(3)
連れて来られたのは、私が勤める会社からごく近いところにある高層マンションだった。そのずいぶん上階にある一室に、何の説明もなく押し込まれ、そのままキッチンスペースに追いやられ、エプロンを手渡され。デニム素材のそれを握り締めながらポカンとする私に、都倉さんはにっこりと笑って一言、言ったのだ。
一緒にスコーンを作ろう、と。
「さあ、焼けたぞ」
そう言いながら都倉さんがオーブンを開く。そこからふわりと優しく甘い香りがあふれ出て、私は思わずうっとりと目を細めてため息を吐いた。天板に行儀よく並んだ、黄金色のスコーン。丁度良く色づいた焼き色も、ところどころに散りばめられたチョコレートチップも、その佇まいすべてが私を魅了している。
「一つつまんでみるか?」
恍惚とした私の表情を見かねたのか、都倉さんが呆れたように苦笑する。が、私は慌てて緩んだ口元を引き締め、首を横に振った。
本当はその申し出に喜んで飛びつきたかったのだけれど、スコーンは粗熱が取れてほんのり温かさを感じる位が食べ時なのだと説明を受けたばかりだったのだ。焼きたての今はまだ味がばらついていて、本来のおいしさを感じられないらしい。
「もう少し待ちます。お茶の準備も出来ていないし、それに」
「いいから。ほら」
言葉を遮るようにそう言いながら、都倉さんは一つをトングで挟み、小皿に載せて差し出してくれた。
表面からかすかに立ち上る湯気が、内にはらむ熱の高さを表している。それは魅惑的な香りをふんだんに含んでおり、私の鼻孔をこれでもかとくすぐっていて、「我慢の利かない食いしん坊と思われたくない」という羞恥心が支えていた理性を恐るべきスピードで瓦解させていった。
「焼きたてのこれと、この間店で食べたものと。味の違いを比べてみるといい」
都倉さんの有難い提案が決定打となり、私はコクリとうなずいてスコーンの載った皿を受け取った。指先で熱さを感じながら、火傷しないように慎重に一かじりする。先日、オーベルジュの庭園で食べたもののようなサクサク感は少なく、どちらかと言うとふんわりと柔らかな歯ざわりをしているように感じた。
「意外と柔らかいんですね」
「ああ。それに、風味も鈍いだろう」
「そう言われれば……。チョコレートの香りや味はそれなりに分かるんですけど」
あの時強烈に香ったバターや小麦の匂い、甘みは、熱に邪魔されているせいかそれ程感じられない。これはこれでおいしいけれど、あの味を知っている者からすれば、全く違うレシピや材料で作られたと勘違いしてしまいそうなほどの落差だ。
「なんだか、不思議です。お料理は何でも出来たてが一番だと思っていたのに」
「ものに依りけり、ということだ」
スコーンを天板からケーキクーラーに載せ替えながら、都倉さんがしみじみと呟いた。
「ジビエも、このスコーンも……時間をかけて熟成させることでおいしさを深めることができる。レスポンスの速いことは確かに素晴らしい。だが」
一呼吸置いて顔を上げ、都倉さんは少し寂しそうな笑みを私に向けた。
「全てにおいて性急である必要は、どこにもないんだよ」
「……」
その言葉に他意はなく、ただ本当に料理についての持論を語ってくれただけなのかもしれない。だけど私には、それは救いの言葉のように聞こえていた。
ここに至るまで――父の死とまっすぐ向かい合うまでに、随分遠回りをしてしまった。もっと早くに動くべきだったのでは、という後悔にも似た思いは確かに私の中に芽生えていて、この先私の心を苛んでいくことは間違いないだろうと、そんな風にも考えていた。
でもその遠回りは決して無駄なものではなく、私にとっては意味のある、重要な道のりだったのだと思わせてくれるような、そんな優しい気遣いのように感じられたのだ。
(うん、大丈夫)
自然と、そんな気持ちになった。真実を知ることへの恐怖心、それすらも受け入れて行く勇気をもらった気がした。
◇
父が亡くなった理由は、組織内では”職務中の事故”というかたちで報告があげられていたらしい。
CROの中でも父が属していた”総合情報管理部”の者は”
