコーヒーの効果も上乗せ状態)で卒倒したのも、そういった感情が背景にあるのが原因だろう。恋に落ちたとか、そういうはっきり輪郭の分かるものではないけれど、これほど見目麗しい人と接近すれば、女性として反応をしてしまうのはごく普通のことだから仕方ない。……と言い聞かせている。
問題は、都倉さんの中では私が小さな子供のままである、ということだ。都倉さんは、昔は忘れて新しい関係を、と言ってくれたけど、親子とまではいかなくても叔父と姪、くらいの関係性を求める気持ちが内包されているはず。
これまで都倉さんが大事にしてきた私たちとの思い出を、私のしょうもない下衆な感情で壊したくはない。それには、私はもっと無垢な気持ちでいなければいけないのである。
「……そうだ」
私が昔を覚えていないことがネックになっているのだから、何か少しでも思い出すことができれば、こういった気持ちは霧散するかもしれない。
そう思い立った私はようやく顔を上げて、都倉さんにまっすぐ向き合った。
「昔のこと、聞かせてくれませんか」
「……昔のこと?」
突然の提案に、都倉さんは驚いたような様子でそう言いながら小さく首を傾げた。
「両親と出会った時の本当のエピソードとか、私とどんな風に過ごしたのか、とか……。オーベルジュでは、ちゃんと聞けなかったから」
あの時は、”仕事の関係で出会った”という本当に表面をかすめたくらいの事しか聞けなかった。過去のつながりを少しでも思い出すことはもちろん、都倉さんの中にある両親の記憶を私も共有したいという気持ちがあるのも確かで、この機会にそれを成就しようと考えたのだ。
「……長くなるが、構わないか」
都倉さんは私の提案を受け入れてくれたようだ。私は間髪入れずに、大きくうなずいて見せた。
「都倉さんのお時間が許すなら、いくらでも大丈夫です」
コーヒーカップを手に取り、私はソファに深く座り直した。
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