父は、罪のない人を次々惨殺したとして捕縛された、とあるライカンスロープを連行する任務を担っていたそうだ。もちろん、危険な相手であるためにそれは数人がかりで行われ、万全の対策を施した上で遂行された。その中で起きた不幸な事故、というだけなら、それは決して特別な内容ではないはずだった。
「……その任務にあたったとされるエージェントが誰だったのか、仁哉以外は一人も公表されなかったんだ。公文書として残されているはずの任務内容も、いつの間にか削除されてしまっていた」
死亡事故のあった任務に関する情報は一旦は機密扱いになるのだけれど、組織内での調査が終わり、”解決”と見なされて以降は解除され、組織の関係者なら誰でも閲覧することのできる一般文書として公開されるらしい。だけどそういった経緯をたどることも無く、突如として削除されてしまえば「何かある」と勘繰るのは必然のことだった。
「そこから、妙な噂が広まり始めたんだ」
「噂?」
「ああ。……」
都倉さんは私から視線を外しながら、何か思案するようにまつげを軽く伏せた。
「今はほとんど聞かなくなったのだが、昔は亜人の売買が横行していてね。個体そのものの美しさに価値を見出されることもあれば、不治の病に良いとされる薬がその臓器で作ることができるとかいう迷信から乱獲されたりして――」
そこまで言ってから、都倉さんはコーヒーカップを取り上げた。その仕草には苛立ちのようなものが見え隠れしていて、気持ちを落ち着かせるかのように一口、二口とコーヒーをゆっくりと飲み下していく。
「……その亜人の売買が行われていたのが、妙な噂、ということですか?」
なかなか先を続けてくれないことにわずかなもどかしさを覚えてそう尋ねると、都倉さんは静かに首を横に振った。表情は険しく、眉間にしわが寄せられている。その様子は、話の内容がひどく言い辛いものであるということを物語っているように思えた。
「言って下さい、大切な事なんでしょう? 私、絶対目を逸らさないって決めたんです。だから」
今のこの沈黙が、私を思いやってのことだということは手に取るように分かる。私を傷つけないよう、できるだけ衝撃を与えないように言葉を選んでくれているのだろう。でも、いつまでもその優しさを受け入れているばかりでは前に進めない。そう思って少し強めに詰め寄ると、都倉さんは幾度か小さく頷き、コーヒーカップをソーサーに置いて大きく息をついた。
「本来なら取り締まるべき側にいなければいけないはずのCRO局員が、率先してそういった違反行為の手引きをしていた形跡があったらしい。仁哉が殉職したのは、それが発覚した矢先のことで」
心臓が、一つ、嫌な音を立てる。
都倉さんがここまで言い淀んでいた様子を鑑みても行きつく先は一つしかなく、そしてその悪い予感の通りの”噂”を都倉さんは私に伝えた。
亜人の売買に手を染めた局員――帆高仁哉は、その罪を
「殉職に見せかけて、処分されたということですか……?」
「……その通りだ」
早まる鼓動が全身に響き渡る。じんと熱くなった手のひらは一気に汗で湿り始め、私はその感触を誤魔化すように両手を固く握りしめた。
「そんな……まさか、父は本当に」
「仁哉が亜人の売買などに関わるはずがない。……しかし、正義感が強くやや融通の利かないところがあった仁哉をよく思わない連中がいたそうなんだ」
違反行為に関わったことをきっぱりと否定してくれたことにささやかな安堵を覚えながらも、都倉さんの言葉がはらむ不穏な空気は、私の鼓動が安らぐことを許してはくれない。
私は自分を落ち着かせようと、膝の上で握りしめていた手を開きながらテーブルの上に置き、肩の力を抜いた。
「仁哉は局員の不正を見逃すことができず、告発したことが何度かあったらしい。それによって組織の上層部へと至る道を断たれた者の逆恨みから仁哉は手を掛けられ、罪を押し付けられたのだと留美は言っていた」
「母が……?」
思いがけず浮上した母の名に反応すると、都倉さんは
「この件はほぼ留美が単独で調べ上げたものなんだ。私が情報を引き継いだのは、彼女が亡くなる直前だった」
私が過去に二人に対して抱いた疑念、その答えとなるピースがこれでそろったように思えた。
父の葬儀に参列者がいなかったのは、非人道的行いをした者の死など悼むに値しない、という判断が下された為で、母が治療を拒否したのは、その時間を父の死の真相を追う事に全て宛がう為だったのだ。
家族を何よりも大事にしていて、人が大好きだった父。そんな父が、全てを犠牲にして没頭した事が亜人の密売だったなんて到底信じられるわけがない。
母も私と同じ気持ちで……だけど誰も父を振り返ろうとはしなかった。組織の
だからたった独り、命のタイムリミットを削ってまでも、父にかけられた冤罪を晴らそうとして奔走していたに違いない。
(……っ)
母が感じたであろう心と体の痛みに寄り添った途端、喉の奥を焦がすような思いがこみ上げてきた。それがあふれ出してしまわないよう、唇をかみしめてこらえながら、私は小さく深呼吸をした。
「……CROの父の死に対する見解は、初めと変わらないんですか?」
「職務中の事故として扱っていることには変わりないらしい。ああいった噂がまことしやかに流れていることは織り込み済みの上で、だが」
肯定もしないけれど、否定もしない。つまり、CROは父が亜人の売り買いに手を貸していたことを、公ではなく暗黙の内に認めているということになる。
大きな組織というのは、どれもこんなものなのだろう。ただ黙して時間が過ぎるのをひたすら待ち、人々の関心が薄らいでいくのを期待している。
父の死は、局員による不正行為と共に、誰にも見止められることなくひっそりと葬られていくように仕向けられていたのだ。
(そんなこと、絶対に許さない。お父さんとお母さんの悔しい気持ちは、
きっと私が――…)
心は雑巾のように絞り上げられ、そこからどす黒く冷たいインクのようなものがしたたり落ちていく。それは体の中にどんどん溜まっていきながら体温を奪い、つま先から少しずつ凍りついていくような気がした。
「咲葵」
都倉さんが私の名を呼び、同時にひやりとしたものが私の手を優しく覆う。
体内が黒い何かで満たされていく感覚は、静かに薄らいでいった。強張っていた全身が緩み、手足に温かな血が巡り始めるのを感じながら大きく息を吸い込んだ時、私は自分が恐ろしい衝動に支配されていたことに気付いた。
「君は、一人じゃない」
真剣な眼差しが私を捉え、私もそれをまっすぐ受け止める。
「私が君を全力で守り抜く。何があっても、どこにいても」
「……」
「だから、そんな顔をしないでくれないか」
いくつかの瞬きの、その動きに押されるようにこぼれた雫は、私の頬を静かに濡らしていった。
私の手を優しくつつみ込んでくれる都倉さんの手は、ずいぶん冷たい。それでも温かい心は間違いなく伝わってきて、私は思わず笑みをこぼした。
「君には、いつもそうやって笑っていてほしい。だからもし、辛い時や苦しい時があればすぐに私を呼んでくれ。いいな?」
「……はい」
満足そうに微笑んだ都倉さんにそっと頭を撫でられ、少しの気恥ずかしさを感じた時だった。
(……?)
うんと古い記憶が呼び起こされるような、漠然とした感覚が心の端を横切った気がした。そちらへ意識を向けようとした瞬間、その感覚はまた深い闇へと吸い込まれてしまい、正体を突き止めることはできずじまいだった。でも確かに何かを感じたはずで、懐かしい思い出を辿った後に残る温かい気持ちも、こうしてちゃんと心にとどまってくれている。
(何だったんだろう、今の……)
私が思い出せる中で一番古い思い出を探ってみたけれど、手掛かりは見つからない。大事なことのような気がするから、どうにかしてはっきりさせたいのだけれど……。
「どうした?」
都倉さんが心配そうに私を覗き込んだので、私はあわてて首を横に振って何でもないことをアピールした。これ以上思い悩んでいたら、私が話を聞くことを躊躇っていると勘違いされかねない。
今のところは”何かを忘れている”ということをちゃんと覚えておいて、私は一旦このことから離れることにした。
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